太田述正コラム#7620(2015.4.22)
<『日米開戦の真実』を読む(その4)>(2015.8.7公開)
 「この頃のアメリカは、当時の大統領ブキャナン<(注4)>が1857年5月、支那使節に任命されたウィリアム・ピッドに与えた教書において「支那において我が同胞の通商と生命財産の保護以外には、いかなる目的をも追求せざることを銘記せよ」と述べている通り、当時支那に起こりつつあった長髪族<(太平天国)>の乱に対しても、傍観的態度を取り、ペリーが画策した琉球占領計画をも「面白からぬ提案」としてしりぞけ、またこれと時を同じくして、台湾を米国の保護領とせよという宣教師パルケルの画策をも黙殺しております。
 (注4)James Buchanan, Jr.(1791~1868年。大統領:1857~61年)。「18世紀生まれの最後の大統領であり、結婚しなかった唯一の大統領である。また、ペンシルベニア州から選出された唯一の大統領でもある。」ディッキンソン単科大学卒。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%83%96%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%8A%E3%83%B3
⇒外国で米国系の人々や米国人達が、その地の米国への併合を画策し、それに、米国内の拡張主義者達が呼応して、米国が軍事力を行使してその地を併合した、しかも、その際、米国による宣戦布告がその地の一つ(カリフォルニア)の付近に所在した米陸海軍に届く前に、これら部隊が独断で同地内の米国人達と示し合わせて、外国で戦端を開いた、というのが、当時、終わったばかりの米墨戦争(1846~48年)の実態であった
http://en.wikipedia.org/wiki/Mexican%E2%80%93American_War
ところ、同じようなことが、北東アジアで繰り返されることをブキャナン大統領は警戒したのでしょう。
 当時、北米において米国と国境こそ接していたけれど、英国のカリフォルニアに対する支配欲は殆んどなかった
http://en.wikipedia.org/wiki/Mexican%E2%80%93American_War 前掲
のに対し、北東アジアにおいては英国は香港を領有するとともに、確固たる経済的権益を確保しており(典拠省略)、メキシコとの戦争とは違って、米国が支那や日本との戦争を起こした場合、英国の軍事介入が避けられなかったであろうことを想起すれば、ブキャナンは警戒して当然だったのです。
 要するに、当時の米国は、北東アジア侵略の意図はあったけれど、その能力がなかったというだけのことなのに、大川は、あたかも、当時の米大統領に侵略意図そのものがなかったかのような寝言を吐いたわけです。
 ブキャナンの前々任のフィルモア大統領が、ペリー艦隊を派遣することで、米国は、既に、将来の北東アジア侵略のための布石を打ち終わっていた、ということなのに・・。(太田)
 時の国務長官シュワード<(注5)>は、将来太平洋が世界政局の中心舞台たるべきことを力強く主張したので、歴史家は好んで「シュワード時代」または「シュワード政策」という言葉を用いますが、実際においては、何ら積極的活動を太平洋または東亜において試みておりません。
 (注5)ウィリアム・ヘンリー・スワード(William Henry Seward, Sr.。1801~1872年。国務長官:1861~69年)。エイブラハム・リンカーンとアンドリュー・ジョンソン両大統領の下で国務長官を務めた。「<彼は、>反奴隷制を掲げる指導者として頭角を現した・・・国務長官として・・・は<米>国が西部に拡大すべきと主張した。アラスカ購入の交渉に尽力し、1867年・・・720万ドルでロシアから購入した。・・・他にもデンマーク領ヴァージン諸島とドミニカのサマナ湾を併合し、またパナマをアメリカの統治下に置く画策をした。しかし、上院はこれらの条約を批准しなかった。」ユニオン単科大学卒。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%89
⇒「時の国務長官」と大川は言うものの、シュワード(スワード)は、ブキャナンのではなく、リンカーンらの国務長官だったのですから、「時の」ではおかしいですし、「シュワード時代」や「シュワード政策」、といった言葉も私は聞いたことがありません。
 (下掲↓にも全く出てこない。)
http://en.wikipedia.org/wiki/William_H._Seward
 他方、アラスカの購入とか、中米への領土拡張計画だとか(日本語ウィキペディア前掲)からして、シュワードが、「実際においては、何ら積極的活動を太平洋または東亜において試みておりません」というのも、少なくとも「太平洋」に関しては、甚だ不正確です。(太田)
 1850年に至って一旦は著しく活発となったアメリカの太平洋及び支那に対する活動は、1861年に始まった南北戦争以後、1898年のフィリピン占領に至る40年間、甚だ消極的となったのであります。」(45~47)
⇒これは、単に、米国は、南北戦争前から後にかけて、対外政策に腰を据えて取り組むことなどできず、国内のことにほぼ専念せざるをえなかった、というだけのことです。
 大川は、米国の、日本にとって悪しき方向への変質、という彼の思い付き的米国史観に沿うように、意図的に、或いは、無知ないし軽率ゆえに、史実を捻じ曲げている、と批判されても致し方ないでしょう。(太田)
(続く)