太田述正コラム#0387(2004.6.21)
<終焉に向かうアルカーイダ(その2)>

 (前回のコラム#386の凡ミス等を訂正してホームページに再掲載してあります。)

3 サイード・クトゥブ

 キリスト教原理主義とアルカーイダを結ぶ人物がエジプト人のサイード・クトゥブ(Sayyid Qutb。1906??1966年。http://atheism.about.com/library/FAQs/islam/blfaq_islam_qutb.htm(6月21日アクセス))です。
 彼は1952年にムスリム同胞団(Muslim Brotherhood)(注3)の幹部になり、やがてナセル政権によって投獄され、刑死します。その彼がイスラム原理主義的回心を起こしたのは、第二次世界大戦直後の米国滞在中のことです。

 (注3)ハッサン・アルバンナ(Hassan al-Banna。1906??1949年)によってエジプトで1928年に創設されたイスラム復興団体。彼は、イスラム教をモスクの中に閉じこめようとする風潮に反発し、イスラム教とは本来「政教一致、聖軍一致、そして生活そのものである(Creed and state, book and sword, and a way of life)」とし、かかる本来のイスラム教に則った社会と道徳の改革を提唱した。アルバンナは(恐らくエジプト政府のエージェントによって)暗殺され、その生涯を終えた(http://www.jannah.org/articles/hassan.htmlhttp://www.ummah.org.uk/ikhwan/及びhttp://i-cias.com/e.o/mus_br_egypt.htm(5月21日アクセス))。

 彼は米国について、次のように書いています。
 米国人は「巨大な売春宿に住んでいるようなものだ。新聞、映画、ファッションショー、美人コンテスト、舞踏ホール、飲み屋、扇情的な文学、芸術、そしてマスメディアに一瞥をくれただけでそのことは明らかだ。」「米国の女は自分のからだのどこが扇情的であるかをよく知っている。顔、物欲しげな眼、渇きを訴える唇、まん丸い乳房、豊かな尻、そしてキレのいい股であり、格好良い脚だ。彼女達はこれらすべてを見せびらかし、隠そうとはしない」。教会の地下で米国の男女は「蓄音機の調べに合わせて踊る。床にはタップの足音が鳴り響く。腕はウェストに廻され、唇は唇に重ねられ、胸は胸に押しつけられる。会場には欲望が充ち満ちている・・」
 エジプトの親欧米知的エリートとして、クトゥブは米国に渡り、1948年から1950年にかけて首都ワシントン、コロラド州及びカリフォルニア州の大学を視察して回るのですが、その過程で彼は、都市化し、産業化した米国が上記のように「堕落」しているとし(注4)、米国を始めとする欧米世界に強い嫌悪感を覚え、敵意を燃やすのです。

 (注4)皮肉なことに、第二次世界大戦直後の米国は、世界で殆ど一カ国だけ繁栄を謳歌していたこともあって、現在のキリスト教原理主義者が懐かしむような「健全」な社会だった上、クトゥブが米国で半年以上滞在したコロラド州の田舎町に至っては、当時の米国の中でも超保守的なところであり、依然禁酒条例が施行されていたほど「健全」な場所だった。

 キリスト教とイスラム教とを問わず、原理主義に共感を示す人は、工学等の応用科学を学んだ人々を始めとする高学歴者に多いのが現実です。いわゆる専門馬鹿です(注5)。

 (注5)日本のオウム真理教の幹部に工学や医学を学んだ人間が多かったことが思い起こされる。

 クトゥブもまた典型的な専門馬鹿の一人であったと言って良いでしょう。その彼は、専門馬鹿であって都市化し産業化した米国への嫌悪感を通じてキリスト教原理主義者となった先達とは違って、イスラム教徒であったことから、イスラム教原理主義者に生まれ変わるのです。
 キリスト教原理主義者が聖書を字義通り信じ、これに忠実に生きようとしたのに対し、クトゥブはコーランとハディス(教祖ムハンマドの言行録)を字義通り信じ、これらに忠実に生きようとします。
 もっとも、それだけのことであれば、13??14世紀に、モンゴルに席巻されていた中東に生きたイスラム法学者のイブン・タイミーヤ(Ibn Taymiya。1263??1328年)や、タイミ??ヤに影響を受けた18世紀のワハブ派(Wahhabism)の始祖アブドル・ワハブ(Abdu l-Wahhab。1703??1792年。コラム#55及びhttp://i-cias.com/e.o/abdu_l-wahhab.htm(6月21日アクセス))らイスラム復興を唱えた人々と同じであり、あえてクトゥブをイスラム原理主義者と呼ぶ必要はありません。
 クトゥブがイスラム原理主義者たるゆえんは、イスラム教の伝統的な蒙昧(jahiliya)概念を拡大したところにあります。

(続く)