太田述正コラム#0323(2004.4.18)
<イラクの現状について(おさらい4)>

4 フセイン政権崩壊が中東に及ぼした巨大なインパクト

 米英両国によるイラク戦争の決行とその結果としてのフセイン政権崩壊以降、巨大な地殻変動が中東で起きています。パレスティナ、イラン、及びシリアを例にとってご説明しましょう。

 (1)パレスティナ紛争の終焉
 パレスティナ紛争の終焉にフセイン政権崩壊が大きな役割を果たしたことについては、既に(コラム#321)ご説明したところです。
 ここでは念のため、パレスティナ紛争が既に事実上終わっていることの証左を挙げておきましょう。
イスラエルによる3月22日のヤシン師暗殺(コラム#300)にもかかわらず、その後、ハマス(とイスラム聖戦機構・・Islamic Jihad。パレスティナ当局を担うファタのテロ組織・・共同)の自爆テロは4月17日にもなって一件起こっただけであり、しかもその場所は、イスラエル領内ではなく、ガザとイスラエルの境界の検問所でした(イスラエル警官一名死亡、一名重傷、二名軽傷)(http://www.haaretz.com/hasen/spages/416417.html。4月18日アクセス)。
もはや、パレスティナテロ組織は、イスラエルに対してまともに「軍事行動」をとることができなくなっているのです。
 同じ日にイスラエルは、武装ヘリから発射されたミサイルで、ヤシン師亡き後のハマスの共同指導者二名中の一名であるランティシ(Abdel Aziz Rantisi)を、ランティシの息子と護衛一名ともども車での移動中に殺害し、ハマスに再び大打撃を与えました。昨年6月10日にランティシ暗殺を試みた際には軽傷を負わせただけでしたが、今回は成功したわけです。
 (これに対し、米国は理解を示しましたが、アラブ諸国はもとより国連事務総長、EU、日本等、そして英国に至るまで、米国以外の全世界が批判しました。これはシャロン首相が、そのパレスティナ紛争解決策(disengagement plan)を、自分の連立政権内及び出身のリクード党内の右派をなだめすかしつつ、野党の労働党との連携をも視野に入れて、イスラエル議会に受け入れさせようとしていることから、ブッシュ米大統領との会談から帰国した直後のタイミングを選んで右派に受けの良い対ハマス強硬策に出たもの、と解することができます。)
(以上、http://www.haaretz.com/hasen/spages/416422.html及びhttp://www.haaretz.com/hasen/spages/416422.html(4月18日アクセス)による。)

(2)イランの穏健化
イランが2002年1月にブッシュ政権によって、イラク、北朝鮮と並ぶ悪の枢軸として名指しされたことはご記憶のことと思います。
昨年3月にはイラク戦争が始まり、主要な戦闘終結宣言が発せられた5月には、イラン人が関わったと考えられている、サウディでの外国人居住地区への自爆テロが起こっています。
その頃から米国は、イランの核兵器開発疑惑とレバノンのヒズボラ(Hezbollah。注5)へのイランの支援を激しく糾弾し始めました。
(以上、http://www.nytimes.com/2004/04/15/international/middleeast/15IRAQ.html?pagewanted=2&hp(4月15日アクセス)による)。

(注5) 「神の党」を意味する。1982年のイスラエルのレバノン侵攻を契機に結成され、イランからの資金・武器援助を得てレバノンにおいてイラン流のイスラム国家建設を目指す組織とされている。もっぱら南レバノンにおいて対イスラエル抵抗運動を続け、2000年5月にイスラエル軍が南部レバノンから撤退した後もシェバア農地がレバノン領土である旨主張して断続的にイスラエルを武力で挑発し続けている。その背後にはシリアが控えているとされる。(http://www.meij.or.jp/countries/lebanon/amaki4.htm。4月18日アクセス)

2001年10月に米国がアフガニスタン戦争を始めて以来、イランの東隣のアフガニスタンは事実上米国の支配下にあり、西隣のイラクもまた昨年3月に米国がイラク戦争を始めて以来、事実上米国の支配下にあります。
いわば、イランは左右から米国の軍事的脅威をつきつけられている形です。
これにたまらず(と私は考えているのですが)、イランが豹変する兆候を見せたのが昨年10月です。
核疑惑に対して当初、原子力発電しか考えていないと反論していたイランは、10月に態度を一変させ、ウラン増殖計画の凍結とIAEAによる抜き打ち査察に応じる旨、英国、フランス、及びドイツに誓約しました。
その後、イランはこの誓約の履行をしぶっていましたが、今年4月に入ってから、ようやくIAEAとの間で、核査察日程表について合意に達しました。
(以上、http://au.news.yahoo.com/040407/21/ogja.html(4月18日アクセス)による。)
それだけではありません。
4月10日には、イランのハタミ(Mohammad Khatami)大統領が、サドル師率いるシーア派急進派の蜂起について、「イラクにおける危機を増幅させ、安全を確立することを妨げるいかなる動きも、シーア派やイスラム教にとって害があると考える」と述べ、間接的に非難しました。
イランの影響下にあるナジャフのイスラム有識者達(注6)からの働きかけもあり、イランの政府使節がイラクに到着した前後にサドル師は蜂起目的をトーンダウンさせ、イラクのシーア派聖都すべてからの米軍の撤退とシーア派急進派で拘束されている者全員の解放がなくても、米軍と交渉に入る用意があると言ったとされています。
(以上、ニューヨークタイムス前掲及び(http://www.guardian.co.uk/Iraq/Story/0,2763,1192208,00.html(4月15日アクセス)による。)

(注6)現在のイラクにおけるイランの影響のいくつかを列挙すれば以下の通り。
ア サドル師は、現在もイランの聖都コムにとどまっているイラク出身の某大アヤトラのイラクでの代理に昨年4月指名されたことが、注目されるきっかけになった。
イ イラク統治評議会メンバーである某アヤトラは、1982年にイラン政府によって設立されたイラクイスラム革命最高評議会(Sciri)の議長であり、22年間のイラン亡命の後、昨年イラクに帰国した。彼は、イランがスポンサーとなり、教育訓練も行っているバドル(Badr)旅団という民兵1万人を率いている。
ウ イラクのシーア派全体の尊敬を集める大アヤトラのシスタニ師は、イラン出身であり、53年前にイラクにやってきた。彼の慈善活動や、彼を支える諸財団はイランに本拠を構えている。
エ フセイン政権崩壊後、イランからイラクのシーア派聖都への巡礼が解禁され、今では一日1万人の規模に達しており、イラクにとって大きな資金源となっている。
(以上、http://news.bbc.co.uk/2/hi/middle_east/3629765.stm(4月16日アクセス)による。)

 このように、イランは今ではイラクの安定化に協力するほど穏健化しているのです。

(続く)