太田述正コラム#7506(2015.2.24)
<中東イスラム世界における近代化の先駆者達(その1)>(2015.6.11公開)
1 始めに
中東イスラム世界における近代化へ向けての努力については、オスマントルコやエジプト等の為政者に焦点をあてて、過去、何度か取り上げたことがありますが、有識者達の個人としての努力に焦点をあてたコラム
http://www.theguardian.com/world/2015/feb/19/stop-calling-for-a-muslim-enlightenment
(2月20日アクセス)に遭遇したので、部分的に復習を兼ね、そのさわりをご紹介し、私のコメントを付したいと思い立ちました。
2 中東イスラム世界における近代化の先駆者達
 「テロ攻撃が起きるたびに、イスラム世界は近代化すべきである、との声が響き渡る。
 しかし、・・・イスラム教徒達は、何百年にわたって、新しいとされるあらゆるものに、一生懸命取り組んできたのだ・・・。・・・
 近代性の不可避な触手様の諸特性を高く評価する最も初期の中東人達の一人がイラン人のミルザ・ムハマッド・サレー・シラジ(Mirza Muhammad Saleh Shirazi)<(注1)>だった。
 (注1)1815~19年にイギリスに滞在。その滞在記を出版。また、1837年に新聞を発行し、専制的なカージャール(Qajar)朝ペルシャ政府のために、宮廷で下された諸決定を伝達するとともに、帝位簒奪を狙う者達を無害化することに努めた。
http://en.wikipedia.org/wiki/Mirza_Saleh_Shirazi
 彼は、皇太子のアッバス・ミルザ(Abbas Mirza)<(注2)>によって、有益な諸事柄を自国に持ち帰るべく、1815年にイギリスに派遣された。・・・
 (注2)1789~1833年。父皇帝より先に亡くなったので帝位を継げなかった。(彼の息子が帝位を継いだ。)ロシアとの歴戦を通じて、軍隊等の近代化の必要性を感じ、1811年と1815年に集団を英国に派遣した。
http://en.wikipedia.org/wiki/Abbas_Mirza
 ミルザ・サレーと彼の同僚たる学生達は、19世紀の間にイスラム諸国から欧州へと送り込まれたところの、類似の諸一行のうちのささやかな例示(sample)だ。
 1819年には、この5人のイラン人達は自国に召還され、ミルザ・サレーは、教師、外交官、そして、開拓者的な新聞所有者にして発行者として歩んでいった。
 (彼が生み出した諸物の一つが、行間にペルシャ語の翻訳を挿入したコーランだった。
 彼は、ティンダル(Tyndale)<(コラム#7324)>の聖書の英語訳の重要性を高く評価していたのだ。)
 彼と渡航を共にした仲間達の一人は、(新しい近代化された)<イラン>軍の技監(chief engineer)にまで出世し、<ロシアの>ピョートル大帝(Peter the Great)の伝記を翻訳したし、もう一人は、ロンドンで医学を勉強したのだが、帝室医官の称号を得、イランの最初の工芸学校(polytechnic)を設計した。
 一行中の唯一の職人(artisan)であった名匠(master craftsman)のムハマッド・アリ(Muhammad Ali)は、帝立鋳物工場の工場長になり、彼のイギリス人の妻は、イラン人達の家庭にナイフとフォークをもたらした。・・・
 恐らく、初期の近代化<イスラム>神学者達中の最も寿がれる者は、エジプトのリファー・アル=タフターウィ(Rifa’a al-Tahtawi)<(注3)(コラム#6989)>だ。
 (注3)1801~73年。エジプトのムハンマド・アリー朝の創始者たるムハンマド・アリー(Mohammed Ali)(コラム#5368、6989、7015、7017、7211)によって1826年にパリに送られた一団の一人。1831年に帰国し、1835年に諸言語学校(School of Languages)を設立。エジプト・ルネッサンスの創始者。
http://en.wikipedia.org/wiki/Rifa’a_al-Tahtawi
 「ムハンマド・アリー朝の下では西欧を敵視するのではなく、イスラム文化と西欧文化との共存が目指されました。フランス啓蒙思想を学んだ啓蒙思想家リファー・アル・タフターウィー(1801~73)は西洋思想をイスラムに紹介するなど西洋とイスラムの共存のため思想を説き、宗教家のジャマル・アル・アフガーニー<(Jamal al-Din al-Afghani)(コラム#2270、5650、5884)>(1839~97)は後に「汎イスラーム主義」と呼ばれる、イスラム教を近代西洋思想に対抗しうるような科学的、合理的なコーランの再解釈と連帯を唱え、アフガーニーの弟子で教育者の<ムハンマド・>アブドゥフ<(Mohammed Abduh)(コラム#2456、3273、5884)>はイスラム教下での民主主義の導入に向けた政治改革と自然科学教育を重視する教育改革を試みました。
 しかし、このようなイスラム社会と西洋社会の共存の試みは、残念ながら上手く行きませんでした。急速な近代化は社会の歪みを生み、また欧米列強との不平等条約に基づく市場開放はエジプト経済を不安定化させ、さらにスエズ運河の建設はエジプト財政を逼迫、1876年には財政破綻し英国が実質的に植民地支配に乗り出します。」
http://kousyou.cc/archives/3716
 リファーは、原型的な(archetypal)な「新」シャイフ(sheikh)<(注4)>だった。
 (注4)「部族の長老、首長、崇拝される賢人、あるいはイスラーム知識人を意味するアラビア語である。英語では、シークまたはシェイク(Sheik , Shaykh , Sheikh)などと発音・表記される。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%83%95
 すなわち、彼は、アズハル大学で麻薬をかがされた(chloroformed)後、外国で覚醒し・・彼の場合は、1820年代末にパリで学生生活を送ったわけだが・・、帰国して官僚機構に入り、文明の諸徳について囀った。
 文明は、アラビア語で、「都市」を意味する言葉からとられてtamaddunとされたが、彼はこの言葉を大いに広めた。
 未来は過去よりも良くなるだろう、という観念は、進歩についてのいかなる理解にとっても不可欠なのであり、リファーは、その観念を明確に採用した。
 すなわち、新しいものへの彼の愛は、心からのものであり、かつ弁解抜きのものだった。
 彼は、近代を退ける者を嘲笑した。
 彼は、改良されたアラビア語を推奨し、(諸学校のための最初のアラビア語文法書等を)一心不乱に出版し、エジプトの最初の新聞を編集した。
 1836年には、彼は、ギリシャ哲学や古代史から地理や幾何についての本に至る、2000冊の欧州とトルコの著作群をアラビア語に翻訳することによって、新しくかつ知られていなかった諸観念をエジプトに怒涛のごとく流入させたところの、翻訳局を設立した。・・・
(続く)