太田述正コラム#8372(2016.5.2)
<一財務官僚の先の大戦観(その20)>(2016.9.2公開)
 「昭和15年<(1940年)>5月以降、日本軍も赤匪(共産ゲリラ)の根拠地への根絶作戦(殲滅掃討作戦)を行った。」(85)
⇒松元は、ここに典拠を付していません。
 特に、「5月」というのはどういうことか不明ですが、松元は、いわゆる燼滅作戦、ないし三光作戦のことを言っていると思われます。
 しかし、「日本軍の陸軍、特に北支那方面軍などが1940年8月以降、・・・華北を中心に、抗日ゲリラ対策として抗日根拠地へ・・・掃討作戦・・・<を>行ったとされ<てい>る。
 北京語<における>「殺し尽くし・焼き尽くし・奪い尽くす」・・・の接尾文字「光」をとって三光作戦(さんこうさくせん)または三光政策(さんこうせいさく)と呼ばれている。・・・
 ただし、日本軍には「儘滅作戦」や「三光作戦」、「三光政策」といった作戦名はなかった。・・・
 <中共>やそれに同調する学者やマスコミによるプロパガンダであるという見方がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%87%BC%E6%BB%85%E4%BD%9C%E6%88%A6
というのですから、少なくとも松元のこの記述ぶりは一方的に過ぎる、という誹りを免れません。
 実際は、「八路軍は・・・一般市民に紛れ、・・・ゲリラ戦を行った。しかし、八路軍に戦況を左右するだけの力はなかった。また、日本軍と同盟関係にあった南京政府側の民衆組織「新民会」等が同様の民衆工作に取り組み、八路軍に対抗していた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E8%B7%AF%E8%BB%8D
といったところであった、と思われます。(太田)
 「米国の中立法(昭和12年5月改定)は、金融上の取引制限も行えるとしており、国際的な決裁をニューヨークに依存していた日本にとって大きな問題であった。
 日本軍が中国各地で傀儡政権を樹立したのも、宣戦布告をしない以上、軍政を実施できなかったからであった。」(87)
⇒これは、私がこれまで意識していなかった事実でした。
 指摘されてみれば、コロンブスの卵ですけどね。(太田)
 「中国<(対支)(太田)>一撃論と同じことを日本軍に対して実践したのが、スターリンによるノモンハン事件だったと言えよう。
 スターリンは、大量の最新鋭戦車や銃砲部隊を派遣して関東軍を撃破した上でヨーロッパ戦線に備えたのであった。」(88)
⇒ここも典拠が付されていません。
 ノモンハン事件が赤露(ソ連=スターリン)による対日攻撃であった、という松元の認識は評価しますが、対支ならぬ対日一撃を目論み、しかも、それに成功した、という彼の指摘は、(当時の日本側の陸軍の首脳の多くの受け止め方はともかくとして、事件後の実効国境線に関する限り、)引き分けに終わり、損害に至っては、ソ連・モンゴル側の方が日本・満州国川よりも大きかった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6
こと、そして、スターリンはそのことを的確に掴んでいたと考えられる(上掲の「両軍の損失」の項の諸典拠参照)ことから、ナンセンスである、と言うべきでしょう。
 私は、前述したように、スターリンは、日本の対蒋介石政権戦に対する、背後からの一連の牽制の一環であり、これらの挑発的行為によって日本を対ソ開戦に追い込もうと企んだものである、との見解であるわけです。
 ノモンハン事件がとりわけ本格的な対日攻勢になった理由については、それが、1939年5月11日から9月16日までであったこと、そして、ソ連地上部隊の投入が5月25日であったこと・・それまではモンゴル地上部隊だけが投入されていた・・・(上掲)、が鍵になります。
 「<ドイツ外相の>リッベントロップは、独伊日ソによってイギリスに対抗する構想を固め始めていた。1938年1月にはヒトラーに対して<この>構想の覚書を提出している。・・・
 <他方、>1938年10月のミュンヘン会談による対独宥和は、英仏がドイツのソ連侵攻を黙認しているのではないかという疑念をスターリンに与えた。・・・
 <1939年>4月17日、ソ連駐独大使<が>・・・ドイツ外務省を訪ね、ドイツとソ連は「正常な関係」を結ぶべきであるというメッセージを伝えた。・・・<これを受け、>5月24日に・・・ヒトラーは、・・・リッベントロップと駐ソ大使・・・にソ連との交渉を行うよう命令し・・・<最終的に>モスクワ時間8月23日・・・深夜過ぎに・・・・独ソ不可侵条約・・・<の>調印が行われ<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%AC%E3%82%BD%E4%B8%8D%E5%8F%AF%E4%BE%B5%E6%9D%A1%E7%B4%84
 つまり、日独防共協定(1936年11月25日調印)の秘密附属議定書第一条「締約国の一方がソビエト連邦より挑発によらず攻撃・攻撃の脅威を受けた場合には、ソビエト連邦を援助しない。攻撃を受ける事態になった場合には両国間で協議する」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%B2%E5%85%B1%E5%8D%94%E5%AE%9A
の存在を知っていたか否かに関わらず、独ソ不可侵条約(ポーランドの独ソ両国による分割等を定めた秘密議定書付)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%AC%E3%82%BD%E4%B8%8D%E5%8F%AF%E4%BE%B5%E6%9D%A1%E7%B4%84 前掲
の交渉が開始される運びとなり、これは、事実上、日独防共協定を無効化するものであった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%B2%E5%85%B1%E5%8D%94%E5%AE%9A 前掲
ことから、後顧の憂いが断たれたとスターリンは判断し、その直後に、彼は、対日直接攻撃を下令し、日本を挑発して対ソ開戦を誘おうとした、と私は見ているわけです。(太田)
 
(続く)