太田述正コラム#7912(2015.9.15)
<トクヴィルと米国(その2)/私の現在の事情(続x66)>(2015.12.31公開)
 (3)米国の民主主義への留保
 「・・・しかし、ライアンは、トクヴィルが、米国の民主主義的で平等主義的な革命を無条件で肯定的には見ていなかったことを指摘している。
 『米国における民主主義』は、以下のような曖昧な記述で終わっている。
 「我々の時代の諸国は、人々の諸条件が平等になることを回避することはできない。
 しかし、それが、平等性の原則が、より隷属へと導くか自由へと導くか、知識へと導くか野蛮へと導くか、繁栄へと導くか悪い状態へと導くか、は彼ら達自身にかかっている。・・・」(A)
 (4)米国の民主主義の成立理由
 「トクヴィルは、自分の国の人々にとって関心のあったところの、他の全てに優先する疑問・・<例えば、米国で、>どうやって民主主義が成り立ち得た(thrive)のか・・を取り上げている。
⇒私自身は、当時の米国で民主主義が成立していたとは考えないわけですが、仮に、トクヴィルに少し歩み寄って、当時の米国が民主主義が成立しているかのような外観を呈していたことは認めるとするならば、それは、先述したところの、非民主主義的な諸制度のおかげであった、ということになりそうです。(太田)
 「民主主義的で自由主義的な安定した政治秩序は他と区別されるところの、社会的、道徳的、かつ、経済的な諸附属物(attachments)が必要とされるのであって、それらについての分析を行うことは最重要の課題(urgent task)である」、とトクヴィルは信じていた。
 結局のところ、フランス革命は、「群衆支配、恐怖政治、そして、大量殺人、そうして保守的な共和国へと移行した」<のだから>、と。
 米国ではどこが違っていたのだろうか?・・・
 トクヴィルは、個人主義を、民主主義を成功させる鍵となる要素である、と同定した。・・・
⇒何度か指摘しているように、個人主義(自由主義)は、資本主義と同値であって、それぞれ、利己主義・・自由主義は利己の限界を一律的に画するもの・・、利己的経済制度、と言い換えてもよいわけですが、(以下は、私として初めて指摘することであり、取りあえずは、典拠を省略させてもらいますが、)個人主義と普通選挙とは、トクヴィルの言うような直截的な関係はありません。
 すなわち、イギリスの(下院の)選挙制度は、個人主義/資本主義の結果として生じた富の格差を前提とし、小数の最富者達(但し男性)に選挙権を与える形から出発し、「富者」の範囲を徐々に拡大し、ついには、非富者や女性をも含めた普通選挙の実現へ、という経過を辿ります。
 どうして、最初は、選挙権を小数の最富者達に限ったかと言えば、アングロサクソンやノルマン人の戦士集会が、イギリス征服に伴い、大地主集会であるところの上院へと変貌したことに遡るわけであり、(征服者達に比べて相対的に人間主義的であったところの)被征服民にも発言権を与えてやるべく下院ができた時も、上院の時に被征服民達に発言権を与えなかったのと同様、非富者達に発言権を与えないようにしたからです。
 下院は次第に上院に対してその権限を強化していきますが、それと並行して、選挙権の拡大も、慎重に、逐次行っていくことになった、ということです。
 何度も申し上げてきたように、個人主義(自由主義)は本来的に反民主主義なのであり、(だからこそ、もともとはイギリス人であった人々が中心となって建国した米国もまた反民主主義なのですが、)トクヴィルはこの肝心な点が全く分かっていなかった、というわけです。(太田)
 彼は、米国は、アメリカ原住民達と黒人達とを除き、その市民達に平等のための機会を提供している、と信じていた。
⇒ここで、トクヴィルが、被差別者達の中に女性達を含めていなかったことも問題ですが、米国が「アメリカ原住民達と黒人<奴隷>達」を差別していること、とりわけ、黒人奴隷制が米国のタテマエ上の建国理念に真っ向から違背していること、等を直視していないことは、致命的である、と言うべきでしょう。(太田)
 彼によれば、「条件の平等は、所得、教育、或いは何事であれ具体的はものではないのであって、それは、誰であれ、米国人が抱いてるところの、何であれ、諸大志、に関して社会的諸障害が存在していない点に存している」のだ。
 彼は、米国が専制へと逆戻りする危険性はないと主張しつつも、「多数の専制」や個人主義の陰険な帰結であるところの、外の世界への「関与からの隠遁(a retreat from engagement)」、の可能性を心配していた。・・・」(B)
⇒戦後の米国が、全球的覇権国として、「少数<国>の専制」でもって米国以外の世界に対し、「関与の過剰(an excess of engegement)」を続けて現在に至っているのは、何と皮肉なことでしょうか。(太田)
(続く)
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–/私の現在の事情(続x66)–
 3年前に引っ越しをした時、防衛省には住所変更の通知はしませんでした。
 内局からは防衛予算の概算要求と成立予算の概要を説明した資料、防衛研究所からは『東アジア戦略概観』や国際セミナー開催通知、が毎年届いていたけれど、1年間は、郵便物は転送されるからです。
 で、その年の暮れ近くに、防衛省のキャリアの会から毎年の懇親会開催の通知があった際、同会から脱退はしない(なんてことが可能かどうかは知らないけどできればそういう扱いにして欲しい)が、懇親会の通知はしないでよいし、名簿もいらない、その代わり、会費も払わない、と担当の若手に電話し、ついでに、官房秘書課に住所変更を伝えてもらいました。
 更に、防衛研究所には、太田コラム有料読者の後輩がいたので、彼に、同研究所の総務課に住所変更を伝えてもらいました。
 それ以降、同研究所からは、新住所宛てに郵便物が届くようになったのですが、内局からは、相変わらず旧住所に郵便物が届くので、業を煮やして、予算資料の共同発出元の会計課と防衛計画課のうち、後者の庶務に電話をかけて、住所変更を伝えたのです。
 ところが、今度は、新住所に旧住所の郵便番号が付された形で郵便物が届くようになりました。
 添え状に内線電話番号は書いてあってもメルアドが書いてないので、再度電話するのが面倒なこともあり、放置しておいたのですが、1週間ほど前に届いた郵便物が、愛知県の民間企業から送られていることに気付きました。
 調べてみたら、その前の回からだったようですが、上述の間違いがそのままなのです。
 恐らくは、資料がカラーになったことに伴い、カラー印刷を外注することにし、その会社から直接送付先に郵送してもらう仕組みに改めたのだと思われます。
 しかし、その会社もメルアドが書かれていません(電話番号もなし)し、書かれていた同会社のHPを見ても、メルアドは出てきません。
 もともと、首を傾げていたのですが、防衛省は、住所録管理をする際に、まともな住所録ソフトを使用していないのか、漏えいを恐れて、住所録の電子化そのものをしていないのかどちらかである、と思われます。
 しかし、それほど漏えいを恐れるのなら、どうして、郵送まで外注してしまったのでしょうか。
 しかも、東京から遠く離れた場所にある企業じゃあ、監督の目も行き届かないと思われるにもかかわらず・・。
 むしろ、漏えいを促進するようなやり方ではありませんか。
 かなり、呆れながらも、この誤りにいつ防衛省が気付いて、訂正がなされるのか、意地悪く見守りたいと思っています。