太田述正コラム#8297(2016.3.26)
<皆さんとディスカッション(続x2944)/(2016.3.26東京オフ会「講演」原稿)天皇制>
<MH>
≫私は、コラム#8215で鴻海の会長非人間主義者説を唱え、コラム#8243でみずほを批判し、コラム#8249で鴻海陰謀説を主張したが、当たってたようだねえ。この際、私、「経営コンサルタント」とも名乗ろうかしら?≪(コラム#8293。太田)
 テリゴーが「非人間主義者」だと言われても、彼の元請け会社アップルはこんな会社です。
 「決めた! iPhoneはもう買わない。だからSONYはXperiaZ3-X出しなさい」
 この本によると、Appleからの指示で研磨の現場を撮影にきた男が3日掛けてビデオを撮りまくり、その結果、安価な中国に生産拠点が移されたという。Appleの仕事はなくなってもそれで得た高い技術力でほかの分野でやっていくと前向きな姿勢なのが救いだが、やはりこういうやり方はないと思う。安価な生産拠点に移したいのであれば、きちんと技術指導料を支払い、その許諾を得た上で行うべきで、発注者の権威でビデオを撮りまくって技術を盗んでいいわけがない。
http://www.landerblue.co.jp/blog/?p=16032
 みずほB/Kはよーく知ってますが、元々4行合併した銀行(第一勧銀は一行ではない)であり、それも大蔵省が興銀を救済するために無理やり合併しただけであり、未だに
人事を4行分離平行で行ってるという銀行です。
 その証拠につい最近まで、みずほB/K(旧DKB、富士)とみずほコーポレートB/K(旧興銀)に分離していました。
 3.11大震災の口座停止の不祥事が無ければ、まだ二行体制でやっていたでしょう。
 さてシャープですが、私がテリゴーならば1~2掛けまでぶっ叩いて値切り倒します。
 それがビジネスです。
 未だ本契約は締結しておらず、単にMOU
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%86%E8%A7%A3%E8%A6%9A%E6%9B%B8
(了解覚書(りょうかいおぼえがき、Memorandum of Understanding、略称:MOU、MoU)は、行政機関等の組織間の合意事項を記した文書であり、通常、法的拘束力を有さない。
の段階ですので(と書いたが、信じられないことに実はMOUすら未締結らしい。口約束だけか?)、そこに3千億円の偶発的債務があれば叩きまくるでしょう。
 そんなことは誰でも行います。
 みすほとシャープが余りにもトロくて台湾・中華商法を知らないだけです。
 太田さんが「経営コンサルタント」(無論、冗談でしょうが)を名乗るのならば、ここまで言及せねば。
 元記事
 「シャープ株急落、鴻海が買収延期を検討-直近の業績見極めると関係者」
https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2016-02-25/O2RXFX6TTDSF01
 対するコメント
 若林 秀樹:㈱サークルクロスコーポレーション 代表取締役 主席アナリスト
<蛇足>
 美しい話でいえば、INCJと鴻海が共同提案するように、シャープが言えばよかった。一、債権放棄、二、国内でなくグローバルで再編を模索、なら文句はない。つまり、鴻海が50%、INCJがお目付け役として10%でも持つ。債権放棄はする、JDIとの合併はなし。堺と亀、イノラックスを合体させ上場。そういう可能性を高橋社長に説明会で聞いたがNO。二者択一だと。
<追記>
 鴻海の原案はシャープにとってラッキーな案だったのだからすぐのればよかった。なお、鴻海を悪くいう方が多いが、日経から出ているシャープの本を見てほしい。むしろ、シャープが過去、自分から言い出してひいている例が多い。
 もし、最初から鴻海がその気がなければ、ああいう計画も出ないし、わざわざ八尾など工場見学に行かないだろう。
<もと>
 これまでもずっと、リークに、右往左往させられたが、2月まではINCJ有利、その後は鴻海有利。リーク記事自体が不明。
 シャープと鴻海の事実だけを見ないといけない。
 そもそもの、鴻海案とINCJ案を比べて、鴻海案がシャープにとって良かったことは事実。株主にとっても、債権放棄をしない件はあるが、シナジーは期待できる。INC
J案は何度もいうようにありえない。
 鴻海か破綻かだ。
 以前、書いたが、シャープとしては、テリゴーが来日した日に、いろいろ信じられない条件を付けたりせずに、合意して、共同発表すればいいのだ。
 それを、1か月まってくれとか、いうから、逆手に取られる。
 3月末に5100億円が借り換えられれば破綻はしないが、シャープが、かつてのエルピーダのように、民事再生適用申請するのも手ではある。そうなれば、鴻海の優先権もなくなる。それは、鴻海も嫌だろう。
 破綻した場合に、どうなるかは不明だが、INCJには再生できない。JDIと一緒になるのもやめたほうがいい。
 シャープの良さを維持したまま、残すのは、鴻海案しかない。
 もちろん、バラバラで、三洋のようになったり、どこかに買収されることはあるだろう。しかし、どこが高く買ってくれるだろうか。せいぜい、鴻海よりも、難しい中国メーカーだろう。
 どこかの方が私は最近コメントしてないようなことを言っていたが、できる限りコメントしている。同じ意見で一貫している。今週号の東洋経済にも書いている。
 News Piks(twitterかfacebookアカウントでのログイン必須)
https://newspicks.com/news/1447937
 この方は直接、シャープ高橋社長に会ってアドバイスしたが、相手は聴く耳を持たなかったのだから、自業自得。
 他の誰のせいでもありません。
 ・・・
(追記)
 昨夜、このニュースがリリースされました。
「鴻海、出資1000億円減で契約へ 来週にもシャープ買収主力行も融資で支援」
http://www.nikkei.com/article/DGXLASDZ25I7X_V20C16A3MM8000/
 上記に対するコメント
 安東 泰志 (元東京三菱B/K)ニューホライズンキャピタル株式会社 CEO
 「6月の株主総会での特別決議(議決権ベースで3分の2の承認が必要)が条件になります。債権放棄や優先株の買い取りがなく、かつ、支援額が引き下げられたため、産業革新機構案に比べて支援総額で1000億円も劣る上、株主に対しては3,500億円程度不利な案になること(→
https://newspicks.com/news/1436455?ref=user_345620
)について、取締役会が総会でどのように説明して賛成票を投じて貰うかが重要になります。「取締役会が銀行の利益ではなくて株主利益を尊重した結果、(3,500億円を超える利益が株主にあるから)ホンハイ案を選んだ」という説明が合理的に出来るかどうかです。
 繰り返しますが僕は決して産業革新機構の活動に賛同しているわけではありません。取締役会は株主の代理であるという原理原則に照らし、仮にも取締役会が銀行の利益を代弁するなど、筋が通らないものについてはきちんとした説明を要すると考えるものです。利益相反取引は株主に対する善管注意義務違反を構成し得ますので、訴訟リスクがあります。
 なお、銀行は当面の債権放棄を免れたという意味では当面安心したかもしれませんが、現在の巨額の債権に加えての追加融資の供与で、ずっとホンハイに振り回される構図になります。そして親会社になるホンハイの業績がどんなによくても、融資先であるシャープが経営不振の場合は不良債権に分類されることに変わりなく、将来債権放棄を求められる可能性が相当高いと思って差し支えないと思います。
 様々な点から、今回の一連の騒動は、日本のコーポレートガバナンスの在り方を考えさせる事例でした。」
https://newspicks.com/news/1465898?ref=index&block=top
 この方、三菱B/Kロンドン支店にて英国企業のM&A及び企業再生を行ったプロの方ですので、難しい問題をサラッと分かり易いレポートで書いています。
 マスコミにここまで書ける記者はいないでしょう。
 <みずほB/K<について。>
 みずほが色々問題であるのは、前述の通りであり、このB/K案件の場合、元はどこがメインバンクだったのかを判別しないといけません。
 因みに日本航空(JAL)は興銀でしたので、みずほコーポレートB/K(民主党政権当時)マター案件。
 ではシャープは?
 ソフトバンクが創業時に無担保・無保証で1億円を第一勧銀 麹町支店から借りたのは有名な話ですが、その口ぞえを行ったのがシャープの佐々木専務(当時)。
 従ってこのディールはみずほ(旧第一勧銀派)が仕切っており、三菱B/K推奨のINCJ案に乗らなかったのは当然でしょう。
 「新版]孫の二乗の法則: 孫正義の成功哲学」より。
https://books.google.co.jp/books?id=kP9NBAAAQBAJ&pg=PT63&lpg=PT63&dq=%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%97+%E7%AC%AC%E4%B8%80%E5%8B%A7%E9%8A%80&source=bl&ots=HIJxNiaID7&sig=Da17gljw7bT4dwKPn2yDYpz3L9I&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwittt6Nmt3LAhXlIaYKHXFgA-oQ6AEILzAD#v=onepage&q=%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%97%20%E7%AC%AC%E4%B8%80%E5%8B%A7%E9%8A%80&f=false
 鴻海<について。>
≫仮に下掲の分析が正しいとして、みすずにも困ったもんだな。そんなオイシイだけの話なんてあるわきゃないだろ≪(コラム#8243。太田)
 そんな美味しいとこどりをするのがB/Kです。鴻海もみずほ(第一勧銀派)とは密接です。
 「シャープ買収先、みずほが鴻海を推す「必然」・・・
 鴻海の開示文書を基にすると、みずほの間で取引が始まったのは、2000年とみられる。みずほの前身銀行のひとつである、第一勧業銀行が東海銀行と共同で、まだ年商3000億
円台の業容だった鴻海に向けて、40億円を金利0.55%で融資している。それまで鴻海は、バンク・オブ・アメリカからの借入金が多かったが、同年以降はみずほが取引先金融
機関として、頻繁に文書に登場するようになる。
 リーマンショック直前の2008年7月には、みずほが主幹事を務める12行で、鴻海の中核子会社であるフォックスコン・ファーイーストに向けて、1000億円超のシンジケートローンを組成。さらに直近の2014年12月期の開示文書には、金融機関からの長期借入金として8件が記載されているが、そのうち3件はみずほが主幹事を務めるシンジケートローンだ。この3件で長期借入金総額の75%を占めている。
 それでも15年間にわたり、常に主幹事を務めてきたみずほは、その他の銀行とは別格で、鴻海の成長を後方から支援してきたといってよい。町工場から叩き上げた鴻海に対し、台湾政府や地元の大手商業銀行は積極的に支援しなかったとされるから、みずほに対する鴻海の恩義の念も深いはずだ。
 一方で、2000年時点で鴻海を見出した、みずほも目のつけどころが鋭かった。今や鴻海の年商は15.9兆円(2014年12月期)。電子製品の組み立て工程という、最も付加価値の低い部分を請け負う業態のため、利益率は決して高くないが、財務は極めて健全だ。」
http://toyokeizai.net/articles/-/106200
 恐らく、これで本ディールも漸く決着することでしょうね。
<太田>
 長編、感謝。
 では、オフ会で。
<薬の理屈の追究者>
  –悪い」言葉と概念はすぐ覚える、米MS人工知能Tay–
Tay, Microsoft’s AI chatbot, gets a crash course in racism
http://www.theguardian.com/technology/2016/mar/24/
tay-microsofts-ai-chatbot-gets-a-crash-course-in-racism-from-twitter
—-
A long, fairly banal conversation between Tay and a Twitter user escalated suddenly when Tay responded to the question “is Ricky Gervais an atheist<無神論者>?” with “ricky gervais learned totalitarianism from Adolf Hitler, the inventor of atheism<無神論>”.
だそうです。
 やはりね、と。
<UJ0kb9oE>(「たった一人の反乱(避難所)」より)
http://japanese.engadget.com/2016/03/24/ai-tay/
 天下のマイクロソフトが興味深い実験結果を示してくれたね。
 これにいくら注ぎ込んだんだよw。
<太田>
 記事のタイトルだけ見て読まなかったけど、反省ー。
 もっとも、本日、オフ会で時間がないので、コメントは明日。
 その他の記事については、明日回しにしますが、中共当局の日本礼賛関係だけどーぞ。
 「・・・中国メディアの今日頭条は、「中国は核兵器を持つのに、なぜこれほど長く日本相手に耐え忍んでいるのか?」との疑問を呈し、中国の兵器事情を解説している。
 記事は冒頭で、中国国産の艦対空ミサイルの写真を掲載。まるで日本を威嚇するかのようだが、艦対空ミサイルには日本製のリミットスイッチが使われていることを紹介している。そして専門家の意見として、中国国内にも同様のリミットスイッチ製品は存在するが、耐久年数や性能に差があるため中国製は使用できず、日本製品を使用していると指摘。さらに「兵器内部の電子部品は種類も数も多く、兵器の性能は部品の性能に依存している」と論じた。
 続いて、中国は兵器の開発分野で目覚ましい発展を遂げてきたが、「電子部品や新素材、半導体や工業製造設備は長年輸入に頼っている」としたうえで、「特に日本からの輸入に依存している状況」と中国の兵器事情を解説。
 中国はすでに空母と核兵器を保有しているが、そのいずれも日本にはないものだ。だが、日本にあって、中国にないものも存在する。それは「高性能」の複合素材や電子部品、半導体チップ、高級NC工作機械や工業ロボットだ。記事は「こうした製品の輸出を日本が停止した場合、われわれはどうすれば良いのか」と指摘し、「核兵器も空母も保有する中国が日本相手に耐え忍んでいる理由はこれだ」と説明した。」
http://news.infoseek.co.jp/article/searchina_1605787/
 「・・・中国メディアの法律法規網はこのほど、「中国人は日本人の民度の高さを認めている」と伝えつつ、民度が高いことを示す事例の1つが「公共の秩序を守ること」であると論じた。
 記事は、公共の場における秩序を見れば民度が分かるとし、己を抑制し、他人に礼儀正しく、他人を優先できるかどうかを見れば、その社会の民度の高さを計ることができると指摘した。
 続けて、日本で生活しているとみられる記者の体験として、日本で人身事故によって電車が遅延した際のケースを紹介した。電車が動かなくなってしまったため、帰宅を急ぐ人びとで駅はごった返し、多くの日本人は電車を諦めてバスを利用しようとしたと紹介、だが、バスに乗車できる人数は限りがあるため、今度はバス停が多くの帰宅客で溢れかえったと紹介した。
 だが、日本人はバス停で長蛇の列を作り、列を乱すこともなく、静かにバスを待ち続けたと驚きを示した。バスが到着しても、我先に乗り込もうとする人もおらず、列の先頭の人から順に乗車したと伝え、日本人からすればごく当然のことも中国人から見れば「驚きの連続」であったことを伝えた。
 記事は、こうした事例は「日本の日常生活ではごく当たり前に見られる」と伝えつつ、中国との違いを指摘。日本では電車に乗るルールとして、「まず降りる人が先」というものがあるが、中国では乗る人も降りる人も「我先にと動く」ため、非常に疲れてしまうのだという。こうした秩序を守れる国民こそ民度の高い国民であると伝え、日本人から学ぶべきは「落ち着いた心」ではないかと論じた。」
http://news.infoseek.co.jp/article/searchina_1605781/
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 一人題名のない音楽会です。
 由紀さおりの最終回(5回目)です。
 オフ会でもって時間がないので、解説・コメントは、はしょらせていただきました。あしからず。
パロディ(チャオチャオバンビーノ、等)(1970年) 構成/作詞:和田誠 作曲:いずみたく
https://www.youtube.com/watch?v=Aib-pUgCub4
真夜中のボサ・ノバ(1969年) 作詞:橋本淳 作曲:筒美京平 歌唱:& Pink Martini
https://www.youtube.com/watch?v=gP-AiVJeEVk
マック・ザ・ナイフ(Mack The Knife)(1970年。原作10年) 訳詞:藤田敏雄 作曲:クルト・ワイル
https://www.youtube.com/watch?v=Cwk89Pv4m9U
ホワイト・クリスマス(White Christmas)(原作1940年?) 訳詞:? 原作詞作曲:Irving Berlin ピアノ:Pink Martini
https://www.youtube.com/watch?v=bhJ7OPSuVLU
マシュ・ケ・ナダ(Mas Que Nada)(原作1963年) 訳詞:? 原作詞作曲:Jorge Ben Jor ピアノ:Pink Martini
https://www.youtube.com/watch?v=_aJOfE59hGw
パフ(Puff,the magic dragon)(原作1963年) 訳詞:? 原作詞作曲:Peter Yarrow & Lenny Lipton ピアノ:Pink Martini
https://www.youtube.com/watch?v=FpACTIQL304
星に願いを(原作1940年) 訳詞:山川啓介 作曲:L.ハーライン
https://www.youtube.com/watch?v=iXcKBsf-GlE
恋はみずいろ(原作1967年) 訳詞:? 作曲:Andre Popp 3:48~
https://www.youtube.com/watch?v=OxcDtziGgxw
悲しい悪魔(原作?年) 作詞:なかにし礼 作曲:J.Iglesias
https://www.youtube.com/watch?v=556Y8pW_aCI
二人の天使(Concerto pour une voix)(1969年) 作「詞」作曲:Saint Preux
https://www.youtube.com/watch?v=MZzDJIaKdaw
アンチェインド・メロディ(UNCHAINED MELODY)(1955年) 作詞:H.Zaret 作曲:A.North
https://www.youtube.com/watch?v=q6roJ_-XgxU
ペーパー・ムーン(It’s Only a Paper Moon)(1933年) 作詞:HARBURG E Y/ROSE BILLY 作曲:H.Arlen
https://www.youtube.com/watch?v=yR1fHmDDZmw
(完)
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–(2016.3.26東京オフ会「講演」原稿)天皇制–
1 始めに
 私は、基本的に最近の日本の論壇をフォローしていないので、断定的なことは言えないのですが、(タブーが多かった戦前もそうですが、)戦後の俯瞰的な天皇制論に、余り見るべきものはないのではないでしょうか。
 今回、やや力不足ながらも、天皇制論に一石を投じてみることにしました。
 天皇制の見地から、日本史をざっと振り返ってみた、程度のものですが・・。
 その際に、補助線として、私の、人間主義論、縄文モード・弥生モード循環論、が用いられるであろうことを、太田コラムの熱心な読者が予想するのは困難ではないと思います。
 結論を先に申し上げておきますと、本日は、天皇の果たしてきたのは、第一次縄文モード以降は、最高権力者としての役割ではなく、日本国の象徴としての役割と、モード転換示唆者としての役割であった、ということをご説明するつもりです。
2 日本国の象徴としての天皇
 (1)ノモスの象徴たる天皇
 ノモスとは、尾高朝雄の言葉(コラム#8200)ですが、私見では、日本の国体の核心は、ノモス=配分的正義=各自にそのところを得さしめる≒社会の弱者達にも手を差し伸べる、という、人間主義的統治、にあるのであって、天皇は、日本の最高権力者であった時から、そのような国体の象徴だったのです。
 このようなノモス(国体)の何たるかを、私の言うところの、拡大弥生時代、すなわち、天皇が最高権力者であった時代の末期に、支配層に対して説いたもの(注1)が、養老4年(720年)までに策定された十七条憲法(コラム#1205、1210、2983、2998、3001、6716、7854、7856、8200(未公開))
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%B8%83%E6%9D%A1%E6%86%B2%E6%B3%95
です。
 (注1)「別に、全85条からなる、一般向け(通蒙)、神職、僧侶、儒者、政治家にあてた十七条五憲法も存在<し、>そこでは「神・儒・仏の三法を敬え」、と記されている。」(上掲)というが、立ち入らない。
 この天皇の役割は、すぐ後で述べるところの、天皇が政治無答責になってからも、堅持されるのです。
 このノモス(国体)の、初期における、天皇による実践例を、一つ、ご紹介しておきましょう。
 皆さん誰もご存知の『万葉集』です。
 7世紀後半から8世紀後半頃にかけて編纂された、この万葉集(注1)のような詩選集は、日本以外には存在しません。
 (注1)「万葉集の注記によると、万葉集以前にも『古歌集』、『柿本人麻呂歌集』、『笠金村歌集』、『高橋虫麻呂歌集』、『田辺福麻呂歌集』、『類聚歌林』などがあったとされるが、現存していない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E6%AD%8C
 「751年には日本におけるごく初期の漢詩集として『懐風藻』が編纂された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%A2%E8%A9%A9
 世界で最も古い詩選集は、BC1世紀にギリシャの詩人のメレアグロスが編集した『花冠(Stephanos)』らしいのですが、それは、BC7世紀~BC3世紀の詩人47名を選び、本人の作品を加えたものであるのに対し、万葉集は、世界最大の詩選集である、という言い方がなされます。
http://plus.papy.co.jp/plus/sc/kiji/1-1061227-84/
 しかし、およそプロ詩人とは言えない庶民による詩(注2)まで多数収録した詩選集であって、しかも、時の元首が関与する形でそれが編纂された事例など、世界に他に例を見ない(注3)、というのに、これらの点が強調されることが殆どないのは不思議なことです。
 (注2)『万葉集』収録の庶民が作った短歌が何首か紹介されている。↓
http://ifs.nog.cc/ningyo3.hp.infoseek.co.jp/books/mannyou3.htm
 (注3)後に四書五経の経の一つとして奉られることとなる、孔子(BC6~BC5世紀)編纂と伝えられる『詩経』は、支那最古の「詩」選集だが、もともと舞踊や楽曲を伴う歌謡が収録されているので、当然作者不詳のものが多い、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A9%A9%E7%B5%8C
わけだが、それらを、そもそも、庶民が作った詩、と言えるのかどうか疑問である上、せいぜい、孔子という、当時の一私人が編纂したものに過ぎない。
 なお、『万葉集』が編纂される少し前の6世紀前半に、『文選』が梁の皇太子の蕭統の肝入りで編纂されている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%95%AD%E7%B5%B1
が、この詩選集には、庶民による作品は収録されていない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E9%81%B8_(%E6%9B%B8%E7%89%A9)
 そもそも、どうして、そのような詩選集が当時の日本に出現したのでしょうか。
 まず、庶民の中に詩を作る者がいるほど、庶民の暮らしに余裕があり、庶民の知的レベルも高かった、と思われるわけですが、それをもたらしたのが、天皇を頂点とする、当時の日本の支配層による人間主義的統治(コラム#省略)であったと考えられるところ、こういったことが背景にあったからこそ、庶民による詩を含む『万葉集』の編纂が可能になったのだ、と私は見ているのです。
 その際、もう一つ、庶民でも作るハードルが低い、(長歌もあったし、後の俳句ほど短くはないが、)世界でも希な短詩型の短歌が生まれたこともあげておく必要があります。
 私見では、短詩と人間主義とは切っても切り離せない関係にあるところ、ほぼ同趣旨のことを、フランスの詩人、イヴ・ボヌフォワ(Yves Bonnefoy)も2000年に指摘しています。(注4)
 
 (注4)「俳句や短詩型といった詩の世界は、まさに日本の文化、日本の大詩人たちの独壇場です。・・・。ごくわずかな言葉どうしの調和と不調和のなかに、すべての現実――社会的なものと宇宙的なものとをあわせた現実のすべてを鳴り響かせることにかけて、日本人ほど熟練の域に達した人々は、世界中のどこを探してもいません。皆さんは、みごとなやり方で言葉に永遠を結び付け・・・たのです。・・・
 ところで、今こそ声を大にして申し上げねばなりませんが、われわれの詩の歴史では、これまで短詩型はあまり目立った存在ではありませんでした。なぜかと言えば、ヨーロッパでは長い間、現実はたんなる神の創造物であって、それ自体に神が宿るものではないと感じられてきたからです。」
http://haikusphere.sakura.ne.jp/tra/2000/bonnefoy%20lecture-j.html
 ボヌフォワ(1923年~)は、「ポワティエ大学、パリ大学で学<び、>マサチューセッツ州ブランダイス大学、メリーランド州ジョンズ・ホプキンス大学、ニュージャージー州プリンストン大学、コネチカット州イェール大学、スイスのジュネーヴ大学、ニース大学、ニューヨーク市立大学、コレージュ・ド・フランスなどで文学の教員を務め<、>・・・バルザン賞 (1995年)、ストルガ詩の夕べ金冠賞 (1999年)、フランツ・カフカ賞 (2007年)<等を受賞>」という人物だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B4%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%8C%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%AF
 拡大弥生時代の末期に、支那から漢詩が伝わり、弥生系の支配階層の間で漢詩作りが流行ったところ、その影響の下で、縄文系の被支配階層の間で短歌が流行り始めたのだろう、と私は見ています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%A2%E8%A9%A9 前掲←参考にした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E6%AD%8C 前掲←同上
 仮にそうだったのだとすれば、『万葉集』が庶民による詩を含んでいたのは、いや、含まざるをえなかったのは、当然である、とも言えるでしょうね。
 (なお、歌会始とは、「起源は必ずしも明らかではないが、・・・明治7年(1874年)、一般国民からの詠進も広く認められるようにな<った>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%8C%E4%BC%9A%E5%A7%8B
ものですが、これは、第二次弥生モードの初期におけるところの、拡大弥生時代の末期における『万葉集』的なものの復活、と見ることもできそうです。
 この時、その少し前の慶應4年(1868年)に五箇条の御誓文
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E7%AE%87%E6%9D%A1%E3%81%AE%E5%BE%A1%E8%AA%93%E6%96%87
という、十七条憲法の再確認的「憲法」が発出されているのは興味深い符合であると言うべきでしょう。)
 後に、天皇が政治無答責になった時、すなわち、象徴的存在になった時、天皇は、このようなノモス(国体)を象徴する存在になったのです。
——————————————————————————-
[万葉集]
 『万葉集』が編纂されるよりも何十年も前に、天武天皇によるこのような事績がある。↓
「天武天皇<は、>4年(675年)2月9日に・・・畿内とその周辺から歌が上手な男女、侏儒、伎人を宮廷に集めるよう命じ、4月23日に彼ら才芸者に禄を与えた。14年(685年)9月15日には優れた歌と笛を子孫に伝えるよう命じ、15年(686年)1月18日には俳優と歌人に褒賞を与えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87
 『万葉集』の編纂に諸天皇が関与したことの根拠は以下の通りだ。↓
 「7世紀後半から8世紀後半ころにかけて編まれた日本に現存する最古の和歌集である。天皇、貴族から下級官人、防人などさまざまな身分の人間が詠んだ歌を4500首以上も集めたもので、成立は759年(天平宝字3年)以後とみられる。・・・
巻1の前半部分(1 -53番)…原・万葉集…各天皇を「天皇」と表記。万葉集の原型ともいうべき存在。持統天皇や柿本人麻呂が関与したことが推測されている。
巻1の後半部分+巻2増補…2巻本万葉集 持統天皇を「太上天皇」、文武天皇を「大行天皇」と表記。元明天皇の在位期を現在としている。元明天皇や太安万侶が関与したことが推測されている。・・・
<このほか、>元正天皇、市原王、大伴家持、大伴坂上郎女らが関与したことが推測されている。
残巻増補…20巻本万葉集 延暦2年(783年)頃に大伴家持の手により完成したとされている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E8%91%89%E9%9B%86
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 (2)象徴なるが故の政治無答責性
 「太平洋戦争敗戦直後、天皇家の行く末を不安視する気運の中、九条家出身の貞明皇后が「幕末以前に戻るだけだ。心配するな」と毅然とした言葉を残したとされる」
http://dot.asahi.com/dot/2014051400024.html
のですが、この貞明皇后の見解は、明治維新以降も、天皇は、実態において、政治無答責的存在、すなわち、象徴的存在、であり続けたことから間違いです。
 天皇は、第一次縄文モードの時代、つまり、平安時代、以降、一貫して、基本的に、政治無答責的存在、すなわち、象徴的存在であり続けたのです。
 では、その間、一体、誰が日本の最高権力者だったのでしょうか。
 ざっくり言えば、それは、摂関→上皇→征夷大将軍→首相、と推移しました。
 政体で言えば、摂関政治→院政→幕府制→内閣制、という推移です。
 まず、摂関政治の成立についてです。↓
 「摂関政治とは、平安時代に藤原氏(藤原北家)の良房流一族が、天皇の外戚として摂政や関白あるいは内覧といった要職を占め、政治の実権を代々独占し続けた政治形態である。・・・
 国政の安定に伴い政治運営がルーティーン化していき、天皇の大権を臣下へ委譲することが可能となった。その中で、うまく時流に乗った藤原北家が大権の委譲を受けることに成功し、その特権を独占するとともに、独自の軍事力を保有するに至った。摂関家が要職を占めたので、他の貴族は手に職をつけることで生き残りを図った。・・・
⇒「国政の安定に伴い政治運営がルーティーン化していき」の背景にあったのは、第一次縄文モード入りし、対外戦争が絶え、国内の対蝦夷戦争も終わり、また、治安も良くなって死刑が停止される、という平和な状況ですが、私は、この頃の歴代天皇が、積極的に、政治無答責性、すなわち、象徴化を追求したのではないか、と思うのです。(太田)
 加えて、当時の貴族社会における、婚姻と子供の養育制度にも、原因がある。古代日本の婚姻は「妻問婚」で、夫婦は同居せず、妻の居宅に夫が訪ねる形態であった。生まれた子供は妻の家で養育され、当然ながら藤原氏を母にもつ皇子も藤原氏の家で養育され、こうして育った天皇が藤原氏の意向に従うのは当然であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%82%E9%96%A2%E6%94%BF%E6%B2%BB
⇒私は、拡大弥生時代には、被支配層は縄文系で母系制、支配層は弥生系で、元々は父系制であったものの、縄文系の影響を受けて、父系・母系折衷の双系制になっていた(コラム#8249)、と現在は見るに至っているところ、歴代天皇は、平安時代中期までは、縄文モードであったことから、自らの象徴化にあたって、母系制的に外戚の藤原北家に、事実上、最高権力者の座を委ねたのである、と考えています。(太田)
 次に、院政の成立についてです。↓
 「平安時代中期より制度に変化があり、生まれた子供を夫の家で養育するようになった。当然ながらこうして育った天皇は、藤原氏の意向に唯々諾々と従うはずがなかった。
 また、国政の安定を背景に、権力の分散化も顕著となっていき、例えば、地方官の辞令を受けた者から現地の有力者へその地方の統治権が委任されるといった動きも見られた。この動きが、ひいては鎌倉幕府・武家政治の成立へつながっていく。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%82%E9%96%A2%E6%94%BF%E6%B2%BB 上掲
 「白河天皇の母<は>摂関家ではな<か>・・・ったため、白河天皇は、関白を置いたが・・・親政を行った。白河天皇は応徳3年(1086年)に当時8歳の善仁皇子(堀河天皇)へ譲位し太上天皇(上皇)となったが、幼帝を後見するため白河院と称して、引き続き政務に当たった。一般的にはこれが院政の始まりであるとされている。嘉承2年(1107年)に堀河天皇が没するとその皇子(鳥羽天皇)が4歳で即位し、独自性が見られた堀河天皇の時代より白河上皇は院政を強化することに成功した。白河上皇以後、院政を布いた上皇は治天の君、すなわち事実上の君主として君臨し、天皇は「まるで東宮(皇太子)のようだ」と言われるようになった。実際、院政が本格化すると皇太子を立てることがなくなっている。
 ただし、白河天皇は当初からそのような院政体制を意図していたわけではなく、結果的にそうなったともいえる。白河天皇の本来の意志は、皇位継承の安定化、というより自分の子による皇位独占という意図があった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%A2%E6%94%BF
⇒ここでも、受動的な政体改変が行われたような記述がなされていますが、私は、平安中期以降、国内の治安が少しずつ乱れて行った結果、自力救済が行われるようになり、権力の地方分散が進展した情勢、すなわち、弥生モード化し始めた情勢、を踏まえ、歴代天皇の側が、支配層の双系制の下で、その弥生モード的運用、すなわち、父系制的運用に積極的に切り替えて行った一方で、天皇の政治無答責(象徴性)を維持するために、白河上皇は、外戚に代わって、自ら、「内」戚を最高権力者(治天の君)とする院政を開始した、と考えています。(太田)
 幕府制、内閣制の成立については、時間の関係もあり、省略します。
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[征夷大将軍・幕府]
 「建久元年(1190年)10月・・・頼朝は遂に上洛す<る>・・・後白河法皇に拝謁し<た>が熱心に希望していた・・・大将軍には任官できず、代わりに権大納言・右近衛大将に任じられたが、<すぐに>に両官を辞した。任命された官職を直ちに辞任した背景としては、両官ともに京都の朝廷における公事の運営上重要な地位にあり、公事への参加義務を有する両官を辞任しない限り鎌倉に戻る事が困難になると判断したとみられている。・・・
 建久3年(1192年)3月に後白河法皇が崩御し、同年7月12日、頼朝は征夷大将軍に任ぜられた。 一般的には将軍就任によって鎌倉幕府が成立したとされる。・・・
 頼朝が望んだのは「大将軍」であり、それを受けた朝廷で「惣管」「征東大将軍」「征夷大将軍」「上将軍」の四つの候補が提案されて検討された結果、平宗盛の任官した「惣管」や源義仲の任官した「征東大将軍」は凶例であるとして斥けられ、また「上将軍」も日本では先例がないとして、坂上田村麻呂の任官した「征夷大将軍」が吉例として選ばれたという。つまり、頼朝にとって重要なのは「征夷」ではなく「大将軍」で、朝廷は消去法で「征夷大将軍」を選んだに過ぎな<かった。>・・・頼朝が「大将軍」を望んだ理由としては、10、11世紀の鎮守府将軍を先祖に持つ貞盛流平氏・良文流平氏・秀郷流藤原氏・頼義流源氏などが鎮守府「将軍」の末裔であることを自己の存在意義としていた当時において、貞盛流の平氏一門・秀郷流の奥州藤原氏・自らと同じ頼義流源氏の源義仲・源行家・源義経などといった鎮守府「将軍」の末裔たちとの覇権争いを制して唯一の<武門>の棟梁となり、奥州合戦においても意識的に鎮守府「将軍」源頼義の後継者であることを誇示した頼朝が、自らの地位を象徴するものとして、武士社会における鎮守府「将軍」を超える権威として「大将軍」の称号を望んだとする説が出されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E6%9C%9D
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 なお、その後、拡大弥生時代の、最高権力者たる天皇の在り方に戻そうとしたのが後醍醐天皇であり、彼は、唯一の例外的存在です。
 しかし、その動機は、エゴイズム以外の何物でもなく、全く評価できません。
彼の承継者たる南朝の歴代天皇も、後醍醐天皇と同じく最高権力者としての姿勢を貫いたわけですが、南朝は、地方政権に過ぎなかったので、カウントすべきではありますまい。
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[後醍醐天皇]
 「後宇多法皇の遺言状に基づき、はじめから後醍醐天皇は兄後二条天皇の遺児である皇太子邦良親王が成人して皇位につくまでの中継ぎとして位置づけられていた。このため、後醍醐天皇が自己の子孫に皇位を継がせることは否定された。後醍醐天皇は不満を募らせ、後宇多法皇の皇位継承計画を承認し保障している鎌倉幕府への反感につながってゆく。・・・
 <そして、>建武の新政を開始する。・・・持明院統のみならず大覚寺統の嫡流である邦良親王の遺児たちをも皇位継承から外し、本来傍流であったはずの自分の皇子恒良親王を皇太子に立て、父の遺言を反故にして自らの子孫により皇統を独占する意思を明確にした。
 建武の新政は表面上は復古的であるが、内実は中国的な天皇専制を目指した。・・・
 倒幕に功績のあった護良親王が征夷大将軍の地位を望んだために親王との確執が深まり、同じく天皇と対立していた尊氏の言を受けて親王を鎌倉に配流している。・・・
 吉野(現奈良県吉野郡吉野町)に自ら主宰する朝廷を開き、京都朝廷(北朝)と吉野朝廷(南朝)が並立する南北朝時代が始まる。後醍醐天皇は、尊良親王や恒良親王らを新田義貞に奉じさせて北陸へ向かわせ、懐良親王を征西将軍に任じて九州へ、宗良親王を東国へ、義良親王を奥州へと、各地に自分の皇子を送って北朝方に対抗させようとした。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E9%86%8D%E9%86%90%E5%A4%A9%E7%9A%87
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 ちなみに、後鳥羽上皇は、「上皇」たる治天の君、すなわち、最高権力者であったわけですが、この時は、形式上も実態上も政治無答責のはずの孫の仲恭天皇が、在位78日で廃位に追い込まれています。
 「仲恭天皇は幼児で将軍九條頼経の従兄弟であることからその廃位は予想外であったらしく、後鳥羽上皇の挙兵を非難していた慈円でさえ、幕府に仲恭の復位を願う願文を納めている」ところです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%B2%E6%81%AD%E5%A4%A9%E7%9A%87
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[後鳥羽上皇]
 「承久3年(1221年)5月14日、後鳥羽上皇は、時の執権・北条義時追討の院宣を出し、畿内・近国の兵を召集して承久の乱を起こしたが、幕府の大軍に完敗。わずか2ヶ月あとの7月9日、19万と号する大軍を率いて上京した義時の嫡男・泰時によって、後鳥羽上皇は隠岐島・・・に配流された。父の倒幕計画に協力した順徳上皇は佐渡島に流され、関与しなかった土御門上皇も自ら望んで土佐国に遷った。これら三上皇のほかに、院の皇子雅成親王は但馬国へ、頼仁親王は備前国にそれぞれ配流された。さらに、在位わずか3ヶ月足らずの仲恭天皇(当時4歳)も廃され、代わりに高倉院の孫、茂仁王が皇位に就き、その父で皇位を踏んでいない後高倉院が院政をみることになった。・・・
 後白河法皇の崩御後は自ら親政及び院政を行ったが、治天の君として土御門天皇を退かせて寵愛する順徳天皇を立てその子孫に皇位継承させた事には貴族社会からは勿論、他の親王達からの不満を買った。また三種の神器を欠いた即位の経緯も不評を買った。専制的な暴政や無謀な討幕計画に対しては院の側近以外の貴族達は冷ややかな対応に終始した。・・・
 <但し、>中世屈指の歌人であり、その歌作は後代にまで大きな影響を与えている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E9%B3%A5%E7%BE%BD%E5%A4%A9%E7%9A%87 
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3 モード転換示唆者としての天皇
 (1)拡大弥生時代→第一次縄文モード
 平和な時代に入ったことを示唆したのが嵯峨天皇です。
 但し、彼は、まだ、支那文明継受、すなわち、開国の姿勢は維持しています。↓
 「嵯峨天皇(・・・延暦5年9月7日(786年10月3日) – 承和9年7月15日(842年8月24日))は、日本の第52代天皇(在位:大同4年4月1日(809年5月18日) – 弘仁14年4月16日(823年5月29日))。 ・・・
 平穏な治世を送り宮廷の文化が盛んな時期を過ごした。弘仁9年(818年)、弘仁格を発布して死刑を廃止した。中央政界における死刑の廃止は以後保元の乱まで338年間続く。・・・
 最末期には墾田永年私財法の改正などを行って大土地所有の制限を緩和して荒田開発を進め、公営田・勅旨田の設置などが行われている。・・・
 漢詩、書をよくし、三筆の一人に数えられる。書作品としては延暦寺蔵の「光定戒牒」(国宝)が知られる。また、華道嵯峨御流の開祖とも伝わっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B5%AF%E5%B3%A8%E5%A4%A9%E7%9A%87
 国風文化の振興を行うことで、支那文明継受の停止(注5)、すなわち、鎖国、を示唆したのは宇多天皇であり、彼が天皇の時に、遣唐使が事実上廃止され、いわば、第一次鎖国時代が到来しています。
 (注5)「桓武天皇の時代期[781~806年]をもって、律令制の終焉とする論者もいる<が、>・・・多くの論者が、律令制は遅くとも10世紀末までに死滅したとしている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8B%E4%BB%A4%E5%88%B6
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%93%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87 ([]内)
 なお、彼は、初めて法皇の称号を用い、院政の前駆的試みも行っています。↓
 「宇多天皇(・・・貞観9年5月5日(867年6月10日) – 承平元年7月19日(931年9月3日))は、日本の第59代天皇(在位:仁和3年8月26日(887年9月17日) – 寛平9年7月3日(897年8月4日))。・・・
 宇多は寛平9年7月3日(897年8月4日)に突然皇太子敦仁親王を元服させ、即日譲位した(醍醐天皇)。この宇多の突然の譲位は、かつては仏道に専心するためと考えるのが主流だったが、近年では藤原氏からの政治的自由を確保するためこれを行った、あるいは前の皇統に連なる皇族から皇位継承の要求が出る前に実子に譲位して己の皇統の正統性を示したなどとも考られている(後述の『大鏡』にある陽成上皇の言がその暗示と考えられている)。・・・
 新たに即位した醍醐には自らの同母妹・為子内親王を正妃に立て、藤原北家嫡流が外戚となることを防ごうとした。また譲位直前の除目で菅原道真を権大納言に任じ、大納言で太政官最上席だった時平の次席としたうえで、時平と道真の双方に内覧を命じ、朝政を二人で牽引するよう命じた。・・・
 宇多は譲位後も道真の後ろ盾となり、時平の独走を防ごうとしていた・・・
 延喜元年(昌泰4年を改元)12月13日、宇多は東寺で伝法灌頂を受けて、真言宗の阿闍梨となった。・・・
 延喜13年3月13日(913年4月22日)には後院の亭子院で大掛かりな歌合「亭子院歌合」を開いた。これは国風文化の盛行の流れを後押しするものとなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%A4%9A%E5%A4%A9%E7%9A%87
 「遣唐使は、寛平6年(894年)の派遣が遣唐大使菅原道真による建議「請令諸公卿議定遣唐使進止状」により停止された。・・・「唐への憧憬の根底にある唐の学芸・技能を凌駕したとする認識の生成」が、遣唐使派遣事業の消極化の背景として挙げられる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A3%E5%94%90%E4%BD%BF
 「法皇の称号は平安時代の宇多天皇が初めて使った。平安時代には白河法皇、鳥羽法皇、後白河法皇などが法皇として院政を行った。江戸時代の霊元法皇がこの称号を使った最後の上皇である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E4%B8%8A%E6%B3%95%E7%9A%87
 (2)第一次縄文モード→第一次弥生モード
 死刑の復活によって、平和な時代が終わったことを宣言するとともに、日宋貿易の奨励に努め、開国の時代への復帰を寿いだのが後白河天皇/法皇です。
 その後白河は、『梁塵秘抄』等を通じて、ノモスの象徴たる天皇の役割を再宣明し、活性化した天皇/法皇でもありました。
 また、彼は、次第に力を伸ばす武士勢力の最高実力者を、致命的なミスを犯すことなく見定め続けたことによって、天皇家の権威を維持することに成功しました。↓
 「後白河天皇(・・・大治2年9月11日(1127年10月18日) – 建久3年3月13日(1192年4月26日)、在位:久寿2年7月24日(1155年8月23日) – 保元3年8月11日(1158年9月5日))・・・。・・・
 異母弟・近衛天皇の急死により皇位を継ぎ、譲位後は34年に亘り院政を行った。その治世は保元・平治の乱、治承・寿永の乱と戦乱が相次ぎ、二条天皇・平清盛・木曾義仲との対立により、幾度となく幽閉・院政停止に追い込まれるが、そのたびに復権を果たした。政治的には定見がなくその時々の情勢に翻弄された印象が強いが、新興の鎌倉幕府とは多くの軋轢を抱えながらも協調して、その後の公武関係の枠組みを構築する。南都北嶺といった寺社勢力には厳しい態度で臨む反面、仏教を厚く信奉して晩年は東大寺の大仏再建に積極的に取り組んだ。和歌は不得手だったが今様を愛好して『梁塵秘抄』[1180年前後]を撰するなど文化的にも大きな足跡を残した。・・・
 今様の遊び相手には・・・京の男女、端者(はしたもの)、雑仕(ぞうし)、江口・神崎の遊女、傀儡子(くぐつ)など幅広い階層に及んだ。・・・
 後白河院は清盛の進める日宋貿易に理解を示し、貴族の反対を抑えてその拡大に取り組んだ。・・・
 後白河院は<1185年に源義経に>源頼朝追討の宣旨を下した<・・後白河最大のミスと言えよう(太田)・・>後、高階泰経に「保元以来乱逆が相次ぎ、玉体を全うするためにこのような処置をとってきたが、今後も乱逆が絶えないだろうから治世から身を引きたい」(『玉葉』文治元年10月25日条)と心情を吐露している。しかし他に貴族政権を取りまとめる者がいなかったことも事実であり、最期まで政治の実権を握り続けた。頼朝との悪化した関係は建久元年(1190年)の頼朝上洛により修復され、この時に成立した朝廷と鎌倉幕府の協調関係は、承久の乱まで約30年間保たれることになった。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E7%99%BD%E6%B2%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%81%E5%A1%B5%E7%A7%98%E6%8A%84 ([]内)
 「白河院政下で逼塞していた摂関家は、鳥羽院政が開始されると藤原忠実の女・泰子(高陽院)が鳥羽上皇の妃となり息を吹き返した。関白の藤原忠通は後継者に恵まれなかったため、異母弟の頼長を養子に迎えた。しかし康治2年(1143年)に基実が生まれると、忠通は摂関の地位を自らの子孫に継承させようと望み、忠実・頼長と対立することになった。・・・
 1156年・・・7月2日申の刻(午後4時頃)に<治天の君であった>鳥羽法皇は崩御した。・・・7月9日の夜中、<後白河天皇の同母兄なるが故に治天の君たりえない>崇徳上皇<と対立していた>・・・<後白河天皇は、>自らが新たな治天の君になることを宣言した。・・・
 <こうして始まった、崇徳上皇との間の保元の乱に勝利した後白河天皇によって、>崇徳上皇は讃岐に配流された。天皇もしくは上皇の配流は、藤原仲麻呂の乱における淳仁天皇の淡路配流以来、およそ400年ぶりの出来事だった・・・<また、藤原忠実は幽閉され、頼長は戦傷死させられ、その他の>貴族は流罪と<し>・・・武士に対<しては、>・・・<810年の>薬子の変を最後に公的には<350年弱>行われていなかった死刑<を>復活<させ、>・・・<源>為義と<平>家弘<を>一族もろとも斬首さ<せ>た。>・・・
 この乱で最大の打撃を蒙ったのは摂関家だった。忠通は関白の地位こそ保持したものの、その代償はあまりにも大きかった。武士・悪僧の預所改易で荘園管理のための武力組織を解体され、頼長領の没官や氏長者の宣旨による任命など、所領や人事についても天皇に決定権を握られることになり、自立性を失った摂関家の勢力は大幅に後退する。・・・
 宮廷の対立が武力によって解決され、数百年ぶりに死刑が執行されたことは人々に衝撃を与え、実力で敵を倒す中世という時代の到来を示すものとなった。慈円は『愚管抄』においてこの乱が「武者の世」の始まりであり、歴史の転換点だったと論じている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E5%85%83%E3%81%AE%E4%B9%B1
 後白河天皇/法皇によって再宣明され、活性化されたところの、ノモスの象徴としての天皇の役割は、爾後、堅持されていくことになります。↓
 「網野善彦の一連の研究によれば、中世において、私に言わせれば鎌倉幕府以降に天皇が制度的に象徴天皇になってからということだが、 まあそういう中世においては・・・・どうも私的な生活の面で、天皇の権威というものが芸能者、木地師、鋳物師などの下層の職能民と深く結びついていたらしい。社会には恵まれない人々が常にいるのだから、私は、これからの天皇の権威というものを考える際には、そういうことを十分考えるべきではないかと思う。 つまり、私的な生活では、社会的に見捨てられようとしている過疎地域などの地域で・・地域文化を守りつつ苦しい生活を余儀なくされている人々であると か・・・・、身体障害者などの社会的に恵まれない人たちであるとか、そういう人たちとの触れあい、響き合い、「コミュニケーション」を深め<るわけだ。>」
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/koumei3.html
 「十一世紀以降、多様な職能民集団は各々の来歴、立場に応じて、天皇や神仏の直属民となり、その中の主だったものは供御人,神人,寄人などの称号を与えられて活動<した。>」
https://books.google.co.jp/books?id=hW4lAQAAMAAJ&q=%E5%A4%A9%E7%9A%87+%E8%81%B7%E8%83%BD%E6%B0%91%E3%80%80%E7%B6%B2%E9%87%8E&dq=%E5%A4%A9%E7%9A%87+%E8%81%B7%E8%83%BD%E6%B0%91%E3%80%80%E7%B6%B2%E9%87%8E&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwiPx-bfydjKAhVCG6YKHfKzCOoQ6AEIGzAA
 「神仏.天皇への直属民として職能民を組織した神人,供御人制は「封建制」と異質と見てまちがいないが、西国に限定され、東国ではほとんど作動していない」
https://books.google.co.jp/books?id=mZIfAQAAMAAJ&q=%E5%A4%A9%E7%9A%87+%E8%81%B7%E8%83%BD%E6%B0%91%E3%80%80%E7%B6%B2%E9%87%8E&dq=%E5%A4%A9%E7%9A%87+%E8%81%B7%E8%83%BD%E6%B0%91%E3%80%80%E7%B6%B2%E9%87%8E&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwiPx-bfydjKAhVCG6YKHfKzCOoQ6AEIKjAD
 (3)第一次弥生モード→第二次縄文モード
 平和を祈願し、身をもって人間主義の振興に努めたのが後奈良天皇です。↓
 「後奈良天皇(・・・明応5年12月23日(1497年1月26日) – 弘治3年9月5日(1557年9月27日))は、室町時代・戦国時代の第105代天皇(在位:大永5年4月29日(1526年6月9日)- 弘治3年9月5日(1557年9月27日))。・・・
 後柏原天皇の崩御にともない践祚した。しかし、朝廷の財政は窮乏を極め、全国から寄付金を募り、10年後の天文5年2月26日(1535年3月29日)にようやく紫宸殿にて即位式を行う事ができた。寄付した戦国大名は後北条氏、大内氏、今川氏などである。
 後奈良天皇は、宸筆(天子の直筆)の書を売って収入の足しにしていた。だが、清廉な人柄であったらしく、天文4年(1535年)に一条房冬を左近衛大将に任命した際に秘かに朝廷に銭1万疋の献金を約束していた事を知って、献金を突き返した。さらに、同じ年に即位式の献金を行った大内義隆が大宰大弐への任官を申請したが、これを拒絶した。大内義隆の大宰大弐任命は、周囲の説得で翌年にようやく認めた。
 慈悲深く、天文9年(1540年)6月、疾病終息を発願して自ら書いた『般若心経』の奥書には「今茲天下大疾万民多阽於死亡。朕為民父母徳不能覆、甚自痛焉」との悲痛な自省の言を添えている。また、天文14年(1545年)8月の伊勢神宮への宣命には皇室と民の復興を祈願するなど、天皇としての責任感も強かった。
 三条西実隆、吉田兼右らに古典を、清原宣賢から漢籍を学ぶなど学問の造詣も深かった。御製の和歌も多く、『後奈良院御集』『後奈良院御百首』などの和歌集、日記『天聴集』を残している。さらに、なぞなぞ集『後奈良天皇御撰名曾』は、貴重な文学資料でもある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%A5%88%E8%89%AF%E5%A4%A9%E7%9A%87
 なぞなぞ集を編纂する↑ことで、改めてノモスの象徴としての天皇の役割を果たしたことでも、後奈良天皇は銘記されるべきでしょう。
 なお、下掲に、当時のなぞなぞがどんなものであったか、その一端が掲げられています。↓
http://snob.s1.xrea.com/fumikura/motooriuchito_nazo/
 キリスト教、つまりは、スペイン・ポルトガル帝国を排斥するとともに・・換言すれば、第二次鎖国の先駆けとなるとともに・・、平和、ないし、平和的手段による戦国時代の終焉を促進した、のが正親町天皇です。↓
 「正親町天皇(おおぎまちてんのう、永正14年5月29日(1517年6月18日) – 文禄2年1月5日(1593年2月6日))は、第106代天皇(在位:弘治3年10月27日(1557年11月17日) – 天正14年11月7日(1586年12月17日))。・・・
 弘治3年(1557年)、後奈良天皇の崩御に伴って践祚した。当時、天皇や公家達はすでに貧窮していた。戦国大名・毛利元就の献上金があるまで、3年間即位の礼を挙げられなかった。
 さらに、本願寺法主・顕如も莫大な献金を行っており、天皇から門跡の称号を与えられた。これ以後、本願寺の権勢が増した。永禄8年(1565年)には、キリスト教宣教師の京都追放を命じた。
 朝廷の財政は逼迫し、権威も地に落ちかけていた。永禄11年(1568年)、織田信長は、正親町天皇をお護りするという大義名分により、京都を制圧した。 この上洛によって、皇室の危機的状況に変化が訪れていた。信長は、逼迫していた朝廷の財政を様々な政策や自身の援助により回復させた。一方で、天皇の権威を利用し、信長の敵対勢力に対する度重なる講和の勅命を実現させた。元亀元年(1570年)の朝倉義景・浅井長政との戦い、天正元年(1573年)の足利義昭との戦い、天正8年(1580年)の石山本願寺との戦いにおける講和は、いずれも正親町天皇の勅命によるものである(ただし、本願寺との和議は本願寺側からの依頼という説もある)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E8%A6%AA%E7%94%BA%E5%A4%A9%E7%9A%87
 「信長は、石山合戦にあたり、四天王寺の近辺にも「四天王寺砦」を築いて戦いました。周辺は激戦区となり、76年に四天王寺の伽藍は焼失してしまいます。これを聞いた正親町天皇は、
 「聖徳太子が建立した国家安泰祈願の寺院の焼失は、戦乱を長引かせる原因になる」
 と深く嘆き、全国で募金を集め、四天王寺を再建するように命じる綸旨(りんじ)を発しました。これを受けて、信長も78年に四天王寺境内での狼藉を禁じる命令を出し、四天王寺に60石を献上しています。・・・
 <これは、>聖徳太子の「和をもって尊しとなす」の精神を旨としていたのではないでしょうか。
 正親町天皇は、群雄割拠の戦国時代にあって「みんな仲良く」と訴え続け、苦悩していた天皇のような気がします。」
http://biz-journal.jp/2015/09/post_11455.html
 「天正12年(1584年)<の>・・・小牧・長久手の戦い・・・の最中の10月15日、秀吉<を>初めて従五位下左近衛権少将に叙位任官<し、>秀吉<を、>官職でも、順次主家の織田家を凌駕<させて行った。>・・・<そして、>天正12年(1584年)11月21日、<秀吉を>従三位権大納言に叙任<し>、これにより公卿と<し>た。この際、<秀吉は、>将軍任官を勧められたが断ったとする説もある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89
 この↑ように、覇権を求めて秀吉と織田信雄/徳川家康が互角の戦いを繰り広げている真っ最中に、あえて、秀吉を「選んだ」眼力は大変なものです。
 天皇制は、このような、歴代天皇の、時代と人物を見る能力のおかげで維持されてきたわけです。
 正親町天皇の孫でその譲位を受けて即位した後陽成天皇が、秀吉による朝鮮出兵に反対したり秀次殺害に不快感を示したのも、前者に関しては平和の時代を希求する世論に配意するとともに、秀吉というか豊臣家の力量を早くから見限っていた、ということではなかったか、と私は思うのです。↓
 「後陽成天皇(ごようぜいてんのう、元亀2年12月15日(1571年12月31日) – 元和3年8月26日(1617年9月25日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての第107代天皇(在位:天正14年11月7日(1586年12月17日) – 慶長16年3月27日(1611年5月9日))。・・・
 豊臣秀吉は、支配の権威として関白、太閤の位を利用したために天皇を尊重し、その権威を高める必要があり、朝廷の威信回復に尽力した。天正16年(1588年)に秀吉の演出した天皇の聚楽第行幸は盛大に行われた。二十五箇条の覚書によれば文禄の役では秀吉が明を征服した暁には後陽成天皇を明の皇帝として北京に遷し、政仁親王か八条宮智仁親王を日本の天皇にしようとした。ただし、後陽成天皇は秀吉の外征には反対であり、秀吉に対して「無体な所業」であると諭している。秀吉は文禄2年(1593年)に文禄の役で日本に持ち帰られた李朝銅活字の器具と印刷書籍を後陽成天皇に献上した。同年、天皇は六条有広や西洞院時慶らに命じ、この技術を用いて「古文孝教」を印刷したと伝えられている(文禄勅版)。これは日本での銅活字を用いた最初の印刷とされている。また、後陽成天皇は慶長2年(1597年)に李朝銅活字に倣って大型木活字による勅版「錦繍段」を開版させている(慶長勅版)。・・・ 
儒学や和学に造詣があり自著に『源氏物語聞書』『伊勢物語愚案抄』などがあり、『日本書紀』を慶長勅版として刊行した。
秀吉に切腹を命じられた豊臣秀次の菩提を弔う日秀尼(秀次の母、秀吉の姉)に、瑞龍寺 (近江八幡市) の寺号を与えている。その後、瑞龍寺は日蓮宗唯一の門跡寺院となった。・・・
 秀吉の死後の関ヶ原の戦いでは、丹後田辺城に拠って西軍と交戦中の細川幽斎を惜しみ、両軍に勅命を発して開城させている。慶長8年(1603年)に、徳川家康を征夷大将軍を任じ、江戸幕府が開かれる。朝廷権威の抑制をはかる幕府は干渉を強め、官位の叙任権や元号の改元も幕府が握る事となった。慶長14年(1609年)に宮中女官の密通事件(猪熊事件)では、幕府の京都所司代に厳罰を要請している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E9%99%BD%E6%88%90%E5%A4%A9%E7%9A%87
 元和偃武:「慶長20年(元和元年・1615年)5月の大坂夏の陣において江戸幕府が大坂城主の羽柴家(豊臣宗家)を攻め滅ぼしたことにより、応仁の乱(東国においてはそれ以前の享徳の乱)以来150年近くにわたって断続的に続いた大規模な軍事衝突が終了したことを指す。江戸幕府は同年7月に元号を元和と改めて、天下の平定が完了した事を内外に宣した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%92%8C%E5%81%83%E6%AD%A6
 猪熊事件:「公家の乱脈ぶりを憂慮した幕府は、公家統制の重要性を悟り、慶長18年(1613年)の「公家衆法度」の制定を招き、さらに慶長20年(1615年)の「禁中並公家諸法度」制定につながっていくこととなる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8C%AA%E7%86%8A%E4%BA%8B%E4%BB%B6
 なお、徳川幕府は、盲人の保護、等、「各自にそのところを得さしめる」政治を徹底的に行います(コラム#省略)が、この人間主義的統治は、象徴たる歴代天皇の嘉するところであった、ということを忘れてはなりますまい。
 (4)第二次縄文モード→第二次弥生モード
 徳川家康は、天皇家をがんじがらめにする方策を講じたわけですが、結局、第二次弥生時代の到来を予見した天皇家のイニシアティヴによって、徳川幕府は終焉を迎えさせられることになります。
 孝明天皇による、幕府の外交安保政策批判、そして、日米修好通商条約反対と航海遠略策(注6)支持、とがモード転換の起点になったのです。
 (注6)「長州藩の長井雅楽(時庸)が文久元年(1861年)頃に提唱したもの<であり、>・・・異人斬りに象徴される単純な外国人排斥である小攘夷や、幕府が諸外国と締結した不平等条約を破棄させる破約攘夷ではなく、むしろ積極的に広く世界に通商航海して国力を養成し、その上で諸外国と対抗していこうとする「大攘夷」思想に通じる考えで、その精神自体は後の明治維新の富国強兵・殖産興業などにも影響を与えたとも言える」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%AA%E6%B5%B7%E9%81%A0%E7%95%A5%E7%AD%96
 その後、若干の紆余曲折を経て成立した明治新政府の最大の課題が、不平等条約の改正と開国の下での富国強兵となったことを考えれば、孝明天皇の先見の明には、ただただ感嘆するほかありません。
 そもそも、明治維新の担い手となった長州藩と薩摩藩を引き立てたのは孝明天皇であり、この眼力にも瞠目せざるをえません。↓
 「孝明天皇(・・・天保2年6月14日(1831年7月22日) – 慶応2年12月25日(1867年1月30日)は、江戸時代の第121代天皇。在位は弘化3年2月13日(1846年3月10日)‐ 慶応2年12月25日(1867年1月30日)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87 
 「1846年(弘化3年)、アメリカ艦隊が浦賀に来航するなど異国船が盛んに日本にやってくる。そこで天皇は8月に、時の関白であった鷹司政道(たかつかさまさみち)を通して、幕府が異国船に対して適切な対策を採ることを求めた。これは対外問題に関して天皇が勅を幕府に下した最初のケースとなった。・・・
 1853年(嘉永6年)6月のペリー一行の来日と、彼らによる開国(通商)要求がなされ<た>・・・直後から、幕府は、朝廷にいわゆる幕府・朝廷・諸藩の三者からなる公儀権力の一員として、それなりの役割をはたすことを求めるようになる。それが何であったかというと、宗教的役割をはたすことであった。すなわち、幕府は、京都所司代を通して、異国船の「調伏(ちょうぶく)」、つまり朝廷が神社仏閣に異国船を滅ぼすための祈願を命じることを要請する。そして、これは、以後、幕府が朝廷に求める基本的な要請となり、朝廷側もこれに常に応じていく関係が築かれていく。以上は家近良樹の近著「孝明天皇と<一会桑(いっかいそう)>(2002年1月、文芸春秋)」
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/koumei2.htm
 日米修好通商条約の調印勅許<に>・・・孝明天皇は<反対し>た。・・・
 正親町三条実愛を通して建白された長州藩の長井雅楽の「航海遠略策」が嘉納され、文久元年(1861年)6月2日、長州藩主毛利敬親は御製の和歌を賜った。・・・
 <もっとも、その後、>尊攘派公家が長州勢力と結託して様々な工作を計ったことなどもあり、長州藩には最後まで嫌悪の念を示し続け<ることになる>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87 前掲
 「京都では尊王攘夷を唱える志士が各地から集まる事態となり、朝廷は薩摩藩の島津久光に市中の警備を依頼した。これに応えて朝廷の信頼を得た久光は、自身が構想する幕政改革案として
1.将軍が諸大名を率いて上洛し、国事を議する。
2.沿海5大藩の藩主を大老に任じて国政に参加させる。
3.一橋慶喜を将軍後見職に松平春嶽を政事総裁職に任じ将軍の補佐にあたらせる。
の3ヶ条を朝廷に献策し、朝廷はこれを幕府に要求するため勅使・大原重徳を江戸に派遣する。勅使一行は薩摩藩兵に警護されて6月7日に江戸入りする。大原は幕府へのものとは別に和宮宛の勅書も持参しており、それには「天皇の思召しと行き違いが無い様、3ヶ条の要求は和宮から将軍に伝えるように」とあり、6月13日に和宮は勅書の写しを将軍に手渡している。7月1日、幕府は3事策を受け入れ(文久の改革)、大原は22日に京に戻った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E5%AE%AE%E8%A6%AA%E5%AD%90%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B#.E9.99.8D.E5.AB.81
 孝明天皇評の代表的なものを紹介しておきましょう。
 まず、否定的な見解・・私見では誤り・・です。↓
 「孝明天皇は幕末最大の攘夷論者だった。その天皇の叡慮に誰よりも忠実に従ったのが長州藩であった。天皇はその長州を裏切ったのである。
 しかし孝明天皇を責めるのは酷かもしれない。伝統行事と学問をするだけで、政権担当能力を奪ってきた徳川幕府の対禁裏政策の勝利といえば皮肉にすぎるだろうか。」
http://shogiku.sakura.ne.jp/hito18komeitei.html
 次に、私見に近い肯定的な見解です。
 なお、孝明天皇の、日米修好通商条約反対理由は、私のように理解できると思う次第です。↓
 「1858年(安政5年)1月、孝明天皇は関白の九条尚忠に対し、「夷人願い通りにあひ成り候ては、天下の一大事のうえ、私の代よりかような儀にあひ成り候ては、後々までの恥の恥に候はんや」と、幕府が進める開国通商路線に否定的な考えを表明する。・・・
 天皇というものは、元来、歴史や伝統文化を重んずる立場のものであろう。・・・
 歴史や伝統文化を重んじるべき天皇が幕府の開国通商路線に反対の意思表明をするのは当然であろう。幕府の路線も間違いとは言えないし、孝明天皇の意思表明も間違いであったとは到底言えない。・・・
 そういう葛藤の中、尊王を基本として、開国を進めようとする幕府の立場をも尊重するのが公武合体である。対立の末、公武合体が大勢の傾くところと思われたが、孝明天皇の突然の死によってそれが実現せずに終わってしまった。・・・
 象徴天皇の思想的裏打ちは・・・・明恵の「あるべきようわ」にある。・・・
 孝明天皇が生きていたら、公武合体がなったであろうし、違った政治体制になっていたかもしれない。そうすれば伊藤博文や大隈重信の影響力がもっと発揮できたかもしれないと思うのだ。まことに残念なことである。しかし、それが時代の流れかもしれないとも思うのである。・・・
 私は、天皇というものは、わが国の歴史・伝統文化を考えたとき、当然、象徴天皇であるべきだと思う。しかし、孝明天皇がそうであったように、外国の圧力などの予期しがたい事象によって政治に混乱が生じ、民心安定のため早急にその秩序回復を図る必要があると思われるようなときは、天皇は、自らの意思で政治に関与して、わが国の歴史・文化を尊重するという基本的立場に立ち、しかも国際諸情勢を十分勘案の上、政治秩序の早期回復を図ることが必要である。それが歴史的自己としての天皇の役割であろう。私は、孝明天皇は歴史的自己としての天皇を立派に生きられたと思うのである。」
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/koumei2.htm 前掲
 (5)第二次弥生モード→第三次縄文モード
 時間の関係もあり、省略します。
3 終わりに
 政治無答責で福祉関係に尽力する(=社会の弱者達に・・・手を差し伸べる)、という近代君主制を、1000年以上先取りしていたのが日本の天皇制である、と言うべきでしょう。
 考えてみると、「天皇制の維持を至上命題としている天皇」、という項を立てるべきだったのかもしれません。
 もっとも、そのような私の視点を、皆さんは本日私が行った話の随所でお感じになられたのではないでしょうか。
 その関連ですが、これまでたびたび記してきたように、天皇制存続は長期的に日本の国益に合致していることは確かではあっても、歴代天皇がそのためにとる言動が、短期的・中期的国益には背馳することがありうることを、我々は銘記すべきでしょう。
 後、歴代天皇の中に、学者、芸術家としても一流の人物が多かったことも・・。
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太田述正コラム#8297(2016.3.26)
<2016.3.26東京オフ会次第>
→非公開