太田述正コラム#0365(2004.5.30)
<アブグレイブ虐待問題をめぐって(その3)>

(私のホームページ(http://www.ohtan.net)でコラムのバックナンバーをご覧になる方。(4月はもっと乱れてますが、)5月はコラム#364のタイトルが下の方に掲げられていますので、ご注意。)

(3)イラク社会
 アブグレイブでの虐待について、アラブ諸国の政府は殆ど沈黙を保ったままです。それはアラブ諸国では、どこでも囚人の虐待や拷問など日常茶飯事だからです(http://www.taipeitimes.com/News/edit/archives/2004/05/13/2003155305。5月14日アクセス)。
 イラクのフセイン政権下でも、囚人の虐待、拷問が広汎に行われていたことは周知の事実です。
目をイスラム世界全体に転じれば、前近代的残酷さの蔓延ぶりには目を覆わしめるものがあります。
とりわけ看過できないのは女性に対する残酷さです。一部のイスラム国を除いて、未婚の女性が見知らぬ男に乱暴されたり、愛人と性関係を持って妊娠したりしたら、家の名誉を汚したとして彼女の男親によって殺され、それが咎められないのが通常ですし、女性が姦淫すれば、石をぶつけられて殺される刑に処される国が残っています(注3)
(以上、http://observer.guardian.co.uk/iraq/story/0,12239,1217986,00.html(5月16日アクセス)による。)

(注3)2001年7月、イランでこの刑が執行されている。ただし、現在はこの刑は廃止されている。
 
イラクでも、先般の米警備会社社員の遺体損壊事件や米民間人の首切りビデオ放映は、その残酷さで世界に衝撃を与えたところです。
アブグレイブ事件をとりあげた文脈の中で、囚人虐待や女性への残酷さ等の問題を提起しているところを見ると、これら英国系の論考(台北タイムスの論考はロイター配信)は、アブグレイブの看守達は、急速にイラクの状況に染まってしまい、かつまた囚人達が当然のこととして虐待を受け入れたことによっていつしか矩(のり)を越えてしまったのだ、と言いたいようです。

(4)米国社会
  ア 対アラブ偏見
 アブグレイブ事件の関連でやり玉に挙がっているのが、米国のハンガリー系ユダヤ人で文化人類学者の故ラファエル・パタイ(Raphael Patai)の1976年に出版された本、’The Arab Mind’ (ただし、ド・アトキーヌ(Norvell De Atkine)との共著)(http://maxblumenthal.blogspot.com/2004/05/intellectual-origins-of-torture-at-abu.html。5月30日アクセス)です。
 パタイに言わせれば、アラブ人というものは、額に汗して働くことを厭う、面子を何よりも重んじる、セックスは完全に隠蔽されなければならないとしつつその実セックスのことばかりを考えている、マスターベーションは買春よりも恥ずかしいことだと思っている、平常心を保つことが困難であり外的要因によって自分の日常生活が乱されるとその敵意は無差別にあらゆる外国的なものに向けられる、一端戦いを始めると際限がなくなる、そして西側世界に対する激しい敵意を抱いている、等の多数の欠点を持ち、歓待精神に富み気前がよい、というごくわずかの長所を持っているのだそうです。
 このパタイの見解は、大西洋沿岸から中東にかけて住む2億人にも達する雑多なアラブ人に対する余りにも単純化し過ぎた見方であり、偏見以外のなにものでもないとして、米国のまともなアラブ学者には相手にされていませんが、この本の共著者であるド・アトキーヌが元米陸軍軍人で米国の特殊部隊や心理作戦部隊向けのアラブ世界に関する教育の元締め的地位にあることもあずかり、米軍のアラブに関するバイブル的著作であり続けて現在に至っています。
 このような偏見が米軍の将校達に公的に刷り込まれているとすれば、それはアブグレイブの看守たる兵士達の間にも浸透していたと考えられ、それがイラク人囚人達に対する虐待の伏線となっただけでなく、みんなの面前でマスターベーションをさせる等の虐待を思いつく具体的ヒントを与えたことは大いに考えられるというのです。
(以上、http://www.guardian.co.uk/elsewhere/journalist/story/0,7792,1223525,00.html(5月24日アクセス)及びhttp://slate.msn.com/id/2101328/(5月28日アクセス)による。)

(続く)