太田述正コラム#7808(2015.7.25)
<2015.7.25東京オフ会次第(その1)>(2015.11.9公開)
1 始めに
 本日、午前中に、先般、コンサートに招待してくれた読者から、宅急便で缶ビール24本の差し入れがあり、本日の出席者中の希望者に、第三のビール同様、1缶100円を拠出・・但し、私にではなくオフ会基金に・・してもらう形で、オフ会にて、早速活用させてもらいました。
 何せ、このところずっと、ホンモノのビールにありつけるのは、友人達との年2回の同窓会の時だけなので、ここしばらく、ホンモノのビールを飲み続けることができるのは、有難いことです。
2 オフ会次第
 「講演」を書評類をもとに特定の本の概要を説明し、私のコメントを付する形で行うのは、不適当であることに、本日午前中に、原稿を斜め読みしている時に気付きました。
 私のコメント部分は別にして、私自身の考えを私自身の言葉で語っているわけではないので、語りづらいのです。
 その後の、face to face discussion の概要は以下の通りです。
 (順不同。同じアルファベットが同じ人を表すわけでは必ずしもない。Oは私。)
A:中共の人々が、人間主義的な日本人が日支戦争の時にどうして非人間主義的なことをやったのか、を現在考えさせられている、との太田さんの指摘を聞いて、自分が太田コラムと出会うまで考えていたことと同じである、ということを思い出した。
O:既に、中共当局が、その解答を提示する端緒が見えた、ということを比較的最近のコラムで指摘したところだ。
 降伏後の日本軍が中国共産党に、その軍の訓練等の面で積極的協力をした事実を指摘し始めた、と。
 現在どころか、戦争直後の日本軍(日本人)だって人間主義的だったというのだから、その直前の戦争中だって日本人は人間主義的だったはずだ、と目端の利く中共の人民ならば、考えるはずだ。
 実際のところはどうだったか。
 これも、比較的最近のコラムで書いたように、日本軍は、中国共産党に対しても、人間主義的な対応をし続けたわけだ。
 それこそ、阿片を含む商取引を、日本軍と中国共産党は日常的に行うことで共存共栄を実現していた。
 日本軍は、中国共産党が、依然蒋介石軍と潜在的敵対関係にあり、日本軍とまともに戦う気など蒋介石軍以上にないことだけではなく、中共軍が奉じている共産主義など、日本を通じて学んだ紛い物であって、早晩、ソ連とは袂を分かつことを見抜いていた、とすら思いたいくらいだ。
B:人間主義を日本が世界に普及させることは本当にできるのか?
O:スタンフォード・ビジネススクールのカリキュラムが念的瞑想付の日本的経営になっていて驚いたという話を最近のコラムに書いた。
 それは、まずベイエリアに伝播し、全米に広まり、やがて世界に広まって行くだろう。
 日本がやるべきことといったら、実はそれ、日本的経営なんです、と訴えること(と、念的瞑想って、日本人的になる、すなわち、人間主義的人間になる、ための方法論なんですよ、と訴えること)だけでいいのだ。
 ただし、ある程度まで、念的瞑想付きの日本的経営が世界に普及したら、その時点以降、人間主義だけでは、国家は維持できませんよ、と言わなきゃならない。
 人間主義だけの国家は、最近では、チベットがいい例だが、亡命政府しかなく、「国」は事実上滅びてしまっている。
 滅びるのがいやだったら、縄文的な人間主義だけじゃダメなのであって、弥生人的な非人間主義が、人間主義と提携した形で存在しなければならない、という点を強調する必要があるのだ。
 日本でかつて起こったような、人間主義と非人間主義の提携が、これから、日本的な国家たらんと欲する国において、どのように実現したらよいか、これこそ、日本人が今から、その方法論を開発しなければならない。
 その間、できるだけ早い時期に、日本は米国からの「独立」を果たし、弥生的部分を宗主国にぶん投げた状況を改め、縄文的な人間主義の弥生的な非人間主義との再提携を実現する必要がある。
C:弥生的な非人間主義の日本人はもはや絶滅したのでは?
O:例えば、自衛官は、その少なからぬ部分が、人間主義的な非人間主義者・・縄文的弥生人・・として育っている。
 だから、そう心配するには及ぼない。
D:安保法制ないし集団的自衛権(部分的)行使の必要性を日本人の年配の女性などに説明し、納得させる方法はないものか。
O:ない。
 なぜなら、日本に対する領域的脅威がないからだ。
 政府が行っている説明は、全てウソだというわけだ。
(続く)