太田述正コラム#8362(2016.4.27)
<一財務官僚の先の大戦観(その15)>(2016.8.28公開)
⇒英米の動きは詳しく紹介しながら、ソ連(赤露)については、ほんの少し、蒋介石政権に対する軍事援助だけに触れるにとどめていることからも、松元が、戦後日本の吉田ドクトリン史観から一歩も出ていないことを如実に示しています。
 「・・・1937年の秋に編成された・・何人かの筋は、最初の国際的航空隊としてこの部隊に言及している・・は、支那における、最初の、大部分が米国人からなる志願戦闘集団だった。
 「シェンノート<が率いた、蒋介石政権の>第14志願爆撃航空隊・・・の操縦士の<数は>・・・12名を超えたことは一度もなかった<ところ、この部隊>は、1938年には、漢口(Hankow)に、ソ連の大きな派遣部隊と一緒に駐屯していた。
 <この部隊は>ソ連の正規軍であ<って、>・・・120機を超える航空機からなり、支那での空戦で大きな役割を果たした」(コラム#6413)というのに・・。(太田)
 「蒋介石は、第二次上海事変以後、英米ソからの軍事支援を受けて戦闘力を恢復したが、日本軍との直接衝突を避けて中国大陸の奥深くで戦力を温存する戦略をとった(福田和也『魂の昭和史』)。・・・
 日本軍は・・・重慶に逃れた蒋介石政権を直接たたく作戦としては、昭和16年の重慶に対する無差別爆撃や昭和17年1月の長沙作戦<(注18)(コラム#6344)>が行われた。
 (注18)第二次長沙作戦。「1941年12月24日から1942年1月16日まで、湖南省の長沙周辺で行われた日本陸軍の作戦である。太平洋戦争の開戦により始まった香港攻略作戦(第23軍)を支援する目的で第11軍が実施した。広東方面へ南下した中国軍を牽制するのが当初の目的だったが、長沙攻略戦へと発展した。しかし、日本軍は長沙周辺で頑強な抵抗を受け、その後反転して引きあげたため中国側は戦勝を喧伝した。・・・
 この作戦における日本軍(第11軍<・・軍司令官は、後に陸相になる阿南惟幾中将・・>)の損害は戦死1,591人、戦傷4,412人であり、・・・中国軍に与えた損害は、遺棄死体約28,612、捕虜1,065人」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E9%95%B7%E6%B2%99%E4%BD%9C%E6%88%A6
 なお、第一次長沙作戦については、コラム#6344参照。
 しかしながら、重慶爆撃は米国を中心に国際的な非難を引き起こして後の日本への広範な無差別爆撃を正当化する一因になり、無理な長沙作戦は敗退に終わった。・・・
⇒日中双方の損害からして、「敗退」ではなく、「失敗」でしょう。(太田)
 日本軍は徐州作戦に続き、昭和13年10月、武漢、広東、漢口攻略戦<(注19)(コラム#6348)>を行って、中国の諸要衝を占領したが、兵站が伸びきった日本軍の攻勢続行力はそこまでであった。・・・
 (注19)武漢作戦=武漢三鎮攻略戦。「1938年(昭和13年)6月11日 – 10月27日」。日本側:戦死9500、負傷26,000、中国側:遺棄死体195,500、捕虜11,900。「日本国内ではこの動員・巨額の出費のため、政府は1938年5月5日に国家総動員法を施行・・・した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E6%BC%A2%E4%BD%9C%E6%88%A6
 <しかし、>軍部は、・・・宇垣一成<(注20)(コラム#2042、3560、3774、4274、4372、4377、4392、4624、4669、5002、5381、5569、7590、7645、8042)>・・・外相による和平工作を認めようとはせず強攻姿勢を改めることはなかった。・・・
 
 (注20)868~1956年。「上原勇作を中心とする九州閥には「蝙蝠のような男」と揶揄された。・・・『昭和天皇独白録』では「この様な人を総理大臣にしてはならないと思ふ」と酷評されていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%9E%A3%E4%B8%80%E6%88%90
⇒日支戦争が始まってからの和平工作は、全て成功する可能性など最初からなかった、と断定していいでしょう。
 というのも、対日戦を続けることが、赤露と英米による蒋介石政権に対する軍事援助の前提であり、それなくしては、蒋介石の権力維持や、将来の対中国共産党戦が不可能になるからです。
 「中国側からの現実的な和平条件引き出しにも成功している。」とされる宇垣和平にしても、蒋介石の欺騙工作と宇垣自身の自己宣伝とが醸し出したイリュージョンに過ぎなかった、というのが私の見方です。(太田)
 <その挙句、>日本軍は、広大な中国大陸やさらにはビルマにまで戦線を伸ばして援蒋ルートの遮断を試みる無理な消耗戦に追い込まれた。
 援蒋ルートをたたく作戦は、昭和14年<(1939年)>2月の海南島作戦<(注21)>、5月の南寧作戦<(注22)>、昭和15年1月の賓陽作戦<(注23)>と続けられたが、そのたびに援蒋ルートは変更されて効果をあげなかった。
 (注21)「海南島占領は陸軍が飯田支隊(台湾混成旅団を中心とした部隊・・・)と海軍は第5艦隊・・・の合同で行なわれ・・・た。・・・
 この占領に対して、当時海南島を勢力範囲としていたフランスは厳重に抗議し・・・
・・・有田八郎外務大臣は「領土的野心はない」と回答し・・・たが、3月30日になると・・・豊富な鉱物資源と農産物<に着目し、>・・・海南島と新南洋群島の領土宣言を一方的に発表し<た。>」
http://www.oshietegensan.com/war-history/war-history_e/4209/
 (注22)11月の誤り。「軍の関心は対ソ連軍備に向けられ、この時期ノモンハン事件の対応に追われておりこの提案を無視していた。しかしノモンハン事件の責任を負って統帥部首脳が交代すると、新作戦部長に就いた富永恭次少将は南寧作戦の実行に熱意を示し、ノモンハンへ投入予定だった第5師団を満州から転用して実行することにな」り、南寧攻略に成功した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%AF%A7%E4%BD%9C%E6%88%A6
 (注23)「1940年(昭和15年)1月28日から2月13日までの間、広西省の南寧・賓陽付近で行われた日本軍の作戦である。日本軍第21軍が、南寧方面に攻勢をかけた中国軍を撃退した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%93%E9%99%BD%E4%BD%9C%E6%88%A6
⇒賓陽作戦は、南寧防衛のために行われた戦いであり、前2つと並列に位置づけてはいけないでしょう。(太田)
 そのような消耗戦によって日本政府がジリ貧に追い込まれる中、南部仏印進駐が招いた石油禁輸措置で追い詰められて、日本は米英との無謀な戦争に突入していったのである。」(78~79)
⇒私がかねてから指摘しているように(コラム#省略)、日本が、陸軍が希望していた対英のみ開戦を、第二次世界大戦が1939年9月1日に始まった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6
後、英国がバトル・オブ・ブリテンをドイツに仕掛けられて一番苦しかったところの、1940年7月から1941年5月まで
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%88%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%96%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%86%E3%83%B3
の間に行っておれば、無謀どころか、間違いなく、援蒋ルートの完全遮断にも南方資源の確保にも成功していたことでしょう。
 もとより、日ソ中立条約が1941年4月13日に締結される
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E3%82%BD%E4%B8%AD%E7%AB%8B%E6%9D%A1%E7%B4%84
ので、最善の策はその直後の対英のみ開戦であったわけですが、いずれにせよ、米国は参戦するはずがないので、関東軍は、兵力を転用されるようなことがないまま健在であったことから、赤露(ソ連)が、英国と闘っている最中の日本の背後から満州経由で日本に全面戦争を仕掛けてくる可能性も、まずなかったはずです。(太田)
(続く)