太田述正コラム#7922(2015.9.20)
<現代の怪物キッシンジャー(その4)>(2016.1.5公開)
 「・・・キッシンジャーは、人生は「究極的には無意味であって…歴史は悲劇である」以上、米国人達、あるいはその右派的な人々、は、自分自身の現実を終わることなく形成し続けることは自由だと考えていた、というか、グランディンはそのように主張している。
 意味は、力の行使から生じるのだ、と。
 すなわち、道徳性は、大部分、それをどういうものとしてあなたが作るかにかかっているのだ、と。 それには、若干の諸限界があるけれど、その大部分は無視できるのであって、鍵となるのは行動することなのだ、と。
 グランディンは、キッシンジャーが、常に稼働しているところの国家安全保障国家・・情報諸衛星とドローン群とが容赦なく我々の諸敵を攻撃し、新しい諸敵を創り出している・・の基盤を構築した、ということを我々に信じさせたいのかもしれない。・・・
 グランディンは、キッシンジャーが登場する前から国家安全保障国家<たる米国>が存在してたことは認めるけれど、彼は、<キッシンジャーによって、>それがいかに秘密めかした強力なものになってしまったかに触れている(slide past)のだ。
 真珠湾攻撃より前に、英国を助けたいと思っていた頃、フランクリン・ローズベルト(Franklin Roosevelt)<大統領>は、諸規則を<公然と>枉げることを憚ることはなかった。
 後にそれを悔やむことになったけれど、ドワイト・アイゼンハワー(Dwight Eisenhower)大統領は、CIAに、世界中で諸秘密工作(covert operations)を実行することを事実上白紙委任した。
 米議会は、CIAの工作員達がグァテマラやイランでそれぞれの政府を転覆させたりその他のいくつもの諸国で同様なことをやったりしても、見て見ぬふりをした。
 リンドン・ジョンソン(Lyndon Johnson)<大統領>は、ベトナムについて、余りに沢山、しかもあまりにしばしば、嘘を付いたために、<行政府に対する>不信感(Credibility Gap)を醸成したことで、後にニクソンを引きずりおろすこととなるところの、攻撃的なジャーナリズムを興隆させることになった。
 FBIでは、J・エドガー・フーヴァー(J. Edgar Hoover)は、隠さなければならない諸秘密を持つ政治家達に露骨な脅迫を行ったことは言うまでもないが、それに加えて、盗聴と非合法諸業務(black-bag jobs)でもって、個人的な帝国を運営した。
 <しかし、グランディンは、>キッシンジャーが、ウォーターゲート事件(Watergate)や情報収集の際の諸不祥事(abuses)に関するチャーチ委員会(Church Committee)<(注11)>の後に、国家安全保障機構(machinery)を作り直し(reinvent)合法的なものに(legitimize)するのを助けたことは確かだ<、という>。・・・
 (注11)民主党上院議員のフランク・フォレスター・チャーチ3世(Frank Forrester Church III。1924~1984年)は、「1973年チリのサルバドール・アジェンデ政権崩壊を契機に、多国籍企業の活動が外交に与える影響が大きいとして上院外交委員会の下に多国籍企業小委員会が設置されると・・・小委員長に選出される。チャーチは、アジェンデ政権崩壊に関与した企業と中央情報局(CIA)の関係を追及した。<また、>1974年<米国>の資源外交とメジャーの癒着に関して、石油メジャー15社を対象に公聴会を開催。1975年CIAの内外における非合法活動が明るみに出た際、情報機関の活動を監督する「情報活動調査特別委員会」(こちらも通称は「チャーチ委員会」)が上院に設置されると同委員長を兼務し、同年11月CIAが5件の外国要人暗殺に関与したことを報告し<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%81
 キッシンジャーは、過去半世紀における最も影響力ある魅惑的な人間達のうちの一人ではあるが、彼の最大の成功は、自分自身の名声を増進させたことだ。」(D)
 「・・・私<グランディン>の主張(arguement)の一つは、キッシンジャーは米国の伝統の外に屹立しているとか、彼は19世紀において活躍した方がより良かったとか、彼は国内政治がどろどろしているところ(messiness)が嫌いだったとか、の陳腐な指摘(assertion)に反対している点だ。
 そうではなくて、キッシンジャーは、戦後のメリトクラシー、自己形成(self-creation)、外界(outside)が全ての諸階級と全ての諸身分にとって全ての諸物(things)たるべく操作すること、という観念の産物なのだ。
 彼の、ドイツ的なアクセント、及び、米国的な浅薄さとの懸隔、にも関わらず、彼<が彼たること>を可能にしたものは、米国のメリトクラシーと民主主義なのだ。・・・」(E)
⇒ニオール・ファーガソン(Niall Ferguson)が書いた、キッシンジャーの伝記の第一巻の書評にたまたま19日に接したので、そこから引用しましょう。
 「キッシンジャーの、現地のユダヤ人コミュニティがナチスのならず者達によって震え上がらされていた(terrorisesd)ところの、バヴァリアにある工業の町のフュルト(Furth)<(注12)>から、フランクリン・ディラノ・ローズベルト(Franklin Delano Roosevelt)の<出身で、州知事をやったこともある>ニューヨークでの「再び幸せな日々が訪れた(Happy Days Are Here Again)」<(注13)>年月への個人的な旅は、彼自身の諸価値と不屈の精神について、多くのことを物語ってくれる。
 (注12)戦後の西ドイツ首相ルートヴィヒ・エアハルトもこの町の出身。1835年に約7km離れているニュルンベルク・フュルト間にドイツ初の鉄道が敷設された。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A5%E3%83%AB%E3%83%88
 (注13)ローズベルトの1932年の大統領選の際に選挙運動用に使われたところの、1929年に出来上がり1930年緒映画『虹を追って(Chasing Rainbows)』のテーマ曲となった歌。禁酒法廃止運動にも利用された。
https://en.wikipedia.org/wiki/Happy_Days_Are_Here_Again
 Judy GarlandとBarbra Streisandが歌うこの曲をどうぞ。↓
https://www.youtube.com/watch?v=Hf53oFb4IKA
 彼は、最初は、彼の新しい故郷について極めて両義的な思いを抱いた。
 1939年に友人に書いた手紙の中で、米国との最初の邂逅において他の多くの欧州人達がそうであったように、彼は、<米国について、>尊敬した点と嘆いた点の折り合いをつけなければならなかった。
 すなわち、「過度の富と筆舌に尽くせぬ貧困が併存している。そして、個人主義だ! 君は完全に自分自身だけでもって立っていなければならないのであって、君を誰も気に掛けてなんかくれない。君は自分自身で這い上がらなければならないのだ」、と。・・・
 ファーガソンは、キッシンジャーが、ドイツの諸問題には通暁していたけれど、問題点は、彼が、国籍を持っている国<である米国>よりも彼が生まれた国<であるドイツ>の方をより良く知っていたことだ、と主張している。」
http://www.ft.com/intl/cms/s/0/0a69b8b8-5c73-11e5-9846-de406ccb37f2.html
(9月19日アクセス)
 以上からもお分かりいただけると思いますが、「父親が日系二世、母親が日本人の日系三世」であったフランシス・フクヤマ(Francis Yoshihiro Fukuyama)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%AF%E3%83%A4%E3%83%9E
ですら、私が何度か指摘したように、米国に過剰適応せざるをえなかったとすれば、それの数等倍、キッシンジャーには過剰適応への凄まじい心理的圧力がかかり続けた、と私は見ているのです。
 だから、私は、グランディンのここでの指摘には基本的に同意です。(太田)
(続く)