太田述正コラム#7606(2015.4.15)
<『大川周明–アジア独立の夢』を読む(その10)>(2015.7.31公開)
 「日本が南部仏印に進駐した1941年には<大川塾の>二期生が卒業している。彼らのうち6人が同年8月末に仏印派遣を通知され<た。>・・・
 この年の6月、南京攻略で知られる松井石根<(コラム#3536、4834、4837、4693、4968、4998、6262、6264、6268、6286、6288、6292、6294、6352、7604)>(陸軍予備役大将。戦後A級戦犯として刑死)がサイゴンを訪れ、記者会見を開いて「(安南人は)独立のために準備せよ」と談話して物議を醸した。・・・1933年(昭和8)、松井は近衛文麿、広田弘毅らと創立した「大東亜協会」<(注24)>で、「全亜細亜の団結と再組織への工作」を目指すことを謳ってクォン・デを支援し、独立を志す安南人の日本亡命を助けてきた。具体的には世田谷の東松原に住宅のほか、学生寮となる100坪ほどの土地を用意し、集めた安南人たちを教育したのである。戦中には同じ世田谷の桜上水の病院を買収して「如月会」という名の塾を創設、安南人留学生の教育の場としていた。さらに仏印では親日的な独立運動の組織、大越党と接触を持った。・・・
 (注24)「大東亜協会」は「大亜細亜協会」の誤り。
 少し長いが、松井の「大亜細亜協会」に至る軌跡を振り返っておこう。
 「明治42年(1909年)、清国滞在中に大尉から少佐へと昇進した。この頃から孫文と深く親交するようになった。
 松井は孫文の大アジア主義に強く共鳴し、辛亥革命を支援。陸軍参謀本部宇都宮太郎は三菱財閥の岩崎久弥に10万円の資金を供出させて、これを松井に任せ、孫文を支援するための元金に使わせた。その後も中国国民党の袁世凱打倒に協力した。
 松井は日本に留学した蒋介石とも親交があり、昭和2年(1927年)9月、蒋が政治的に困難な際に訪日を働きかけ、田中義一首相との会談を取り持ち事態を打開させた。田中首相は、一、この際、揚子江以南を掌握することに全力を注ぎ、北伐は焦るなということ、 二、共産主義の蔓延を警戒し、防止せよということ、 三、この一、二に対して日本は支援を惜しまないということこの三点を述べた。 最終的に二人のあいだで合意したのは、国民革命が成功し、中国統一が完成した暁には、日本はこれを承認すること。これに対して国民政府は、満洲における日本の地位と特殊権益を認めるーということであった。
 ・・・松井は当時すでに中国は蒋介石によって統一されるであろうという見透しを抱いていた。日本は、この際進んで目下失意の状態にある蒋を援助して、蒋の全国統一を可能ならしむよう助力する。そのためには張作霖はおとなしく山海関以北に封じ、その統治を認めるが、ただし蒋の国民政府による中国統一が成就した暁には、わが国の満蒙の特殊権益と開発を大幅に承認させることを条件とするという構想であった。・・・
 ところが、昭和3年(1928年)5月3日、済南事件が起き、陸軍内で蒋介石への批判が相次いで、日中関係は松井の意図に反した方向へと流れていった。
 同年6月4日、張作霖爆殺事件が勃発。この事件の発生により、松井が実現させた「田中・蒋介石会談」の合意内容は完全に瓦解した。松井は張作霖を「反共の防波堤」と位置づけていた。それは当時の田中義一首相らとも共通した認識であった。松井は首謀者である関東軍河本大作の厳罰を要求した・・・。しかし、結局うやむやのままになり、昭和天皇の怒りを買って田中義一が首相を辞めることになった。・・・
 一方、蒋介石も日本への不信感を濃くした。昭和6年(1931年)9月満州事変、昭和7年(1932年)3月満州国建国を経て、蒋介石の反日の姿勢は間違いなく強まっていった。
 蒋介石との連携によるアジア保全の構想は破綻したものの、松井は昭和8年(1933年)3月1日に大亜細亜協会を設立した(松井は設立発起人、後に会長に就任)。会員には近衛文麿、広田弘毅、小畑敏四郎、本間雅晴、鈴木貞一、荒木貞夫、本庄繁など、錚々たるメンバーであった。「欧米列強に支配されるアジア」から脱し、「アジア人のためのアジア」を実現するためには「日中の提携が第一条件である」とする松井らの「大亜細亜主義」が、いよいよ本格的な航海へと船出した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E4%BA%95%E7%9F%B3%E6%A0%B9
 松井や彼に近いアジア主義<(注25)>的な日本人は、フランスに懐柔されたバオダイ皇帝を廃位し、クォン・デを帝位に推して独立を実現しようとしていた。
 (注25)「当初は日本と中国(支那)・朝鮮との対等提携指向を指すものであったが、江華島事件や壬午事変、甲申政変を経て起こった日清戦争で、元来のアジア主義の理念は一旦崩壊し、政府や国内の新聞も清や朝鮮への対外強硬論が主流となり、日清戦争以後の亜細亜主義の定義は、元来のアジアとの平和協調路線とは完全に正反対のものになった。
 日露戦争以降のアジア主義の定義は、東アジアにおける日本の優位を前提にアジアの革命勢力を支援する思想に発展し、やがて日本を盟主としたアジアの新秩序構築(アジア・モンロー主義あるいは大アジア主義)、そして昭和研究会による「東亜協同体論」としての政策化、大政翼賛会の興亜総本部や大日本興亜同盟による統制、そして「東亜新秩序」「大東亜共栄圏」構想へとつながっていく。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E4%B8%BB%E7%BE%A9
 松井のように表には出ないが、大川塾生たちは独立支援の任務に就いていた。同年10月、フランスの弾圧から逃れさせるべく、ゴ・ディン・ジェム<(注26)>をユエからサイゴンに送り出したのは、その一例だ。」(180、185~187)
 (注26)Ngo Dinh Diem(1901~63年)。ベトナム国初代首相:1954~55年。南ベトナム初代大統領:1955~63年。「フエの貴族の家に生まれた。1933年にバオ・ダイ帝の「親政」開始に伴い、フランス領インドシナの保護国(植民地)であった阮朝宮廷の内相に[仏植民地当局によって任命され]就任する[が、仏植民地当局及びバオ・ダオ双方に失望し、3か月で辞任する。]・・・。・・・1945年3月に仏印処理(明号作戦)によりベトナム駐留フランス軍が武装解除され、日本軍が実権を握った時に阮朝宮廷政府の新内閣組閣を請われるが、これを[彼は、一旦断りすぐ翻意するも、既に他人が首相に就任していて後の祭りだった]。・・・<彼は、>熱心なカトリック教徒であった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%82%A8%E3%83%A0 ←極度に出来が悪い!
http://en.wikipedia.org/wiki/Ngo_Dinh_Diem ([])
⇒フランスの傀儡政権の長であったバオ・ダイも、仏教国ベトナムにおいて少数派でしかも親仏的イメージが付き纏うところの、敬虔なカトリック信徒であったゴ・ディン・ジェムも、日本が庇護・連携する相手としては不適切でした。
 もとより、クォン・デについても、孫文や蒋介石の評価を誤った松井が推したのですから、かかる相手として適切であったかどうか、分かったものではありません。
 (クォン・デが戦後まもなく日本で客死したこともあり、今となっては、デの月旦をするのは困難です。)
 いずれにせよ、ナチスドイツが、フランス全体を占領せずに、ヴィシー政権を残し、同政権にフランスの全植民地を引き続き保持させたために、日本が、インドシナについて、実質的なフリーハンドすら得られず、手が甚だ縛られたことが、戦後における、ベトナム共産党による、北ベトナム、ひいてはベトナムの権力掌握やカンボディアやラオスにおける共産主義政権の樹立をもたらした、と言えるのかもしれません。(太田)
(続く)