太田述正コラム#8160(2016.1.17)
<ロマノフ王朝(その2)>(2016.5.3公開)
 「・・・アレクセイの息子<が>ピョートル大帝<(注5)(コラム#145、548、574、1560、2856、3902、6189、6783、7266、7506、8158)だ。>
 (注5)ピョートル(Peter)1世。1672~1725年。「モスクワ・ロシアのツァーリ(在位:1682年~1725年)、初代のロシア皇帝(インペラートル / 在位:1721年~1725年)。大北方戦争での勝利により、ピョートル大帝(ピョートル・ヴェリーキイ ・・・)と称される。」アゾフ海とバルト海に進出し不凍港を獲得するとともに海軍を創設した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AB1%E4%B8%96
 著者は、好奇心、ヴィジョン、そして「祝宴の暴虐(tyranny by feasting)」における酒宴群に耐える能力を持っていたところの、超活動的な男の記憶すべき肖像を描写する。
 彼の宮廷での諸見世物小屋・・半ば軍事司令部にして、半ば飲んだくれの謝肉祭・・には、明らかに、パイの山から飛びだす裸の小人達の大掛かりな見世物が含まれていた。
 スターリンは、驚くべきことではないが、ピョートルの容赦なきエネルギーを称賛するとともに、自分自身の取り巻きを辱めるために「祝宴の暴虐」のはるかにサディスティックなヴァージョンを楽しんだ。
 ピョートルによる西欧のテクノロジーの研究<(注6)>は、ロシア社会の急速な軍事化と結び付いていた。
 (注6)「1697年3月から翌1698年8月まで、ピョートルは約250名の使節団を結成し<て欧州>に派遣<し、その際>、自ら・・・偽名を使い使節団の一員となった<が、>・・・主に・・・<イギリス>王兼オランダ総督ウィリアム3世<下の>・・・オランダのアムステルダム(4ヶ月半)と<イギリス>のロンドン(3ヶ月)に長期滞在し<ている。>・・・アムステルダムでは造船技術の習得に専心し、東インド会社所有の造船所で自ら船大工として働いた。病院・博物館・植物園を視察、歯科医療や人体解剖を見学した。・・・ロンドンでも王立海軍造船所に通い、天文台・王立協会・大学・武器庫などを訪れた。また貴族院の本会議や<イギリス>海軍の艦隊演習も見学した。ピョートルは沢山の物産品や武器を買い集め、1000人の軍事や技術の専門家を雇い入れて、その知識をロシア人に教え込ませた。」(上掲)
 彼は、スウェーデン帝国を破壊せんとの決意の下、後にナポレオンに対して用いられたの同じ、撤退戦術を用い、ロシア人達は、カール12世(Charles XII)<(注7)(コラム#6189、6520、7286)>の侵攻軍をウクライナへ引っ張り込み、1709年にポルタヴァ(Poltava)で破壊した。<(注8)>
 (注7)1682~1718年。スウェーデン国王:1697~1718年。「生涯独身だった為、王位は妹のウルリカ・エレオノーラが継承した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB12%E4%B8%96_(%E3%82%B9%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%B3%E7%8E%8B)
 (注8)「1700年に大北方戦争が始まると、・・・[現在のエストニアの都市]ナルヴァの戦いでカール12世の率いる少数精鋭の敵軍に惨敗した。しかし・・・1709年6月27日に〔ウクライナの中部<の>〕ポルタヴァの戦いでピョートルは冬将軍と焦土作戦でスウェーデン軍を弱体化させ大敗させた。・・・そして1721年に<英国>の調停でニスタット条約が結ばれ、スウェーデンとロシアがバルト海の覇権を争った大北方戦争はロシアの勝利に終わった。ロシアはフィンランドを除き占領したバルト海沿岸地域のほとんどを獲得<した。>」(上掲、及び、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84 ([]内)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%B4%E3%82%A1 (〔〕内)) 
 東部バルト地域は今や安全となり、今や、ピョートルの西欧に面した新しい首都をという大プロジェクトは安全なものとなった。
 彼は、近代化主義者だったがリベラルではなかった。
 すなわち、彼のサンクトペテルスブルグ市<(注9)>は、文字通り、泥濘の地面を整備した何万人もの農奴達の骨々の上に築かれたのだ。
 (注9)「ピョートル大帝によって1703年・・・に築かれた人工都市・・・大北方戦争の過程で、スウェーデンから奪取したバルト海・フィンランド湾沿岸・・・に新都として造営された。造営前のサンクトペテルブルク一帯は荒れ果てた沼地であり、河口付近には・・・要塞も同時並行で建設されるなど、建造作業は過酷なもので、多くの人命が失われた。・・・
 当初はオランダ語風にサンクト・ピーテルブールフ ・・・と呼ばれていたが、後にドイツ語風にサンクト・ペテルブルク・・・と呼ばれるようになる。・・・1914年、第一次世界大戦が始まりロシアがドイツと交戦状態に入ると、ロシア語風にペトログラード・・・と改められた。さらにロシア革命によりソビエト連邦が成立すると、1924年よりレーニンにちなんでレニングラード・・・と改称され、この名称が半世紀続いた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%9A%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%AF
 ポルタヴァの戦いはロシアを欧州の主要大国にした。
 野蛮だとして鼻であしらわれることがなくなり、皇帝達はドイツの王女達と結婚し、彼らの娘達や姪達をドイツの小公子達に嫁がせた。
 彼らの中の最も偉大な統治者はロシアの血が一滴も入っていなかった。
 ゾフィー・フォン・アンハルト=ツェルプスト(Sophie von Anhalt-Zerbst)として生まれた、エカテリーナ大女帝<(注10)(コラム#49、459、496、765、2362、3633、4084、5121、5732、6924、7501)>は、彼女の半分気が触れた夫であったピョートル3世がクーデタで殺された後権力の座に就いた。・・・
 (注10)エカチェリーナ2世(1729~96年。皇帝:1762~96年)「アンハルト=ツェルプスト侯・・・(プロイセン軍少将)の娘として生まれ<る。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%AB%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%8A2%E4%B8%96
 エカテリーナのハンサムな孫であるアレクサンドル1世(Alexander I)<(注11)(コラム#5228、7793、8115)>は、リベラル達の大いなる希望となったが、革命フランスにしてナポレオンのフランスに対する最終的な勝利は、病的なほど疑い深い君主達からなる神聖同盟による、欧州一帯での心無い弾圧をもたらした。
 (注11)1777~1825年。皇帝:1801~25年。ポーランド国王:1815~25年。「パーヴェル・ペトローヴィチ大公(のちのロシア皇帝パーヴェル1世)とヴュルテンベルク公フリードリヒ・オイゲンの娘マリア・フョードロヴナ(ドイツ名ゾフィー・ドロテア)の第1皇子として・・・生まれる。祖母に当たる女帝エカチェリーナ2世によって、アレクサンドル・ネフスキーにちなんで命名された。
 生まれてすぐに、祖母であるエカチェリーナ2世によって両親・・・から引き離され、女帝の手元で養育された。」彼の祖父ピョートル3世は非業の死を遂げ、父パーヴェル1世は暗殺されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AB1%E4%B8%96
 アレクサンドル・ネフスキー(1220~63年)は、「ノヴゴロド公国の公を経てウラジーミル大公国の大公(在位は1252~1263年)となる。・・・正教会で列聖されている。・・・
 1240年夏には・・・スウェーデン軍がノヴゴロドに侵攻して来たのである(ネヴァ河畔の戦い)。しかしアレクサンドルはこれに対し、わずかな兵力で大勝し、逆にスウェーデン軍を壊滅させ・・・てしまったのである。これによりアレクサンドルの勇名はロシア全土に轟き、この戦いに大勝を収めたことにより、アレクサンドルは「ネヴァ河の勝利者」という意味の「ネフスキー」と呼ばれることになったのである(注:彼を英雄と称え、ネフスキーと呼んだのは後世のロシア人)。」
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 1814年にパリに入った、皇軍の若き貴族達は、自分たち自身の国が比較していかに遅れているかに衝撃を受けたが、この経験が、アレクサンドルの死の直後の、1825年の失敗に終わったデカブリストの乱(Decembrist revolt)<(注12)>の原因の一つとなった。・・・」(A)
 (注12)1815年の12月に発生した「デカブリストの乱は、ロシア史上初のツァーリズム(皇帝専制)<廃止>と農奴解放を要求した闘争と位置づけられ、以後のロシアにおける革命運動に大きな影響を与えた。・・・
 こうした自由主義的革命運動は、ロシアでは頓挫したが、ナポレオン戦争によって<欧州>諸国へ輸出されたことを意味するものであった。デカブリストの乱以降<欧州>では、ギリシャ独立戦争、そして1830年のフランス7月革命と連鎖していき、反動化するウィーン体制へ揺さぶりをかけていったのである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%AB%E3%83%96%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%81%AE%E4%B9%B1
⇒ロマノフ朝の人々は、ピョートル大帝の頃までは、先祖がスカンジナビア人のリューリク
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%AF
であったとされるリューリク朝よりも、より純粋なロシア人であったわけですが、その後、何代もの混血を重ねて、彼らがドイツ化していったことが、一つには、ロマノフ家をして、模範をイギリス・・オランダも、ピョートル1世当時はイギリスの外延でした・・から欧州、しかも、フランスに比して後進国のドイツに求めさせるようにし向け、もう一つには、ロマノフ家を、ロシア貴族、ひいてはロシア大衆、から浮き上がらせ、てしまった、といったところでしょうか。
 (サンクトペテルブルグ市の名前の変遷を想起してください。)(太田)
(続く)