太田述正コラム#8262(2016.3.8)
<生態系について(その4)>(2016.7.9公開)
 「・・・ホメオスタシスは、生物学の基本的諸原理の一つだ。
 この言葉は、特定の諸数値が特定の範囲内に収まっていることを概ね意味する形で適用されうる。
 <具体的には、>あるシステムの中を流れているエネルギー、または、諸酵素のような特定の細胞生成諸物(cellular products)、もしくは、ある生態系内の個々の諸生物の諸数値、に対して適用されうる(could refer to)。
 <それは、>諸数値が変化しないことではないのだ。
 諸数値が変化することは、しばしば、生理学的過程において核心的なことだからだ。
 そして、 その変化は、諸数値を規制するシステムによって求められるもの、であるか、規制によって対応されるところのシステム内の摂動(perturbation)<(注11)>、なのだ。
 (注11)「一般に力学系において、主要な力の寄与(主要項)による運動が、他の副次的な力の寄与(摂動項)によって乱される現象である。摂動という語は元来、古典力学において、ある天体の運動が他の天体から受ける引力によって乱れることを指していたが、その類推から量子力学において、粒子の運動が複数粒子の間に相互作用が働くことによって乱れることも指すようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%82%E5%8B%95
 規制は、かなり多くの場合、全ての諸システム全般に適用可能な鍵となる諸概念の一つであって、ある生体(living)系(system)において何が生じているかを理解するための強力な視点を提供する。・・・」(B)
 (4)攪乱者たる人間
 「・・・我々<人間達>は、生物多様性(biodiversity)<(注12)>を急速に失いつつある、というか、積極的に破壊しつつある。
 (注12)「生態系・生物群系または地球全体に、多様な生物が存在していることを指す。生態系の多様性、種多様性、遺伝的多様性(遺伝子の多様性、種内の多様性とも言う)から構成される。・・・
 1985年に、<米>研究協議会(National Research Council, NRC) による生物学的多様性フォーラムの計画中に、W.G.ローゼンによって造語された。なお「Biodiversity」が初めて公式文書に使われたのは、1988年に出版された昆虫学者・生態学者エドワード・オズボーン・ウィルソンによるこのフォーラムの報告の書名としてである。・・・
 <ちなみに、>生物多様性ホットスポット<と>は多数の固有種が存在する地域<のこと>である。・・・
 生物学者の中には、現在・・・生物多様性への脅威・・・<すなわち、>多くの生物種の絶滅が起きていると考え、これを完新世大量絶滅と呼ぶ者もいる。・・・
 <現在、>かなり多くの種が絶滅危惧種に分類されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E7%89%A9%E5%A4%9A%E6%A7%98%E6%80%A7
 地球上において、巨大かつ容赦なき活動を行っているところの、人間達による恒常的な干渉(meddling)と諸要求は、自然が、その長期的な時間尺度の中では、対応する手段が乏しいように見える何物かなのだ。・・・
 <この、積極的な「干渉と諸要求」なる>次第に増大する効果的にして破壊的な(ruinous)諸活動を通じてだけでなく、我々の増進する一方の人口と長寿を通じて、我々は、地球<の正常な状態>を妨害(sabotage)しているのだ。・・・」(C)
3 終わりに
 ホメオスタシスや生物多様性といった発想は、日本のような、自然、動植物、人間の共生を旨とする人間主義社会(注13)においては、無意識的に当然視されているのであり、だからこそ、それに相当する言葉が日本では生まれなかったのであろう、と私は考えている次第です。
 (注13)「本来の神道の源流である古神道には、神籬(ひもろぎ)・磐座(いわくら)信仰があり、森林や森林に覆われた土地、山岳(霊峰富士など)・巨石や海や河川(岩礁や滝など特徴的な場所)など自然そのものが信仰の対象になっている。・・・
 古神道そのままに、奈良県の三輪山を信仰する大神神社のように山そのものが御神体、神霊の依り代とされる神社は今日でも各地に見られ、なかには本殿や拝殿さえ存在しない神社もあり、森林やその丘を神体としているものなどがあり、日本の自然崇拝・精霊崇拝でもある古神道を今に伝えている。・・・
 鎮守の森というのは、かつては神社を囲むようにして必ず存在した森林のことで、杜の字をあてることも多い。「神社」と書いて「もり」と読ませている例もあり古神道から神社神道が派生したことがうかがえる。・・・
 いわゆる里山とは異なり、身近な森林でありながらも、人間の利用のために手を入れられる森林とは一線を画する扱いを受け、一定の存在感をもつ森であり続けて来た」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%AE%E5%AE%88%E3%81%AE%E6%A3%AE
 しかし、以下についても銘記すべきだろう。
 「日本列島における森林破壊は進行し、800年代までには畿内の森林の相当部分が、また1000年頃までには四国の森林も失われ、1550年代までにこの二つの地域の森林を中心にして日本列島全体の25%の森林が失われたと考えられている。
 織豊政権期、江戸時代に入っても日本列島の森林破壊は留まる所を知らず、1710年までには本州、四国、九州、北海道南部の森林のうち当時の技術で伐採出来るものの大半は失われた。こうした激烈な森林破壊の背景には日本列島の人口の急激な膨張による建材需要や、大規模な寺社・城郭の造営が相次いだことがあったと考えられている。
 すなわち、18世紀まで日本列島の里山は継続的に過剰利用の状態にあり(「はげ山」参照)、「持続可能な」利用が為されていたわけではない。こうした広範な森林破壊は木材供給の逼迫をもたらしただけでなく、山林火災の増加、台風被害の激甚化、河川氾濫の増加など様々な災厄を日本列島にもたらすことになった。
 このような状況を憂慮した徳川幕府は1666年以降、森林保護政策に乗りだし、森林資源の回復促進と厳格な伐採規制・流通規制をしいた。こうした対策の結果、日本列島の森林資源は回復に転じ、里山の持続可能な利用が実現した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8C%E5%B1%B1
 とまれ、徳川幕府による、17世紀後半における森林保護政策を促したものは、単に、経済上、防災上の考慮だけではなく、神道や鎮守の森に象徴される人間主義的考慮もあった、と私は考えている。
(完)