太田述正コラム#8048(2015.11.22)
<鄭大均編『日韓併合期ベストエッセイ集』を読む(その8)>(2016.3.8公開)
「朝鮮の子供たちで小学校教育を受けられるものは、希望者の2割に過ぎないということである。
あとの8割は小学校教育を受けたくても入れる学校がない。
何故朝鮮でも早く義務教育制にして呉れないのであろう、と。」(295~296・佐多稲子 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E5%A4%9A%E7%A8%B2%E5%AD%90)
⇒佐多のこのエッセイは、「1940年6月、朝鮮総督府鉄道局の招待で朝鮮を12日間旅行したときの作品」(436)とありますが、佐多も、また、このエッセイから引用を行った鄭大均も、いかがなものかと思います。
というのも、史実は以下の通りだからです。
「朝鮮では1895年の甲午改革により近代教育制度が始まったが、1906年の時点でも小学校が全国で40校未満であり、両班の子弟は書堂と呼ばれる私塾で漢籍の教育を受けていた。初代統監に就任した伊藤博文はこの状況について、大韓帝国の官僚に対し「あなた方は一体何をしてきたのか」と叱責し、学校建設を改革の最優先事項とした。伊藤が推進した学校建設事業は併合後も朝鮮総督府によって継続され、朝鮮における各種学校は1940年代には1000校を超えていた。・・・<また、>1938年の朝鮮教育令改正により普通学校、高等普通学校は廃止され、共学制が採用された。・・・初等教育への就学率は日本統治時代の最末期で男子が6割、女子が4割程度であった。・・・
1946年度からは日本内地と同様の八年制義務教育制度(国民学校初等科及び高等科)を導入することが予定されていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B5%B1%E6%B2%BB%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E6%9C%9D%E9%AE%AE
すなわち、佐多が朝鮮を訪問した1940年時点で、現地に義務教育制こそ導入されていなかったけれど、(そのわずか4~5年後に就学率が5割に達したというのに、)「小学校教育を受けられるもの」が、全体のどころか、「希望者の2割に過ぎない」ことなど到底あり得ないのです。
いくら佐多がフィクションを描く小説家であったとはいえ、総督府の招待旅行なのですから、随行の係官に、数字を確かめた上でエッセーに記すくらいの手堅さがあってしかるべきでしょう。
かなり有名な小説家であった佐多の作品を、フィクション、ノンフィクションに関わらず、私は、たまたま、読んだことがありませんでしたが、今後とも、間違っても読まないことにしました。
なお、1941年に台湾には義務教育制が導入された
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B5%B1%E6%B2%BB%E6%99%82%E4%BB%A3_(%E5%8F%B0%E6%B9%BE)#.E5.88.9D.E7.AD.89.E4.B8.AD.E7.AD.89.E6.95.99.E8.82.B2というのに、朝鮮への義務教育制の導入がついになされなかった理由について、どなたか調べていただけると有難いが、台湾統治の開始が朝鮮のそれよりもずっと早かったことと、台湾とは違って朝鮮経営は最後まで赤字であったによるのではないか、と想像されるところです。(太田)
「朝鮮の景色には総べて汚さ、むさくるしさ、暗さ、物凄さ、気味わるさがない。
それは清く、明るく、開けっぱなしである。
しかもその清く明るい中に、何となく滋味のないような、たよりのないような寂しさがある。
例えば洗い晒しの白地の雑巾といったような所がある。
その原因は主として今までの山林の荒廃、人間が自然から取るだけ取って自然を守り育てることをしなかった投げやりから来るように思われる。」(310・安倍能成)
⇒その背景には、「朝鮮では、古来より山野は「無主公山」と呼ばれ、地元住民による一種の入会権が認められていたため、「無断開墾」という行為に罪悪感がなく、「愛林思想」という概念が欠如していた。・・・19世紀末期までに、朝鮮半島南部にあった森林はオンドルの薪供給源として過剰伐採され、大半が禿山と化し」、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E7%94%B0%E6%B0%91
「<日韓併合直前の>1910年<時点で、>木材資源を示す林木蓄積量は1㌶(1万㎡)あたり17立方㍍。現在の韓国(1㌶当たり103㎡)の16.5% 水準に過ぎなかった」
http://ameblo.jp/lancer1/entry-10339832728.html
ことがあります。
日本の朝鮮統治によって、「寺内正毅総督<が>、一九一一年に四六〇万本を植樹したのを皮切りに、その後、毎年約一千万本植林し、一九二二年までに一億四千万本の植樹を行<う>」
http://www.nipponwomamorukai.jp/syutyou/rekisikyoukasyowokiru/05_tyousentouti.html (↑ネットに少しあたったが、統治時代全体の数字を見つけられなかった。)
等、禿山の解消に努めたというのに、いまだに韓国では、「日帝時代の山林収奪で荒廃した」(ameblo前掲)ことになっているようで、まことに困ったものです。(太田)
「私が渡航以来15年の間に、朝鮮の富の、殊にこの四五年間の激増の為であろう。
服装の華美になったことは日鮮人共に著るしいが、殊に朝鮮人に於いてはそれが眼立つのである。」(337・安倍能成)
⇒ここでも安倍は、朝鮮の経済の高度成長について証言しているわけです。(太田)
(続く)
鄭大均編『日韓併合期ベストエッセイ集』を読む(その8)
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