太田述正コラム#0342(2004.5.7)
<イラクの現状について(号外篇3)>

(2)サドル師の反乱収束へ
「イランの影響下にあるナジャフのイスラム有識者達からの働きかけもあり、イランの政府使節がイラクに到着した前後にサドル師は蜂起目的をトーンダウンさせ、イラクのシーア派聖都すべてからの米軍の撤退とシーア派急進派で拘束されている者全員の解放がなくても、米軍と交渉に入る用意があると言った」、と報じられた(コラム#323)のが4月の中旬でした。
4月23日には、ナジャフ(注4)のアリ(Ali)を祀る墓廟のモスクにおいて、ある導師が、その3週間近く前からナジャフに居座っており、武器を持ってモスクの周りにたむろしているマーディ民兵を物ともせず、彼らを、「民家、モスク、市場に逃げ込み、女性や子供を楯にするのは臆病者のすることだ。みんなをだまされるな。連中はサダム体制の申し子であり、元諜報将校達だ・・」と口を極めて罵りました(http://www.nytimes.com/2004/04/24/international/middleeast/24NAJA.html。4月24日アクセス)。
これはサドル師率いるマーディ民兵がいかにシーア派の多数から浮き上がった存在であるかを如実に示すエピソードです。

(注4)ムハンマド(Muhammad)のいとこにして義理の息子のアリは、656年に第四代カリフ(Caliph)に就任するが、661年にクファ(Kufa。注7参照)で暗殺される(http://www.ismaili.net/histoire/history03/history346.html等。5月7日アクセス)。
    シーア派は、アリ及びその子孫のみがムハンマドの正統な後継者であると考えるのに対し、スンニ派はそうは考えない(http://www.bartleby.com/65/sh/Shiites.html。5月7日アクセス)。
 8世紀にアッバース朝のカリフ、ハルン・アル・ラシッドによってナジャフにアリの墓廟であるモスク(Imam Ali Mosque)が建設され、以後、ナジャフはシーア派にとって(メッカ、メディナに次ぐ)聖都となった(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%95。5月7日アクセス)。

サドル師は、一旦ナジャフに入り、ナジャフと、ナジャフのずっと北方に位置するカルバラ(注5)、そしてナジャフのずっと東南東に位置するディワニヤ(Diwaniya。注6)を4月初頭に隷下のマーディ民兵計1,500??3,000人で占拠した後、ナジャフの北の郊外のクファ(注7)に移り、モスクに立て籠もって現在に至っています。

(注5)680年、アリとムハンマドの娘のファーティマ(Fatima)の間の息子のフセイン(HusaynまたはHussain)がカルバラでウマイヤ朝軍に惨殺される。(シーア派は、毎年世界で、フセインの殉教を悼むお祭りアシュラ(Ashura)を行う。)(http://dear_raed.blogspot.com/。5月7日アクセス)
カルバラには、フセインの墓廟と、同じ戦いで死亡したフセインの弟アッバース(Abbas)の墓廟があり、シーア派の聖都の一つとなっている(http://www.asyura2.com/0403/bd35/msg/303.html。5月7日アクセス)。
(注6)ディワニヤはシーア派の聖都でも何でもないが、撤退が決まっていたスペイン軍が駐留していた(http://www.lemonde.fr/web/article/0,1-0@2-3214,36-356890,0.html。5月7日アクセス)ことから、サドル師のターゲットとなったと考えられる。4月初頭、マーディ民兵の襲撃を受けたスペイン軍はディワニヤから追い出され、奪回作戦にも失敗している(http://www.pbs.org/newshour/bb/middle_east/jan-june04/iraq_04-06.html。5月7日アクセス)。
(注7)アリは、657年にクファを首都とした(http://www.ismaili.net/histoire/history03/history340.html。5月7日アクセス)。従って657??661年の間、クファは全イスラム世界の首都だったことになる。クファがシーア派の聖都の一つである理由はここにある。アリの死後、ウマイヤ朝はダマスカスを首都とした。749年にアッバース朝がクファを領有すると、クファはバグダッドが建設されるまでの期間、今度はアッバース朝の首都となった。(http://i-cias.com/e.o/kufa.htm。5月7日アクセス)
    クファはまた、アリが暗殺された場所でもある((注4))。クファに立て籠もったサドル師の気負いが察せられる。

このマーディ民兵の構成員は、主としてバグダッドのシーア派地区であるサドルシティー出身の食い詰め者の若者達であり、マーディ民兵は、街の暴力団に毛が生えた程度の武器と規律しか持ち合わせていないのが実態です。ですから米軍が本格的に攻撃したらマーディ民兵など鎧袖一触なのですが、米軍は、墓廟のモスク等に被害が及ぶことを懼れ、カルバラ、クファ、ナジャフ、ディワニヤ郊外でのマーディ民兵掃討と、クファとナジャフの間の遮断だけに行動をとどめ、それぞれの市内への突入は避けてきました。
この膠着状態が動いたのが、ナジャフ・クファ地区のマーディ民兵主力を孤立させることを狙って5月4日の深夜から始まった、米軍によるカルバラとディワニヤの市内攻撃です。
当然のことながら、カルバラの墓廟等に被害が及ばないよう、細心の注意を払って作戦が行われています。
(以上、http://www.nytimes.com/2004/05/06/international/middleeast/06IRAQ.html?hp(5月6日アクセス)による。)
カルバラでもディワニヤでも一般市民がマーディ民兵を支援する動きは全く見られず、この二つの町からマーディ民兵が駆逐されるまでそんなに時間はかからない見込みです(http://www.washingtonpost.com/ac2/wp-dyn/A5675-2004May5?language=printer。5月7日アクセス)。
米軍はどうしてこのタイミングで動いたのでしょうか。

(続く)