太田述正コラム#8024(2015.11.10)
<小林敏明『廣松渉–近代の超克』を読む(その7)>(2016.2.25公開)
 「・・・日本において近代的思惟が真に獲得されたことがないと断定するとき、<これは、>丸山<のほか>・・・大塚久雄や川島武宜・・・など<の近代主義者(太田)に>共通する・・・「基本命題」と言っておいてもよい。・・・
 丸山の頭の中にあるのは、むろんあの京都学派がネガティヴに描いたイデオロギーとしての「西洋近代」ではない。
 このとき丸山の頭にあった「近代」とは、もはや出生地の特殊性に還元することのできない普遍的理念としての「近代」であった。
 それは地球上のどこかにすでに存在しているような規制の体制や制度ではなく、今ある現実を不断に改良することを通して目指される目標である。
 だから丸山は「日本的近代」の起源を求めて、江戸期の儒学や国学にまで遡ったりもするのである。・・・」(148~149)
⇒「1960年の夏、箱根で日米の学者によって、「日本における近代化」に関する箱根会議29)が開かれた。非西欧圏で成し遂げられた唯一とも言える近代化の成功事例として、日本を取り上げ、その成功要因を研究することに目的があった。・・・このなかで、丸山眞男は、「個人析出のさまざまなパターン-近代日本をケースとして-」30)というユニークな報告をし<た>」
https://www.jmrlsi.co.jp/membership/mnext/d07/2002/ls3-1-3.html
ことが端的に示しているように、近代主義者は、近代の、唯一の、或いは、最大の、メルクマールを、個人の析出、つまりは、個人主義の成立、と見、それに高い価値を付与したのであり、その点で、彼らは、近代をより全体像においてとらえ、近代の様々な要素の要素間矛盾を摘出することによって、近代の限界を訴えようとしたところの、京都学派と、一見違いがあるように見えるわけです。
 帝国陸軍をファシズムの担い手と曲解していた丸山(コラム#省略)や人間主義が大嫌いであった川島(注15)や敬虔なキリスト教徒であった大塚(注16)らの近代主義者は、(引用しなかったが)小林が想像するように、彼らよりも数世代も前のヘーゲル[(1770~1831年]というよりは、すぐ前の世代であるところの、「ドイツの社会学者、フェルディナント・テンニース・・・(1855-1936)<が>、人間社会が近代化すると共に、地縁や血縁、友情で深く結びついた自然発生的な<集団主義に立脚した(太田)>ゲマインシャフト(Gemeinschaft、共同体組織)とは別に、利益や機能を第一に追求する<個人主義に立脚した(太田)>ゲゼルシャフト(Gesellschaft、機能体組織、利益社会)が人為的に形成されていくと考えた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1%E5%90%8C%E4%BD%93
ことに触発された、と私は見ています。
 (注15)下掲を参照されたい。↓
http://www.ne.jp/asahi/shin/ya/desk/devu/devu08101.html
 (注16)大塚は、「無教会キリスト教の内村鑑三に師事」し、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A1%9A%E4%B9%85%E9%9B%84
「キリスト教功労者(第25回)〔1994年〕」になっている。
http://classic.music.coocan.jp/_book/shakaishiso/ohtsuka.htm
 丸山と大塚の場合は、テンニースが「1932~1933年に・・・ナチズムと反ユダヤ主義を公然と非難したため、キール大学名誉教授の地位を奪われることになった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%86%E3%83%B3%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%82%B9
ことも、テンニースに対する敬慕の念を増幅させたに違いありません。
 しかし、テンニースその人もまた、ゲゼルシャフト的な個人主義を主としつつも、ゲマインシャフト的な人間主義的なものを従とする、イギリス社会を、単なるゲゼルシャフトであると誤解していた、というのが私の見解であって、このテンニースの誤解を近代主義者達がそのまま引き継いでいると私は見ており、繰り返しになりますが、近代主義者も、京都学派と同じく、近代・・究極的にはイギリス・・の何たるかを理解していないのであって、そういう意味では五十歩百歩なのです。(太田)
 「・・・丸山が・・・この「近代」・・・<は、>社会的現実であってイデオロギーの相違によって変るものではない<としたのに対し、>・・・京都学派にとっては<近代は>・・・西洋中心主義、廣松にとっては資本主義社会という、けっして価値自由(ヴェルト・フライ)でニュートラルなどではありえないものと密接につながっている<のだ。>・・・
 かくて<京都学派や廣松にとって、>超克は・・・近代に即して言えば、・・・「近代の彼岸」を求めることを意味する。
 京都学派にとっての「彼岸」が西洋的近代に対立する東洋的無の立場であったとすれば、廣松にとってのそれは、いうまでもなくマルクス主義であった。
 この両者の描いた彼岸像はむろん大きい。
⇒廣松は、「近代の超克」グループにこそ所属しなかったかもしれないけれど、間違いなく京都学派の一翼を占めるところの、和辻哲郎
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%AD%A6%E6%B4%BE 前掲
に、いささか信じ難いことですが、全く注目しなかったために、中期以降のマルクスの原始共産制(注17)社会と和辻の人間の世界の著しい近似性に気付かなかったのでしょう。
 (注17)「常 カール・マルクスと結びつけて考えられている用語であるが、詳細はフリードリヒ・エンゲルスによって『家族・私有財産・国家の起源』の中で叙述された。・・・
 原始共産制のモデルは人類の初期の社会である狩猟採集社会に見られ、そこには階級支配は無く、富の余剰も作成されない。更にいくつかの原始社会では食料や衣服などの全てが共有され、「共産主義」の目標に関連した特徴が含まれている。それは私有制以前の社会の自発性であり、共産主義が焦点とする平等主義の系列でもある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E5%A7%8B%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%88%B6
 太田コラムの熱心な読者なら想像できると思いますが、東洋的無、とは、サマタ瞑想の目指した境地であって、その先に、念的瞑想を通じて回復される(釈迦が目指した)人間主義の境地が待っていることに、残念ながら、廣松は考えが及ばなかった、ということです。
 ところが、ごく最近の私の新見解ですが、毛沢東は、それに気付いていた節があるわけです。
 その通りだとすると、どうして、京都学派も廣松も、ほぼ同世代人である毛沢東に、かくも後れをとってしまったのか、が問題になります。
 私は、毛沢東が、司書から始まり、政治家、革命家としての経験を積んでいたのに対し、京都学派も廣松も、基本的に、欧米の学問を翻訳したり空理空論を弄んだりすることでお茶を濁せたところの、戦前の日本の国立大学という、浮世離れした社会しか知らなかったためではないか、と考えるに至っています。(太田)
 だが、私の関心を惹きつけるのは、この立場ないしイデオロギーの明確な相違にもかかわらず、むしろその両者を背後から結びつけているかに見える条件や環境の共通性、およびそれが必然的に生み出してしまうかに見える「体質」の問題である。・・・
 <現に、>廣松は次のように述べているのである。
 われわれは、京都学派の哲学的人間学が当時におけるヨーロッパのそれよりも或る意味では水準が高いことを認めるに吝かではないし、論者たちの近代超克論が或る場面ではヨーロッパのそれよりもアクチュアリティーをもっていたことを認め得る。それは、戦後におけるいかにも俗流的な「近代化論」の度し難いモダニズムよりも思想的に真摯であったことを覆えない。・・・
⇒廣松も、「近代化論」者、つまりは、近代主義者、という用語で丸山らを括っているのは心強い限りです。(太田)
 我が邦における往時の「近代の超克論」のアチーヴメントに関しては、今日の時点から、”哲学的に”顧みるとき、誰しもそれが近代知の地平をシステマティックに踰越する所以のものであったとは認め難いであろう。しかし、東洋的無の改釈的再措定にせよ、西洋 対 東洋という二元的構案を超えるべき世界史的統一の理念にせよ、はたまた、西洋中心的な一元的・単線的な世界史観に対して複軸的な動態に即して世界史を捉え返そうとした意思、降っては、個人主義 対 全体主義、唯心論 対 唯物論、模写説 対 構成説<(注17)>、等々、等々の相補的二元主義となって現われる近代思想の平準そのものを克服しようと図った志向にせよ、往時における「近代の超克」論が対自化した論件とモチーフは今日にあっても依然として生きている。・・・」(154~155、160)
 (注17)模写説(copy theory)「認識論における実在論の一つの立場。認識とは外界の事物が認識主体のうちに結んだ映像であるとする。このような立場はすでにプラトンのイデア観にもみられるが,それぞれの思想家の存在観,世界観,人間観などによって多様なニュアンスを伴いながら哲学の歴史を通じて常にみられる。」
https://kotobank.jp/word/%E6%A8%A1%E5%86%99%E8%AA%AC-142342
     構成説(synthetical theory)「ロックやカントの認識論を代表とする構成説は・・・現実をカオスと見なす。あるいは、現実そのものはカオスでないかも知れないが、われわれが現実について得る情報は、そのものとしてはカオスである。われわれは外界についての視覚や触覚などの感覚以外から知ることはできないが、これらの感覚データは痛みや熱さ、色などの強弱の信号から成り、このような生のデータは無数で雑多である。人間の精神はこのデータを選択し加工し集約して、そこから一定のまとまりある対象を構成する<、と論じる。>」
http://www.rs.tus.ac.jp/makita/stellung/stell_phi_erkennt_j.html
 ’synthetical theory’は、「構成説」の訳語がネット上ですぐ見つからなかったので、下掲を踏まえて私が仮置きしたものだ。
 なお、下掲は、模写説への言及がなく、認識論に経験論と合理論という対蹠的な考え方があったところ、それが、カントによって総合(synthetize)された、としている。
http://www.messagesfromspiritworld.info/UTW/Unification%20Thoughta10.html
⇒廣松による、「誰しも<京都学派の>それが近代知の地平をシステマティックに踰越する所以のものであったとは認め難いであろう」という京都学派に対するいわれなき誹謗を弁護すれば、彼の(私が前述した、京都学派と共通の)社会経験の不足の産物ですが、廣松は、京都学派の面々よりも若干後の時代に生きた人物だけに、私としては、彼の知的怠慢である、と断じたくなります。(太田)
 
(続く)