太田述正コラム#8212(2016.2.12)
<「真の水平派」とイギリス急進的リベラリズム(その1)>(2016.5.29公開)
1 始めに
 本日のディスカッションで予告した、表記に係るガーディアン掲載コラム
http://www.theguardian.com/commentisfree/belief/2016/feb/11/the-levellers-and-the-diggers-were-the-original-eurosceptics
のさわりをご紹介し、私のコメントを付します。
2 「真の水平派」とイギリス急進的リベラリズム
 「民主主義においては、人民と権力との間の親密な絆(intimate link)が求められる。
 しかし、EUは、この絆を断ち切り、大企業のためのクラブへと変貌してしまったのだ。・・・
 <さて、>大部分の人々がディッガーズ(Diggers)<(注1)>、及び、その指導者のゲラード・ウィンスタンリー(Gerard Winstanley)<(注2)>について知っていることといえば、彼らが土地を公共財貨(common treasury)に変えようと欲したところの、宗教的な社会主義者達であったことだ。
 (注1)「水平派<は、>・・・イギリスの<内戦>期に登場した党派の一つで、レヴェラーズ Levellers 、平等派ともいう。反王党派である議会派の中の、ピューリタンでジェントリ層を主力とした独立派にたいし、より急進的なグループがジョン=リルバーンを指導者として、小農民や手工業者、小商人のなかに広がった。彼らは1647年、「人民協約」をまとめ、共和政国家の樹立を掲げて、革命の推進をクロムウェルに提出した。その内容は次のようなものである。
 一.イギリスの人民は選挙のためには住民の数に応じていっそう公平に分配される。
 二.現議会は1648年9月末日に解散される。
 三.人民は二年に一度議員を自ら選挙する。
 四.議会の権力は、これを選挙する選挙民の権利に対してのみ劣るものである。
 このように人民の権利を最大限に認めることを要求したものであり、独立派のクロムウェルはその要求を認めなかった。水平派ははじめはクロムウェルに協力していたが、クロムウェルの独裁権力が固まると、クロムウェルら軍の指導者は、革命の成果を独占した上でその政策が保守的になっていった。次第にクロムウェル政権と水平派が対立を深め、国王が処刑された1649年に、クロムウェルは一方で水平派の弾圧に乗り出した。水平派はさらに下層民を母体とするディガーズ(土地私有権を認めず、あらゆるところを下層民すべての共有地だとして勝手に掘り返したので、ディガーズという)とも対立し、軍による弾圧によって抑えられていった。
http://www.y-history.net/appendix/wh1001-050.html
 (注2)Gerrard Winstanley(1609~76年)。「オリヴァー・クロムウェル(Oliver Cromwell)の護国卿政府(Protectorate)の間における、宗教改革者にして政治活動家。ウィンスタンリーは、彼らの諸信条及び諸活動によって、真の水平派(True Levellers)ないしはディッガーズ(Diggers)として知られたところの、イギリスの集団の創建者の一人だった。この集団は、囲い込み(enclosure)によって私有化されていたところの、入会地(public lands)を占拠して、諸穀物を植えるために、それらを掘り返し、諸障壁(hedges)を取り壊し、諸溝(ditches)を埋めた。
 真の水平派は、彼らが自分達自身を描写するために用いた名称であるのに対し、ディッガーズは、同時代の人々によって作り出された名称だ。」
https://en.wikipedia.org/wiki/Gerrard_Winstanley
 「囲い込み<とは、>・・・イギリスにおいて<は、>16世紀と18世紀の二回行われたものを指す。・・・
 囲い込みは以下の独立した三つの過程からなる。・開放耕地の排除 ・入会地の廃止 ・混在地制の廃止(土地の統合)<。>
 開放耕地とは収穫が終わった土地を次の種蒔きまで放牧地として共同で利用することであり、 入会地もまた共同で利用された土地である。 土地の統合は持ち主の異なる入り組んだ土地を整理統合することで大きな耕地を作り出すことである。 混在地制は共同で農作業を行う際に作業時期による収穫高の不公平を軽減するのに有効であり、 また開放耕地と入会地の存在と合わさることで、 それ程大きな土地を持たない者でも放牧を必要とする家畜を飼うことが可能となっていた。
 第一次囲い込み:牧羊目的。毛織物工業の繁栄のため、需要の増大した羊毛をより効率的に生産するために導入された。個人主導であり、農民の職を奪ったため、大きな批判を受けた。トマス・モアはそのような状況に対し、「羊が人間を喰い殺している」と批判した。
 第二次囲い込み:耕作目的。議会による立法を通じて行われた。農業革命の一環として、ノーフォーク農法に代表される高度集約農業の導入のために行われた。第二次囲い込みでは囲い込み後も農業労働力を必要とされたため、全ての農民が土地を追われたということは無く、一応は合法的手段により行われたこともあり、第一次囲い込みの様な強い批判を受けることはなかったとも考えられる。ただ、ある程度の農業従事者が賃労働者化したことは確かである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%B2%E3%81%84%E8%BE%BC%E3%81%BF
 これらの人々が、往々にして知らないのは、ディッガーズが欧州懐疑主義者達でもあったことだ。
 実際、ウィンスタンリーは、彼の・・・1649年の本、『真の水平派の旗は前進した(The True Levellers Standard Advanced)』の出だしを次のようにしている。
 「おお、イギリスは、何とまあ、強力な思い違い(Delusion)の中で生きていることか。
 この思い違いは、ノルマンのくびき(Norman yoke)<(注3)>にしてバビロニア的な<(注4)>力を投げ捨てたと装いつつ、イギリスの苦しんでいる(groaning)人々を自由な人々にすることを約束したのだ。
 (注3)「征服者、支配者として侵入してきたノルマン側と、敗北者、被支配者とならざるを得なかった<イギリス>側が異なる感覚を持ったのは当然であろう。・・・征服後世代交替が進むうちに、誰が<イギリス>人であり、誰がノルマン人かは実際には混乱してゆく。・・<しかし、>豊かな支配者はノルマン人であり、貧しい被支配者は<イギリス>人であるという意識は消えることなく継続してゆくことになる。近世に入ると、・・・王室を支持する人々にとっては、ノルマン・コンクェストは輝かしい過去の偉業であ<り、>・・・<就中>貴族階級にとっては「ノルマン・コンクェストの際に渡ってきた」先祖を持つと主張することは、自身の家柄の古さや高貴さを示す人気のある指標となった。対して影響力をもったのが「ノルマンのくびき」説である。それによれば、過去のアングロ=サクソン社会では自由で平等な人々が代表制によって統治していた。ノルマン・コンクェストによってそれらの権利が奪われ、異国の王と支配者たちによる圧制がもたらされた。しかし、人々は過去の記憶を維持し、失われた権利を取り戻す努力を続けるのである。ノルマン人の圧制に対しアングロ=サクソンの過去を美化するというモティーフは、征服直後から<イギリス>人の間で存在していた。それは近世に入り「ノルマンのくびき」説として蘇り、実際の社会を動かす力を発揮するようになってきたのである。」(中村敦子『ヨーロッパの仲間入り–イングランド史におけるノルマン・コンクェスト理解をめぐって–』(241~215頁))
http://www.hmn.bun.kyoto-u.ac.jp/report/2-pdf/1_rekishi/1_10.pdf
 (注4)古代ローマ的ないし法王権力的。
http://ejje.weblio.jp/content/Babylonish
 しかし、この思い違いは、依然として、できそこないの征服者(Bastard Conquerour(=ウィリアム1世(太田))>自身及び彼の戦争評議会(Council of War)<(注5)>がそうしたように、この、ノルマンのくびき、及び、人々を隷従させる専制、を持ち上げているのだ。・・・
 (注5)1066年にノルマン公ウィリアム(当時)がイギリス侵攻の是非について部下の貴族達や有力者達に諮問した会議
https://en.wikipedia.org/wiki/William_the_Conqueror
を指していると思われる。
 なお、イギリス侵攻と決した時、当時のローマ法王アレクサンデル2世は、これに、強力なお墨付きを与えている。(上掲。より詳しくは下掲)
https://en.wikipedia.org/wiki/Pope_Alexander_II
(続く)