太田述正コラム#7508(2015.2.25)
<中東イスラム世界における近代化の先駆者達(その2)>(2015.6.12公開)
 リファーは、装飾よりも功利志向であるところの、フランス語の可塑性(malleability)に驚愕し、ミルザ・サレーが、その旅行記を通じてペルシャ語のためにやったのと同様、アラビア語に類似の諸原則を導入した。
 翻訳は知性の普遍性の一つの表現だが、中東の言語の一つ・・恐らく間違いなくそのうちの最も重要なもの・・であるオスマントルコ語は、この新しい諸観念を受け取ることができないままだった。・・・
 1850年代末から1860年代初の間、トルコ語は、イブラヒム・シナシ(İbrahim Şinasi)<(注5)>という名前の意地の悪い博学者の意図に沿うように改造された。
 (注5)1826~71年。19世紀トルコ文学において、欧化運動を創始し、率いた著述家。1849~53年にフランス留学。1865年にフランスに亡命し、トルコ語辞典を編纂し、1870年にトルコに帰国するも、隠遁生活を送った。
http://www.britannica.com/EBchecked/topic/545616/Ibrahim-Sinasi
 <彼は、>砲兵大尉の孤児としてイスタンブール・・・で育ち、そこで、奨学金でパリへ赴くまでの間、アラビア語、ペルシャ語、及び、フランス語を学んだ。
 彼は、人間の進歩と言語的発展のそれぞれの目標は相互に関連しているという鋭い自覚を抱いて帰国し、この双方を彼自身に適用した。、
 1860年に、シナシは、オスマントルコ帝国の最初の独立したトルコ語の新聞を共同創始し、そのすぐ後で、彼自身の新聞を発行した。
 「意見の表示(Illustration of Opinion・・・)」だ。・・・
 スルタンのアブデュルアジズ(Abdulaziz)<(注6)>は。この種の諸論説の中に失礼さと反政府扇動(sedition)を嗅ぎ付け、1865年1月には、帝国政府は、ナポレオン3世の例に倣って、検閲を導入した。
 (注6)1830~76年。皇帝:1861~76年。「1867年にはパリで開催中だった万国博覧会の視察を目的に、オスマン帝国の皇帝としては史上初となる西欧諸国歴訪を行った。その折に列強の持つ装甲艦に魅了された彼は、のちに海軍力の増強に力を入れ、その結果この時期のオスマン帝国海軍は軍艦の保有数だけでは世界有数となった。また、パリ、ロンドン、ウィーンなどの博物館も視察し、帰国後にイスタンブール考古学博物館を設立した。
 1863年にはオスマン帝国ではじめて切手が発行され、1875年に万国郵便連合に加入し、民法典も整備された。
 アブデュルアズィズこのような開明的な一面を持つ一方、帝国の財政が悪化しているのを顧みずにいたずらに宮殿の造営などの乱費を繰り返したりもした。
 また、力を注いだ海軍整備も、多くの艦船は外国製の中古である上に艦長もお雇い外国人であった。このため造船・操船とも技術が根付くことはなかったばかりか、艦船の購入と維持にかかる莫大な費用が国家財政を圧迫することにもなった。
 そして、これらにかかる費用は公債で資金調達されたため、オスマン帝国が事実上の破産状態に陥ることにもなった。
 アブデュルアズィズは西洋化そのものには積極的であったが、自らの権力に制限を加えることになる憲法や議会の創設には否定的であったため、当時「新オスマン人」と呼ばれた改革派から不満が上がるようになった。
 そのため、1876年に改革派の支持を背景にしたクーデターの結果、憲政樹立を主張するミドハト・パシャらによって廃位され、甥のムラト5世が即位した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%96%E3%83%87%E3%83%A5%E3%83%AB%E3%82%A2%E3%82%BA%E3%82%A3%E3%82%BA
 1か月以内に、シナシはパリに逃亡したが、新聞を統制することはできなかった。
 その後の11年間において、イスタンブールで入手できる諸新聞の数は4から72となり、最も人気のある諸新聞は24,000部売れるに至った。
 たとえもっと緩慢な物語だったとしても、事情はエジプトでも類似していた。
 そこでは、1881年には、新聞を読む公衆は72,000人に達した。
 イランにおける新聞革命は、<トルコ>同様に劇的だった。・・・
 トルコの著述家のファトマ・アリイェ(Fatma Aliye)<(注7)>の履歴は、いかに、新諸制度、テクノロジー、及び、変化した諸パターンが発作的な力でもって社会を変えつつあったかを示している。
 (注7)1862~1936年。トルコの小説家、コラムニスト、随筆家、女性諸権活動家、人道主義者。実質的な、トルコひいてはイスラム世界で最初の女性小説家。学校には行っていないが、家でアラビア語とフランス語を習得した。
http://en.wikipedia.org/wiki/Fatma_Aliye_Topuz
 <彼女は、>1862年にオスマントルコの高官の娘として生まれた・・・。・・・
 政治と歴史の逆風に照らせば、驚くべきは、若干のイスラム教徒達にとって近代性が辛い経験であったことではなく、それが、かくも広範にかくも成功裏に採用されたことだ。
 (数百万人のイスラム教徒達が、個人的主権と諸人権の近代的諸価値と調和的に生きている、という自明の真実ももまた、繰り返し伝えられなければならない。)
 中東と北アフリカから欧州への移住に伴い、1492年にイスラム教徒達のスペインからの追放によって終わったところの、地中海文化が生き返った。・・・」
3 終わりに
 近代化と欧米化とは別物であるわけで、それが証拠に、日本では、欧州等からの影響などなくして、瓦版・・讀賣とも言う・・なる新聞が、大阪の陣(1614、1615年)の頃には既に生まれており、欧州と時期的に大差ありません(注8)し、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E8%81%9E
女性による小説に至っては、紫式部によって、11世紀初頭までには『源氏物語』という、世界最古の長編散文小説が執筆されています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7750832.html
 (注8)エジプトで欧米流の新聞を読む人が、1881年・・同国で初めて発行されてから半世紀近く経った時点・・に72,000部に達していたと言っても、日本はその4年前の1877年・・欧米流の新聞が発行され始めてからわずか7年目・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%96%B0%E8%81%9E
に既に、読む人ならぬ、発行部数が93,286部にも達しており、
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2009/05/1149.html
エジプトの人口が、当時日本の4割程度だったと仮定しても
http://ecodb.net/country/EG/imf_persons.html
既に、日本との間で差がつく気配があった。
 ちなみに、最近の状況については、いつのデータなのか定かではないものの、一人当たり新聞発行部数で、日本は0.47であるのに対し、エジプトは0.02、トルコは0.01に過ぎず、
http://matome.naver.jp/odai/2131558443506826301
全く比較にならない。
 結局、新聞購読と女性小説家という、わずか2つの切り口から瞥見しただけでも、日本と中東イスラム世界の決定的な違いが、後者において、近代化のためのインフラが相対的に顕著に不足しているところにあること、が透けて見えてきます。
 新聞購読者が多い、ということは、識字率が高く、情報への欲求も高い、つまりは日本人の間で知的向上心が漲っていることを意味しており、また、女性小説家が大昔から活躍している、ということは、日本では男女平等で女性も積極的に社会参画していることを意味しています。
 換言すれば、日本の場合、かねてから、質的には国民の平均的な知的能力が高く、量的には女性を含む国民全体が生産的活動に従事している、という背景があるからこそ、近代化を急速に進展させることができた、ということです。
 中東イスラム世界では、こういった、近代化のためのインフラが不足しているので、為政者が近代化を試みてもうまくいかない、ということなのであり、その背景にあるのは、近代化のためのインフラ整備を妨げる種々の構造的要因であり、そのうちの大きな部分は、イスラム教そのものに帰せられる、と考えてよいでしょう。 
 
(完)