太田述正コラム#7794(2015.7.18)
<米独立革命の罪(その4)>(2015.11.2公開)
 ・・・ペインの大西洋遍歴(odysseys)は18世紀においては珍しいことではなかった。・・・
 パンフレット作者達は、1782年にジュネーヴで、1787年にオランダ(the United Provinces)で、そして、1787~89年にはベルギーで叛乱へと人々を糾合した。
 その各人は、米国を革命の道標星と仰ぎ、参加した人々は、自分達自身をより広範な国際叛乱の一部と考えていた。
 ベルギーの反乱の間、愛国派達が彼らのオーストリア人統治者のヨーゼフ2世(Joseph II)に対して蜂起した時<(注15)>、一つのパンフレットでは、「18世紀末においては、地球の表面の全域で諸革命が目撃されることが予め運命づけられていたかのように見えた」、と宣言していた。・・・
 (注15)「オーストリア領ネーデルラント<において、>・・・1789年にハプスブルク=ロートリンゲン家の支配に対してブラバント革命が起こり、1790年には独立国家であるベルギー合衆国が建国されたが、短期間で滅ぼされた。ベルギー(およびルクセンブルク)は、・・・再びハプスブルク家の支配下に戻った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AE%E3%83%BC
 欧州の公衆は、ポーランドから発せられる、タデウシュ・コシチュシュコ(Tadeusz Kościuszko)<(コラム#5840)>・・米独立革命の英雄でありかつフランスの名誉市民・・によって率いられたところの、1791年の憲法の導入の後にこの国を分割した、オーストリア、プロイセン、及び、ロシア各帝国に対する、反抗運動の諸報告によって心を捉えられた。
 特別諸クラブが欧州中の町々に出現し、コシチュシュコのワルシャワへ向けての行進の諸物語が、ポーランドのジャコバン達を歓呼して迎える元気一杯の諸群集に対して大声で読まれることとなった。<(注16)>・・・」(A)
 (注16)「弱体化し<てい>たポーランドに対し、まず、ロシアのエカチェリーナ2世がその全土の保護領化を狙った。それを恐れたプロイセンのフリードリヒ2世が、オーストリアのヨーゼフ2世(実権はマリア=テレジア)をさそい、1772年に第1回の分割をポーランドに認めさせた。
 第1回分割はポーランド国内に深刻な危機感を呼び起こし、国王による改革が行われ、憲法も制定された。・・・<すなわち、>1791年には「5月3日憲法」が制定され、・・・立憲君主制・三権分立・義務兵役制などが定められた。この憲法は、<米国>憲法に次ぐ早い時期の近代的憲法であった。・・・また王位も不安定な選挙王制をやめ、ザクセン家の世襲とされた。・・・しかし、<エカチェリーナ2世の軍事介入により、>この憲法は1年<で効力を停止された>。・・・<これ>に反対したコシューシコなどの将校は辞任して亡命した。・・・
 エカチェリーナ2世は、<更に、>・・・、プロイセンのフリードリヒ=ウィルヘルム2世とともに、1793年に第2回分割をポーランドに迫り、承認させた。・・・この第2回分割に対して、翌年、ポーランドのコシューシコは農民を組織して蜂起し、ロシア軍と戦ったが敗れ、1795年に第3回分割が、ロシア、プロイセン、オーストリアの3国によって行われて、ポーランドは国家としては地図上から消滅する。
http://www.y-history.net/appendix/wh1001-167.html
 (3)革命の父達による子達の弾圧
 <この本>は、積極的なメッセージを持っている。
 国際主義のルーツは、国民国家群と同じ位古い」ということだ。・・・
 しかしながら、より暗い印象は、いかに楽々とその闘争が裏切られたか、というものだ。
 国境なき世界のために戦った18世紀の世界主義者(cosmopolitan)達は、彼らが構築することを助けたまさにその諸社会によって捨てられた。
 1802年に米国に戻ったペインは、投票する権利を否定され、政治的支配層(establishment)に袖にされ、静かに自分の農場で引退生活に入った。
 フランスでは、コンドルセ(Condorcet)<(コラム#798、6883)>が隠れて住むことを強いられ、1794年に監獄で死んだ。
 公安委員会(Comite de salut public=Committee of Public Safety)<(注17)>は、プロイセンに生まれた貴族のアナカルシス・クルーツ<(前出)>も投獄した。
 彼は、普遍的な共和国を擁護し、1793年に入獄させられた時、ペインと同房だった。
 1794年3月24日、大群衆の前で、クルーツは、「世界の共和国、万歳!」と宣言した。
 その直後、彼は首を切り落とされた。」(A)
 (注17)「革命期のフランスに1793年4月7日から1795年11月4日まで存在した統治機構で、途中1794年7月27日までは事実上の革命政府。・・・初期にはダントンが、続いてロベスピエールが主導したが、テルミドール9日のクーデターの後は形骸化した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E5%AE%89%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A_(%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E9%9D%A9%E5%91%BD)
⇒私は、これまで、イギリス(アングロサクソン)文明を誤読しつつ、イギリスを追い抜こうとして、欧州はプロト欧州文明を欧州文明に変容させ、その欧州文明が必然的に民主主義独裁を生んだ、と指摘してきたところですが、民主主義独裁を生み出す際に、産婆役を務めたのが、できそこないのアングロサクソン・・アングロサクソン文明と欧州文明のキメラを体現・・たる、英領北米植民地人達転じて米国人達だったわけです。
 ドイツ系米国人経済学者のハーシュマン(Albert O. Hirschman)(コラム#586、7310)が、『離脱・発言・忠誠――企業・組織・国家における衰退への反応(Exit, Voice, and Loyalty: Responses to Decline in Firms, Organizations, and States)』(1970年)
https://en.wikipedia.org/wiki/Exit,_Voice,_and_Loyalty 
の中で展開した概念を借用すれば、タテマエとして打ち出された民主主義や平等主義や博愛主義(利他主義)が、資源が豊富な米国でこそ、不満分子は「離脱」ができる故に、暴力を伴う革命をもたらさなかった・・但し、最初の「離脱」、すなわち、独立の際においてのみ、暴力を伴う一種の革命が必要だった・・けれど、資源が稀少であったところの、欧州、後にはアジアにおいては、不満分子は基本的に「発言」しかできなかったが故に、暴力を伴う革命の(繰り返しを含む)チェーンリアクション・・ナショナリズム革命、共産主義革命、ファシスト革命・・を引き起こした、ということです。
 復習を兼ね、念のためですが、イギリスは革命とは無縁であったことを銘記してください。
 清教徒革命は、それに対応する英語は存在せず、単なるイギリス内戦でしたし、名誉革命は、暴力を伴わない以上、革命ではなかったのです。(太田)
(続く)