太田述正コラム#8098(2015.12.17)
<楊海英『日本陸軍とモンゴル』を読む(その8)>(2016.4.2公開)
 「1938年8月、興安軍官学校は鄭家屯(ていかとん)から北の王爺廟(おうやびょう)に移転した。
 <名称も、>・・・1939年10月から陸軍興安学校<に変更さ>れた(金海・・・)。・・・
 王爺廟はまた興安街<(注20)>とも呼ばれ、大勢の日本人が暮らしていた。
 (注20)「中国内モンゴル自治区・・・にある町、ウランホト(烏蘭浩特)の旧称の一つ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E7%88%BA%E5%BB%9F_(%E6%9B%96%E6%98%A7%E3%81%95%E5%9B%9E%E9%81%BF)
 「ウランホト市は内モンゴル自治区の北東部、大興安嶺南麓の・・・草原に位置<し、>・・・北西部はモンゴルと国境を接している。・・・1947年5月、ウランフを中心とした内モンゴル自治政府(後の内モンゴル自治区人民政府すなわち現在の内モンゴル自治区)成立時の首府とされた。同年12月にウルンホトと改称された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%9B%E3%83%88%E5%B8%82
 ウランフ(1906~1988年)は中共「の政治家、軍人。モンゴル族。内モンゴル自治区において党政軍の最高職を兼ね、中央において国務院副総理、国家副主席を歴任した。「蒙古王」とも呼ばれた。最終階級は上将。・・・中国共産党に入党<し、>モスクワ中山大学に留学」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%95
 作家で、日本銀行の副総裁もつとめた藤原作弥<(注21)>の父親藤原勉(つとむ)は、興安軍官学校の国語すなわち日本語の教授だった。
 (注21)1937年~。「宮城県仙台市生まれ。1942年、言語学者の父に従って朝鮮の清津へ移住する。1944年、満洲の興安街に転居するが、1945年ソ連軍による侵攻の9時間前に脱出、1946年帰国。宮城県仙台第一高等学校を経て、1962年東京外国語大学フランス語科卒、時事通信社に入社。経済部記者として大蔵省担当。1967年よりオタワ、ワシントン特派員。以後、日本銀行、経団連、外務省などの担当を経て、編集委員、解説委員、解説委員長を歴任。1982年『聖母病院の友人たち』で日本エッセイスト・クラブ賞受賞。1998年、日銀副総裁に就任(~2003年)。2003年、日立総合計画研究所取締役社長(~2007年)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BD%9C%E5%BC%A5
 藤原作弥も小学校時代のひとときを王爺廟で過ごしていた。(『満州、小国民の戦記』<(1984年(上掲))>」(121~122)
 「1939年・・・5月からノモンハン戦争が勃発していた。
 日本とソ連間の衝突であるが、モンゴル人は双方に分かれて参戦した。・・・
 植民地ならではの悲劇である。・・・
 その時、ジョンジョールジャブ上校<(大佐)>は・・・「妻が病気なので、10日間ほど休暇をもらう。前線には遅れていく」と言<った。>・・・
 日本人とロシア人の代理戦争に弱小民族の鮮血を流したくない、と考えた可能性が高い。・・・
⇒こんな理由による有事における命令拒否を看過した日本陸軍は甘すぎた、と言うべきでしょう。
 だからこそ、ソ連軍の満州侵攻の際に、ジョンジョールジャブの大逆、29名もの日本人の死(前出)、がもたらされたのです。(太田)
 <他方、無条件で参戦しようとした>ハスバートル<は、>「きみは前線に行かなくていい。王爺廟に残れ」と命令<され>た。・・・
 あとで分かったことだが、ハスバートルはソ連のキエフの騎兵学校に留学していたので、日本人から信用されていなかったのである。(胡克巴特爾(フクバートル)・・・)
 なお、ハスバートルは内モンゴル人民革命党の党首、バヤンタイ(白雲梯)の弟で、日本への留学経験を有する・・・。
 <彼は、>後日、日本<が降伏>したあと、彼はモンゴル人民共和国との民族統一を強く唱えた。
 しかし、中国共産党は彼の存在を許さず、「アヘン吸引の嫌疑がある」とでっちあげて、失脚に追いこんだ。
 文化大革命が発動され、モンゴル人が大量虐殺されていた1968年2月5日、彼はハイラル神社<(注22)>内の四阿(あずまや)で自殺した。
 (注22)「ハイラル神社の手水舎跡」の写真が載っている。↓
http://4travel.jp/travelogue/10788334
⇒1968年時点で、神社がそのまま残っているはずがないのであって、「神社跡」と書くべきなのにそうしなかった点にも、歴史学者としての楊の杜撰さが現れています。(太田)
 近くにノモンハンで戦死した日本兵の慰霊碑が建っていた場所である・・・。
 <このように、>民族の統一と民族自決を夢みるナショナリストたちは、日本軍からも中国共産党からも排除され続けた。
 弱小民族の悲劇である。」(137~139、142~143)
⇒これだけの材料で判断するのは危険ですが、私は、楊のハスバートル評は間違っているように思えてなりません。
 兄が党首の内モンゴル人民革命党が容共政党であった(前出)こと、本人にソ連留学経験があったこと、から、ハスバートルがノモンハンで、親族や友人達と戦うことになる場面の出来の可能性が考えられ、忍びない、と日本の陸軍軍人達が、(彼を信頼し、高く評価していたからこそ、)彼に配慮したのではないか、と私には想像されるのです。
 彼が自裁した場所が、まさに、彼の、日本や日本人に対する、一貫した敬慕の念を端的に物語っているのではないでしょうか。(太田)
(続く)