太田述正コラム#8302(2016.3.28)
<2016.3.26東京オフ会次第(続々)>(2016.7.29公開)
            –「講演」の補足(続)–
 第二次縄文モードから第二次弥生モードへの転換については、(徳川幕府内で生まれ、幕府内はもとより、全国に浸透したところの、)水戸学(注)の興隆に天皇側からの(直接的間接的)関与があったことも忘れてはならない、という趣旨のことも、私は、「講演」中に話したのですが、それがいかなる意味か、説明しておきたいと思います。
 (注)「水戸学は、江戸時代に・・・水戸藩・・・で形成された学問である。儒学思想を中心に、国学・史学・神道を結合させたもの。全国の藩校で水戸学・・・は教えられ<、>その「愛民」、「敬天愛人」・・・<更には、>尊皇攘夷思想・・・<、>などの思想は吉田松陰や西郷隆盛をはじめとした多くの幕末の志士等に多大な感化をもたらし、明治維新の原動力となった。 ・・・
 一般的に日本古来の伝統を追求する学問と考えられており、第2代水戸藩主の徳川光圀が始めた歴史書『大日本史』の編纂を中心としていた前期水戸学と、第9代水戸藩主の徳川斉昭が設置した藩校・弘道館を舞台とした後期水戸学とに分かれるとされる・・・考え方がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E6%88%B8%E5%AD%A6
 まず、前期水戸学についてです。
 前期水戸学を興したのは、御三家の一つの水戸藩の第2代藩主の徳川光圀(1628~1701年)ですが、彼は、青年期に、皇室を中心とする公家社会の教養水準の高さに瞠目させられています。↓
 「徳川光圀<は、>・・・19歳の時に・・・冷泉為景と知り合い、以後頻繁に交流する」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%85%89%E5%9C%80
 「冷泉為景・・・慶長十七~慶安五(1612-1652)・・・藤原惺窩の長男として生れ・・・・・・図書頭に任ぜられる。・・・勅旨により叔父冷泉為将の跡を継ぎ、歌道家下冷泉家を再興した。しばしば天皇に和歌を侍講し、正四位下左近衛中将に至る。」
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tamekage.html
 「藤原惺窩<は、>・・・それまで五山僧の間での教養の一部であった儒学を体系化して京学派として独立させた。朱子学を基調とするが、陽明学も受容するなど包摂力の大きさが特徴である。近世儒学の祖といわれ、門弟のなかでも特に林羅山<ら4名>・・・は惺門四天王と称された。和歌や日本の古典にも通じて<いた。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%83%BA%E7%AA%A9
 その光圀に前期水戸学を興させる直接のきっかけになったのは、後陽成天皇の皇子の娘であった尋子とのこの上もなく幸せにして余りにも短かった結婚生活であったのではないか、というのが私の推測なのです。
 美しい尋子の教養と学識の深さに驚嘆した光圀は、彼女の一身に継承・体現されていると彼が考えたところの、皇室の歴史を中心とする日本史に対して強い関心を抱き、史料を踏まえた浩瀚な日本史の編纂に(彼女の存命中に)着手し、尋子の死後は、亡き彼女への哀悼の念を込め、藩財政を傾けることさえ厭わずにその編纂に尽力した、と私は見るわけです。
 そして、私は、更に想像を逞しくし、時の霊元天皇が、冷泉家を通じてかねてからその噂を耳にしていたところの、傑出した能力のある、水戸徳川家の継嗣の光圀を、ウルトラ親皇室派に育て上げるべく、自分にとって[いとこにあたる]才色兼備の尋子に白羽の矢を立てて、嫁がせた、と見たいのです。
 何せ、この霊元天皇、「皇室再興と独自の政策展開を目指したために幕府と距離をとることが多く、この時代、「親幕派」と認められた公卿<を>徹底的に冷遇<し>た<ところの、>・・・歌道の達人で・・・桃山から江戸期にかけての歴朝で後陽成天皇と並ぶ能書・・・でもある」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%8A%E5%85%83%E5%A4%A9%E7%9A%87
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E9%99%BD%E6%88%90%E5%A4%A9%E7%9A%87 &https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E4%BF%A1%E5%B0%8B ([]内) 
という、端倪すべからざる人物だったのですからね。↓
 「・・・徳川光圀の正室・・・<の>近衛尋子<(ちかこ)は、>・・・関白左大臣・近衛信尋の娘<だった。>・・・
 和歌に優れ学識が高く、光圀との仲は睦まじかった。・・・容姿について<も>「天姿婉順」と評<され>ている。・・・
 <結婚生活わずか3年半で尋子に先立たれた翌年の>1659年・・・の元旦、光圀は「元旦に藤<(=藤原=近衛(太田))>夫人を祭る文」を書き、夫人の死を悼んだ。「……物換り、年改れども、我が愁は移ることなし。谷の鴬百たび囀れども、我は春無しと謂はん。庭の梅已に綻びたれども、我は真ならず謂はん。去年の今日は対酌して觴(さかずき)を挙げ、今年の今日は独り坐して香を上る。鳴呼哀しいかな。幽冥長(とこし)へに隔つ。天なるか命なるか。維(ただ)霊来り格(いた)れ。(原文漢文)」」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%B0%8B%E5%AD%90
 「尋子<の父親の>・・・近衞信尋<は、>・・・後陽成天皇の第四皇子。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E4%BF%A1%E5%B0%8B
 「1658年<に>・・・<尋子>が21歳で死去<して>以後<、光圀は>正室を娶らなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%85%89%E5%9C%80
 「1657年・・・2月、光圀は・・・『大日本史』<の>編纂<に着手する。>・・・
 光圀の学芸振興が「水戸学」を生み出して後世に大きな影響を与えたことは高く評価されるべきだが、その一方で藩財政の悪化を招き、ひいては領民への負担があり、そのため農民の逃散が絶えなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%85%89%E5%9C%80 前掲
 もとより、将軍家そのものも、公家や皇族を正室に迎え続けたのですが、正室との間で光圀と尋子の間のようなケミストリーが生まれたケースは、ついにありませんでした。
 (皇族の正室が亡くなってから、亡き正室に敬意を表してだと思いますが、将軍が再び正室を娶らなかったケースこそ、何回かありますが・・。)
 (このあたり、歴代の将軍の正室のウィキペディアにあたって自ら確認することをお勧めします。)
 さて、後期水戸学を興したのは、第9代水戸藩主の徳川斉昭(1800~1860年)で、文字通り「尊王攘夷」の父ですが、彼の正室の吉子も、尋子同様、天皇の孫であったところ、この2人の間でケミストリーが生まれたのみならず、その結婚生活は30年の長きにわたり、しかも、彼女は、一種のスーパーウーマンであったことから、私は、斉昭は彼女に強く感化され、その結果、彼は後期水戸学を興し、尊王攘夷を唱えることとなった、と推測しているのです。
 そんな彼女が、慶喜を産み育てたのですから、慶喜が将軍になった瞬間に、大政奉還は決まったようなものだったわけですし、彼女の甥の息子、つまり、慶喜と深い縁のある有栖川宮熾仁親王が自ら東征大総督を買って出た瞬間、慶喜の助命、江戸の無血開城は決まったようなものだったわけです。
 ここでも、吉子を斉昭に嫁がせたのは、皇族内で有名であったはずの、有栖川宮家の吉子のスーパーウーマンぶりに目を付け、かねてよりウルトラ親皇室化に成功していたところの、水戸徳川家の継嗣に彼女を嫁がせることによって、そのウルトラ親皇室性を盤石にすることを狙ったところの、時の仁孝天皇(1800~46年。天皇:1817~46年)[・・吉子の兄とその子、つまり、吉子の甥、はどちらも仁幸天皇の父である光格天皇の猶子になっていますし、その甥の息子である有栖川宮熾仁親王は、仁幸天皇死後だがその猶子になっています・・]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E5%AD%9D%E5%A4%A9%E7%9A%87
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E6%A0%96%E5%B7%9D%E5%AE%AE%E7%86%BE%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B & https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E6%A0%96%E5%B7%9D%E5%AE%AE%E7%86%BE%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B & https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E6%A0%96%E5%B7%9D%E5%AE%AE%E9%9F%B6%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B ([]内)
だった、と私は見ているところです。↓
 「天保8年(1837年)、第9代藩主の徳川斉昭は、藩校としての弘道館を設立。総裁の会沢正志斎を教授頭取とした。また、藤田東湖も、古事記・日本書紀などの建国神話を基に『道徳』を説き、そこから日本固有の秩序を明らかにしようとした。中でも、この弘道館の教育理念を示したのが「弘道館記」で、署名は徳川斉昭になっているが、実際の起草者は藤田東湖であり、彼は「弘道館記述義」において、解説の形で尊皇思想を位置づけた。これらは水戸学の思想を簡潔に表現した文章として著名で、そこには「尊皇攘夷」の語がはじめて用いられた。・・・
 なお、弘道館は江戸幕府の最後の将軍であった徳川慶喜の謹慎先となったが、慶喜が新政府軍との全面戦争を避け、江戸開城したのは、幼少の頃から学んだ水戸学による尊皇思想がその根底にあったためとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E6%88%B8%E5%AD%A6 前掲
 「安政6年(1859年)には、孝明天皇<が>戊午の密勅<を>水戸藩に下<している。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%96%89%E6%98%AD
 「<その内容は、>勅許なく日米修好通商条約・・・に調印したことへの呵責と、詳細な説明の要求。
御三家および諸藩は幕府に協力して公武合体の実を成し、幕府は攘夷推進の幕政改革を遂行せよとの命令。
上記2つの内容を諸藩に廻達せよという副書。
 以上の3つに要約することができる。将軍の臣下であるはずの水戸藩へ朝廷から直接勅書が渡されたということは、幕府がないがしろにされ威信を失墜させられたということであったため、幕府は勅条の内容を秘匿し、大老井伊直弼による安政の大獄を起こす引き金となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%8A%E5%8D%88%E3%81%AE%E5%AF%86%E5%8B%85
 「吉子女王<(1804~93年。1830年結婚)>・・・は、水戸藩第9代藩主・徳川斉昭の正室。第10代藩主・徳川慶篤、江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜の母。・・・
 有栖川宮織仁親王の第12王女(末娘)。母は側室の安藤清子。兄に有栖川宮韶仁親王・尊超入道親王など、姉に喬子女王(浄観院、江戸幕府第12代将軍・徳川家慶正室)・織子女王(広島藩主・浅野斉賢正室)・幸子女王(長州藩主・毛利斉房正室)などがいる。・・・
 <つまり、彼女は、>12代将軍・徳川家慶の正室の妹<でもある。>・・・
 斉昭<との>・・・夫婦の仲は睦まじかった。・・・
 慶喜は最後の将軍となって皮肉にも実家の有栖川宮熾仁親王に追討される身の上となる。
 <吉子の>性格は、宮家の出であるものの、豪気であった。天保5年(1834年)、斉昭が蝦夷地開拓を幕府に請願した折には、吉子も夫と共に蝦夷地に渡る決意を固め、懐妊中にも関わらず雪中で薙刀や乗馬の訓練に励んだ。また、江戸小石川藩邸の奥庭を散歩中に這い出てきた一匹の蛇を、人の手も借りず自ら打ち殺したと伝えられている。多芸で、有栖川流の書の他、刺繍や押絵などの手工芸、楽器では箏や篳篥をよくした。釣りも趣味であり、水戸に下向の後は城下の川でよく釣りをしていたという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%AD%90%E5%A5%B3%E7%8E%8Bhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E6%A0%96%E5%B7%9D%E5%AE%AE%E5%B9%9F%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B & https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E6%A0%96%E5%B7%9D%E5%AE%AE%E7%86%BE%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B ([]内)