太田述正コラム#8290(2016.3.22)
<神聖ローマ帝国史(その3)>(2016.7.23公開)
 「・・・ハプスブルク一族が1493年以降、皇帝の称号の恒久的保持者達となることが確立したことは、皇位に新たな威信と安定を与えたが、その地位を複雑なものにした。
 というのも、ハプスブルク家は、この帝国の外に巨大な諸領域(domains)を持っていたからだ。
 それと共に、スウェーデンとデンマークの二人の王達は、この帝国の中に諸領域を持っており、その諸機関の中に代表権を獲得していたのだ。・・・」(C)
 (4)終焉
 「・・・ウィルソンが、単純に、「この帝国は、個々の民族がそれぞれ自身の国家を持つものとされた世界の中には場所がなかった」と記しているように、この帝国は、時代を特徴づけるところの民族主義(nationalism)、に抗して生き延びることはできなかった。・・・」(A)
 (5)評価
 「・・・この帝国の旗印の下、広範な種々の異質な諸集団からなる、「帝国統治機構(governance)の多中心的性格」は、いかなる中央当局からも最小限の干渉を受けることなく繁栄することができたが、この半連邦的形態(setup)は、瞠目するほど長持ちすることになった。・・・」(A)
 「・・・裁判所制度、1490年代における印刷機の使用、行政の効果的にして廉価な諸構造、帝国財務主幹(Reichspfennigmeister=imperial penny master)が帝国最高法院(Reichs-kammergericht)<(注7)判決>に基づいて徴収し管理したところの諸手数料と諸罰金<の制度>、は、全て、驚くほどうまく機能した。・・・」(C)
 (注7)「フリードリヒ3世は司法は皇帝・・・大権・・・であるとして改革に抵抗していたが、マクシミリアン1世は諸<選定>侯<を始めとする>等族の要求に妥協をし、1495年に永久ラント平和令を施行させる機関として専門の法律家による帝国最高法院(Reichskammergericht)が開設された。だが、マクシミリアン1世はこれに対抗すべく国王/皇帝の裁判所である帝国宮内法院(Reichshofrat)を・・・開設しており、帝国には2つの最高法廷が存在することになった。・・・両裁判所は通常の刑事、民事訴訟は扱わない上訴の最上級法廷である。帝国裁判所は諸侯間や諸侯と帝国等族との係争を私的な武力行使(フェーデ)ではなく法的手続きによって解決することを目的としており、制度は1670年代頃に定着して帝国の平和維持や宗教対立の緩和に一定の役割を果たしている。・・・
 <なお、>皇帝と直接的な封建関係を結んで帝国封(Reichslehen)を授封された者<が>帝国等族(Reichsstande)と<呼ば>れた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E8%81%96%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E5%B8%9D%E5%9B%BD#.E5.9B.BD.E5.88.B6 前掲
 「・・・諸領主権(Lordships)は、家から家へと財産の諸片として移転された。
 フリースラント(Frisia)<(注8)>のイェヴァ(Jever)(330平方キロ)の領主権は、アンハルト=ツェルプスト(Anhalt-Zerbst)<(注9)>公国によって承継されていたが、やがて、アンハルト=ツェルプストの王女であったところの、<ロシアの>エカテリーナ大帝の財産になった。
 (注8)「オランダ・ドイツの北海沿岸の地方名。沖合にあるフリースラント諸島を含む。・・・
 フリースラントは時に「領主なきフリースラント」と言われ、封建制や領主制が定着せず、住民はいずれも自由身分の農民であり、当時の西<欧>では例外的な地域となっていた。・・・1524年に・・・皇帝カール5世によって併合され、長らく続いていた領主の不在は終わりを迎える。・・・
 古くはゲルマン人の一部族フリース人が住んでいた。現在のフリース人も固有のフリスク語を用いており、学校では第二国語として教えられている。フリスク語は隣接する地域で話されるオランダ語よりも英語に近い特徴を持つ」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%88
 (注9)アンハルト=ツェルプスト(Anhalt-Zerbst)公国の当主が男系子孫を残さずに1793年に亡くなると、その領地は分割され、そのうち、イェヴェだけを、女系子孫(娘)であった、ゾフィー・アウグスト・フレデリケ(Sophie Auguste Fredericke) (ロシア女帝エカテリーナ2世(Empress Catherine II of Russia)が承継し、1793~1796年保有することとなったところ、彼女の死後も、ナポレオンの軍隊が1807年に占領するまで、ロシア人による保有が続いた。
https://en.wikipedia.org/wiki/Jever
https://en.wikipedia.org/wiki/Principality_of_Anhalt-Zerbst
 1796年に彼女が亡くなると、北海に面したこの封土は、ロシアの一家の所領になった。
 ウィルソンが説明するように、法人諸集団(corporate groups)と法人諸コミュニティの構成員達によって共有されたところの、深く根差した、地域的にして特定された自由の保守的観念を、こうして、この帝国は養成した。
 これらは、地域的にして特定された諸自由であって、全住民達によって等しく共有される抽象的自由ではなかった。・・・」(C)
 「・・・この帝国は、欧州最初の郵便網<(注10)>、英国におけるよりも67年も前の1655年における最初の日刊新聞<(注10)>の活字版<の発行>、そして、1800年時点における、フランスの22校、イギリスの2校に対するに、45校の諸大学<の存在>、を誇った。・・・」(B)
 (注10)フランチェスコ・デ・タシス2世(イタリア語: Francesco II de Tassis)、フランツ・フォン・タクシス2世(ドイツ語: Franz von Taxis II、1514年 – 1543年12月22日ないし12月30日)は、・・・[現在のベルギーの]メヘレンに生まれ、ブリュッセルで没した<人物だが、>・・・単独で神聖ローマ帝国の郵便主任となり、皇帝が特に別途の命を下さない限り、その職務を代々子孫に相続させる権利を獲得し・・・ミラノに帝国郵便の本部を設けた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%81%E3%82%A7%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%82%BF%E3%82%B7%E3%82%B92%E4%B8%96
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%98%E3%83%AC%E3%83%B3 ([]内)
 「帝国郵便は新聞の流通を掌握し、検閲網となった[6]。このような体制はドイツ統一まで続き、万国郵便連合の基礎となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E8%81%96%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E5%B8%9D%E5%9B%BD#.E8.A9.95.E4.BE.A1 前掲
 (注10)「1605年、世界初の週刊新聞「Relation」が、ストラスブールでヨハン・カロルスによって創刊され、1650年、世界初の日刊紙ライプツィガー・ツァイトゥイング(週6日)が創刊された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E8%81%9E
(続く)