太田述正コラム#7800(2015.7.21)
<資本主義とポスト資本主義(その1)>(2015.11.5公開)
1 始めに
 7月19日に、それぞれ、資本主義とポスト資本主義に関する興味深いコラムが、それぞれ、ファイナンシャルタイムスとガーディアンに載っていた
http://www.ft.com/intl/cms/s/0/33d82de6-2bc3-11e5-8613-e7aedbb7bdb7.html#axzz3gI
http://www.theguardian.com/books/2015/jul/17/postcapitalism-end-of-capitalism-begun
ので、この二つのコラムの内容の概要をご紹介するとともに、適宜、私のコメントを付そうと思い立ちました。
2 資本主義
 最初のコラムには、ジョン・プレンダー(John Plender)の今月発売の著書、『資本主義–貨幣、諸道徳、諸市場(Capitalism: Money, Morals and Markets)』の、著者本人による要約である、との断り書きが付いていました。
 ちなみに、プレンダーは、オックスフォード大卒、公認会計士転じてジャーナリスト、FTの編集長となり、英外務省の政策企画スタッフを務めた後、もう一度FTに戻り、現在は同紙の上級編集記者兼コラムニスト、という人物です。
http://www.londonspeakerbureau.com/speakers/john_plender
 「経済学者のジョン・メイナード・ケインズ(John Maynard Keynes)は、「資本主義は、最も汚い(nastiest)人間達の最も汚い諸動機が、どういうわけか考え得るあらゆる諸世界における最善の諸結果をもたらす、という、驚愕すべき信条だ」、と喝破したとされる。
 カネの道徳的性格についての憂慮は、少なくともプラトンとアリストテレスの昔にまで遡る。
 プラトンは、『法律(Laws)』<(注1)>の中で、[プラトン自身と目される]アテネ人の演説家に、ビジネスに対し、「人間達の精神を、悪漢的(knavish)かつきわどい(tricky)諸方法で出血させている」、として非難を浴びせさせている。
 (注1)プラトン最後の対話編。「ソクラテスも登場せず、舞台もアテナイではなく<クレタ島であり>、また全12巻から成る長編であるといったように、かなり異色な作品となっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E5%BE%8B_(%E5%AF%BE%E8%A9%B1%E7%AF%87) ([]内も)
 アリストテレス(Aristotle)もまた、商業には眉を顰め、それは不名誉な営みであって市民的義務(commitment)を掘り崩す、とみなした。
 そして、金持ちになる時間などなかったところの、イエスもいたし、聖パウロは、カネへの愛はあらゆる悪の根源(root)である、と言明した。・・・
 <欧州の中世においては、>貴族達にふさわしい諸経歴と言えば、軍事(arms)、荘園(estate)管理、そして聖職、だけだった。
 節倹と起業(thrift and enterprise)というブルジョワ的諸徳が、そこに登場する余地などなかったのだ。
 同じことがアジアの大部分にも当てはまる。
 支那の初期の儒学者達は、紳士兼学者達から始まり、田舎の農民達、次いで職人兼工芸家達、そして一番下に商人達と交易者達、という4つの諸職業、からなる、諸天職の階統制がある、と教えた。
 1868年の明治維新までの何世紀にも及ぶ、同様の階層化された日本の封建社会においても、下降順で、武士から、農民、職人、そして最後は、せいぜい必要悪とみなされた商人、という社会階統制があった。
⇒私が「日本語ができないことが世界の弱点」と指摘した(コラム#7791)ことを思い出してください。
 プレンダーは、日本のいわゆる士農工商「制」(コラム#5358)についての、誤っていた戦前の日本における説を改めていない英語文献が頭に入っている、ということであり、そういった歪んだ知識の影響で、日本は欧米の影響で近代化した、という俗説に囚われているため、日本文明の普遍性(超近代性)に気付く術がない、という気の毒な状況であるわけです。
 これは、日本自身にとってはともかく、(ステルスで日本文明の総体的継受を行いつつある)中共にとってはもっけの幸いである、と言うべきでしょう。(太田)
 どうして、これほど汚名がビジネスと金融には付いて回るのだろうか。
 経済的文脈がその答えを部分的に提供する。
 <世界中どこでも、>何世紀にもわたって、一人当たり所得は全くないし殆んど伸びなかった。
 成長がない以上、交易は、一人の利潤が不可避的に他の一人に損失を被らせるゼロサムゲームのように見えた。
 こうして、交易の道徳的基盤はうさんくさく映ったのだ。
 この偏見は、まず、イスラム世界で崩れ始めた。
 そこでは、預言者ムハンマドが、反金融だが向交易だった。
 支那では、宋と明の2王朝の下で、10世紀から17世紀にかけて、次第に商業化が進み、支那の官僚制が依然として資本主義経済の発展の強力なブレーキではあったものの、職業の諸範疇の緩和が見出だせ、富裕商人達の地主郷紳への吸収が起こった。
 欧州におけるビジネスの準尊敬性への長い行進は、まともな意味では、イタリアの都市国家群において始まった。
 12世紀から14世紀の間に、商人達と銀行家達は、強力な統治貴族階級へと融合し、権力と土地との繋がりを切断した。
 彼らの諸経済<社会>は、市場での交換、及び、相当明確な財産諸権、によって支えられたという意味で、カネに立脚したプロト資本主義になった。
 ボッカチオ(Boccaccio)<(注2)>は、『デカメロン(Decameron)』<(注3)>の中で、「商人達は清潔で洗練された人々だ」、と宣言することさえできたのだった。
 (注2)ジョヴァンニ・ボッカッチョ(Giovanni Boccaccio。1313~75年)。「中世イタリア、フィレンツェの詩人、散文作家。・・・代表作は1349年から1351年に書かれた『デカメロン』」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%8B%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%83%E3%83%81%E3%83%A7
 (注3)ダンテの『神曲』に対して、『十日物語』や『人曲』とも呼ばれる。デカメロンはギリシャ語の「10日」(deka hemerai) に由来にする。1348から53年にかけて製作された。1348年に大流行したペストから逃れるために邸宅に引きこもった男3人、女7人の10人が退屈しのぎの話をするという趣向で、10人が10話ずつ語り、全100話からなる。内容はユーモアと艶笑に満ちた恋愛話や失敗談など」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%AB%E3%83%A1%E3%83%AD%E3%83%B3
(続く)