太田述正コラム#7852(2015.8.16)
<資本主義とポスト資本主義(続)(その2)>(2015.12.1公開)
 <実態はどうだったのだろうか。>
 江戸において、庶民を拘束するような幕府側が制定した現代における法律のようなものは存在しなかった。
 勿論、御法度や条目、高札、触、達などはあったが、幕府が庶民の生活に直接干渉することは殆どなかったようだ。
 そもそも、幕府は庶民の生活を拘束することを目的とせず、庶民の問題は庶民レベルで解決させようとした。
⇒典拠が付されていませんが、事実でしょう。
 徳川幕府は、法三章で、私の言う、エージェンシー関係の重層構造を基調とするところの、国民全員を政治・行政に参加させる一方で、本来の政治・行政担当者達(武士)が、数だけはいても、仕事を分け合って、一人アタマでは少ししか働かない、究極の小さい政府であった、換言すれば、被治者達は自由を謳歌していた、ということです。(太田)
 また、庶民生活を補完できるような政策も数多く行なっている。吉原は官許の遊郭であり、芝居も官許であった。
⇒ここも典拠が付されていませんが、事実でしょう。
 前者は、超先進的であった、先の大戦における日本の慰安婦制度の原型と言うべきでしょうし、後者は、英国における演劇の事前検閲制(コラム#7801)を想い起させるのであって、両国を対比して論じられるべきものでしょうね。(太田)
 本に関する江戸時代の考え方も現在と全く違う。まず、物理的な「本」と、無形物としての「テキスト」のうち、「テキスト」のオリジナル性に関する権利は存在しなかった。・・・
⇒またまた典拠が付されていませんが、事実だとすれば、江戸時代には著作権概念が存在しなかったわけであり、この点でも、ポスト資本主義を先取りしていた、ということになります。
 なお、事柄の性格上、江戸時代には存在しえなかったとしても、江戸時代人が、現在の特許権について、どう評価するか、興味を覚えます。(太田)
 丸山真男<(コラム#1658、1660、4784、7386)>は1944年に書かれた『国民主義の「前期的」形成』という論文の中で、近代国民国家を担う国民に必要な国民意識を論じる中で、江戸時代の庶民の政治意識を批判している。
 農民や町民は「政治的無関心と無責任の安易な世界」に永遠にとどまり、商人は「一切の公共的義務意識を持たずひたすらに個人的営利を追求するいわば倫理外的存在」であり、「私欲の満足のためには一切が許容されているという賤民根性に身を委ねた」。
 そうした商人たちは政治に関心をもたず、「官能的享楽の世界に逃避し、そうした『悪所』の暗い隅で、はかない私的自由に息づき、或は現実の政治的支配関係に対してたかだか歪んだ嘲笑を向けるにとどまった。
 ここにも政治的秩序を自らのものとして積極的に担う自覚的な意思は全く見出されなかった」と指摘している。・・・
⇒丸山については、私は、既に彼の近代主義的な歪曲的戦前観を厳しく咎めてきたところですが、彼の江戸時代観も、同様、厳しく咎められてしかるべきでしょう。
 最近(コラム#7826で)、「日本において、企業とは、大小・種類を問わず、本来、仏教、すなわち、人間主義、の実践の場として生まれ、その場が永続することが期待される存在である、というものです。すなわち、日本の企業とは、家族の外において、人間(じんかん)が社会一般よりは密度が高くかつ永続する場であって、その場の中で社会一般と関わりながら、人間主義が実践される、ということです。イギリスで生まれた、東インド会社に始まるところの、株主の利己主義の道具である株式会社と日本の企業とは、対蹠的な存在である、ということにあいなるわけです。」という私の仮説を提示したばかりですが、この仮説には、具体的な根拠があることはご承知の通りであり、まともな町民や商人が、「政治的無関心と無責任の安易な世界」に永遠にとどまるだの、「ひたすらに個人的営利を追求するいわば倫理外的存在」だの、「賤眠根性に身をゆだねた」人々であっただのの訳がないのです。
 農民については、以下で詳しく説明します。(太田)
 <これに対し、>八鍬友広<(注3)>は『近代民衆の教育と政治参加』[(2001年)]で目安往来物<(注4)>の考察を通じて、日本近代社会が一揆と自力救済の世界から訴訟と裁判の世界へと変化していく過程を論じている。
 (注3)東北大学大学院教育学研究科・東北大学教育学部教授。
http://www.sed.tohoku.ac.jp/facul/05teacher/yakuwa.htm
 山形大卒、東北大学修士、博士(教育学)。新潟大学を経て、1989年から東北大学で教鞭を執る。
http://researchmap.jp/read0009242/ ([]内も)
 (注4)「往来物(おうらいもの)とは、平安時代後期から明治時代初頭にかけて、主に往復書簡などの手紙類の形式をとって作成された初等教育用の教科書の総称である。・・・日常生活に必要な実用知識や礼儀作法に立脚した往来物は、識字率を高めるなど近世までの日本の高度な庶民教育を支える原動力となったものとして、日本の教育史上高く評価されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%80%E6%9D%A5%E7%89%A9
 往来物の中で最も有名な「庭訓往来<は、>・・・南北朝時代末期から室町時代前期の成立とされ・・・時代を超えて普遍的な社会常識も多く扱ったために江戸時代に入っても寺子屋などの教科書として用いられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%AD%E8%A8%93%E5%BE%80%E6%9D%A5
 目安往来物の例として、藩の時代の1633年と藩の改易後幕府領となってからの1638年に2回にわたって起きた、(現在の山形県の)白岩八千石での一揆の訴状類を掲載した「白岩目安」がある。まず、白岩郷で教育・学習用に作られ、それが広く各地に普及した。
 この白岩一揆には二か所に供養碑があるが、白岩目安といい、供養碑といい、代官所の暗黙の了解があったと考えられている。
http://www.yamagata-museum.jp/archive/news/n-118.pdf
⇒つまり、江戸時代の農民もまた、「政治的無関心と無責任の安易な世界」に永遠にとどまるどころか、その逆であったらしい、ということです。
 (江戸時代の「商」と「工」については、その研究の手抜きないしバイアスを指弾されてしかるべき丸山も、さすがに目安往来物の存在までは彼の存命中には知られていなかったでしょうから、「農」について、彼を指弾するのは控えておきましょう。)
 このように、東大や京大以外の国立大学の歴史学者達の活躍が目につくところ、国立大学の文系の縮小を推進しようとしている文科省は、今に始まったことではありませんが、まことに困ったものです。(太田)
(続く)