太田述正コラム#8312(2016.4.2)
<ナチスの原点(II部)(その2)>(2016.8.3公開)
 (2)青年時代
 「・・・著作の多いこの著者は、彼の対象者の育ちを詮索し、大して教育を受けておらず、未熟練者で将来の展望のない、20歳のヒットラーが、ウィーンのホームレス収容所に身を寄せた1909年に、どん底状態に陥ったことを示す。・・・」(C)
 「・・・<話を遡らせるが、>ヒットラーは、オーストリアの旅籠屋(inn)で1889年の復活祭の月曜に生まれた。
 1907年、18歳の時は、彼は、依然、オーストリアに住んでいたが、二つ大きな打撃を経験した。
 第一に、ウィーン美術アカデミー(Fine Arts Academy)<(コラム#6030)>への入学が認められなかった。
 そして、母親が癌で47歳で死んだ。
 彼は、<母親の>クララ(Klara)・ヒットラー<(注1)>の写真を、残りの生涯、ベッドの上に掲げ続けた。
 (注1)1860~1907年。アロイス・ヒトラーの姪にして3番目の妻。乳癌で亡くなった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC
 ヒットラーの懇願に応えて、ブロッホによって彼女に施された最新の治療法・・激痛を伴う、今にして思えばインチキ治療法・・が、彼女の直接の死因となった、と考えられている。
⇒下掲の英語ウィキペディアが掲げるクララの写真、特に2枚目のそれを見ると、ボーイッシュな美人であり、
https://en.wikipedia.org/wiki/Klara_Hitler
その点だけとっても、ヒットラーがお母さん子になったは当然のような気がしてきます。(太田)
 1938年には、彼は、なんと、彼女の医者であったユダヤ人<(注2)>をゲシュタポ(Gestapo)<(注3)>が保護するよう命じている。・・・」(C)
 (注2)エドゥアルド・ブロッホ(Eduard Bloch。1872~1945年)。ヒットラーは、「オーストリア併合後、ゲシュタポの保護下に置き、1940年の<米国>亡命も許可している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%82%A5%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%9B
 彼は、母子家庭となって貧困にあえいでいたクララの診察費を減額したり受け取らなかったりした。
https://en.wikipedia.org/wiki/Eduard_Bloch
 (注3)ゲハイメ・シュターツポリツァイ(Geheime Staatspolizei=「秘密国家警察」。通称ゲシュタポ=Gestapo)。「ナチス・ドイツ期のプロイセン州警察、のちドイツ警察の中の秘密警察部門である。 1939年9月以降は親衛隊の一組織であり警察機構を司る国家保安本部に組み込まれた。・・・第二次世界大戦中にはドイツ国防軍が占領した<欧州>の広範な地域に活動範囲を広げ、<欧州>中の人々から畏怖された。その任務はドイツおよびドイツが併合・占領した<欧州>諸国における反ナチ派やレジスタンス、スパイなどの摘発、ユダヤ人狩りおよび移送などである。・・・人材の配分が武装親衛隊、国防軍、警察の順になっていたため、ゲシュタポに回ってくるのが社会的不適格者が多かった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%83%9D
 1907年の彼の母、クララの死は、彼が好きだった数少ない女性達のうちの一人を彼の生涯から奪った。
 一家のかかりつけの医者は、「40年間診療してきたが、若い男性がこれほど完全に痛みと嘆きに満たされているのを見たことがない」、と述べたものだ。・・・」(E)
⇒ヒットラーが、もともとは、フツーのまともな人間であったことは確かなようですね。(太田)
 「・・・<話を戻すが、>9ヵ月間にわたって、ヒットラーは、(著者は「セックス抜きの」と見ているが、)ホームレス生活をした後、更に3年間、男性向けホステルに、生活の糧として手書きの絵入りの郵便はがきを売って、住んだ。
 著者によれば、ウィーンは、ヒットラーに、豪壮な(grandiose)諸建築物・・彼はリングシュトラーセ(Ringstrasse)<(注4)>を崇拝していた・・と通俗芸術(kitsch art)・・クリムト(Klimt)<(コラム#3318、3761、4670、6030)>よりベックリン(Bocklin)<(注5)>・・に対する永続的熱情を吹き込んだ。
 (注4)「1857年に放棄された市壁と堀の趾である。・・・1858年より、かつてオスマン帝国による包囲戦に耐えた市壁の取り壊しがはじまった。・・・リングシュトラーセの沿線にはウィーン宮廷歌劇場(現在の国立歌劇場)をはじめとして、ウィーン市庁舎、帝国議会、証券取引所、ウィーン大学、美術館、自然史博物館などの博物館、ブルク劇場、ウィーン楽友協会などの公共建造物、そして裕福なブルジョワたちの数多くの豪華な建物があいついで建設され<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%BB
 (注5)アルノルト・ベックリン(Arnold Bocklin。1827~1901年)。「スイス出身の象徴主義の画家。19世紀末の<欧州>の美術界はフランス印象派の全盛期であったが、戸外にキャンバスを持ち出し、外光の下で身近な風景を描き出した印象派の画家たちとは対照的に、文学、神話、聖書などを題材に、想像の世界を画面に表そうとする象徴主義の画家たちも同時代に活動していた。ベックリンはこうした象徴主義・世紀末芸術の代表的画家の1人である。・・・第一次世界大戦後のドイツでは、非常に人気があり、・・・<ヒットラー>も彼の作品を好み、収集していた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%8E%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%B3 (←作品も載っている。)
 ワーグナー(Wagner)<(コラム#2183、4345、4471、4485、4499、4513、4757、4857、4926、5125、5227、5228、5891、6087、6143、6502、7303、7597、8017、8028)>とニーベルンゲン(Nibelungen)<(コラム#74、8017)>・・ヒットラーがこの陰気な(morbid)神話群に憑りつかれていたことを我々は知っている・・とを結合させた文化的食餌は、彼の救世主的諸衝動に働きかけた。
 ウィーンは、ヒットラーに、汎ゲルマン政治(pan German politics)<(注6)>、及び、この市の烈火のごとき市長のカール・ルエーガー(Karl Lueger)<(注7)(コラム#7464)>のご好意により、アドルフが自分自身のものとすることとなる「ハイル・フューラー(Heil Fuhrer!)」式敬礼、を紹介した。・・・」(D)
 (注6)汎ゲルマン主義(Pangermanismus=Pan-Germanism)。「ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世はこ<れ>・・・を掲げバルカン地方へ進出し、汎スラヴ主義と対立し、南下政策を続けるロシアとの軋轢を招いた。・・・この結果、・・・第一次世界大戦を引き起こすこととなった。・・・
 <この>主義は、19世紀中葉に行われた「ドイツ統一」の理念の拡大であった。・・・<この>主義に協調したのは、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世とスウェーデン国王オスカル2世であった。オスカル2世は、当時ノルウェーを同君連合とし、デンマークを含めた「プロイセン・スカンディナヴィア・バルト中立連合」なるものを構想していたが、デンマークや自国政府の反対により頓挫し、ゲルマン主義から離れてしまった。要するにオスカル2世は、北方ノルマン人もドイツ人と同じ民族であると考えていたが、すでに中立主義が根付きつつあった北欧諸国には受け入れられなかったのである。一方・・・フランツ・ヨーゼフ1世は、オスカル2世の様な連合構想こそもたなかったが、ドイツ帝国との連携を重視し、バルカン半島への関与を深める為にドイツの武力を利用した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%8E%E3%82%B2%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%B3%E4%B8%BB%E7%BE%A9
 (注7)1844~1910年。「ロスチャイルド家などウィーン経済を支配するユダヤ資本に対して市民の間に高まりつつあった反感を巧みに利用し、激しいユダヤ人攻撃を行<っていたが、>・・・市長となってからは反ユダヤ主義的発言は少なくなり、ルエーガーにとってそれは単なる選挙戦術だったという見方もある。現に当選後は「誰がユダヤ人かは私が決める」と言い放ち、ユダヤ人の貧困層に対しての救済措置も盛んに行った。しかし、その演説は若き<ヒットラー>に多大な感化を与えており、カール・ショースキーは彼を「ウィーンの自由主義にとどめを刺した人物」として厳しい評価を与えている。<ヒットラー>自身もルエーガーを、ゲオルク・フォン・シェーネラーと並んで「わが人生の師」と呼んでいる。<ヒットラー>は、のちにルエーガーの人種政策が中途半端だから帝国統一が果たせなかったのだとしている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%82%AC%E3%83%BC
 しかし、最も早くには、1915年に、ヒットラーは、第一次世界大戦に特別な意味を付与し始めた。
 2月にミュンヘンの知人に宛てた手紙の中で、彼は、不吉な一節を書いている。
 彼と彼の戦友達が故郷に戻った時、彼は、彼らが「そこから外国人達がいなくなっていることを見出す」、という期待を抱いている、と。
 実際、彼は、「我々何十万人の毎日の諸犠牲と苦しみがドイツの外国の諸敵のみならず、我々の内なる国際主義をも破壊する」ことだろうが、「それは、いかなる諸領土的拡大よりも大きな価値があるはずだ」、と記しているのだ。・・・」(C)
(続く)