太田述正コラム#8390(2016.5.11)
<一財務官僚の先の大戦観(その22)>(2016.9.11公開)
 「昭和11年<(1936年)>8月には、広田弘毅内閣の有田八郎外相が英米との協調を前提として中国との経済提携を謳った「帝国外交方針」を打ち出した。
 同8月に策定された「第二次北支処理要鋼」も英米との提携共助に留意するとしていた。
 満州開発に関しては、民間でも高橋亀吉、吉野作造、石橋湛山<(コラム#1416、1633、2359、2634、2930、3809、4195、4514)>、清沢洌といった人々が、満州を日本が独占して開発しようというのは無謀だと主張していた。
 高橋亀吉<(注29)>は、「日本従来の位置は、ブロック経済の結成に必要な領域をその傘下に持っていず、従って、ブロック経済化に寧ろ反対するを有利とする」と述べていた(『戦時経済統制の現段階と其前途』)。
 
 (注29)1891~1977年。船大工の長男として生まれる。早大(商科)卒、東洋新報入社後、編集長、取締役を経て1926年に退社、1928年に日本労農党顧問、その後、1932年に高橋経済研究所を創立、1937年に企画院入り、1941年大政翼賛会(政策局)、1942年国策研究会常任理事。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E4%BA%80%E5%90%89
⇒ブロック経済化に反対するも蟷螂之斧であった日本が自らブロック経済化のまねごとを行うことを批判する高橋にも困ったものです。(太田)
 吉野作造<(注30)(コラム#52、230、234、245、713、2509、2715、2900、3259、4012、4528、4998、5372、5678)>は昭和8年3月に55歳という若さで逝去しているが、逝去するまで満州の特殊権益は不要だと主張していた。・・・
 吉野は、そもそも満州事変は自衛ではなく帝国主義であり、新聞の一致した事変支持と無産政党の沈黙はおかしいと強く批判していた。
 (注30)1878~1933年。糸綿商の家に生まれ、中学時代に林子平に強い影響を受ける。二高時代にキリスト教に入信。東大法卒、袁世凱の長男の家庭教師等を務めた後、東大法助教授、3年間欧米留学、その後東大法で政治史講座を担当し、法学博士号を授与された後、大正デモクラシーの代表的論客となる。晩年は右派無産政党である社会民衆党の結成に関わる。朝鮮独立運動家や中国の民族主義者に対しても共感的だった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E9%87%8E%E4%BD%9C%E9%80%A0
⇒吉野作造が、日露戦争にも、対華21ヵ条要求にも賛成した(コラム#4012、230)、というのに、満州事変には反対した、というのは首尾一貫しないこと夥しいものがあります。
 恐らく、彼は、横井小楠コンセンサスの核心たるロシア観において甘い部分があったのでしょうね。
 なお、吉野の箇所については、松元は典拠を付していません。(太田)
 清沢洌<(注31)(コラム#5026)>は、日本の生命線は貿易である。その意味で日本の重要権益は中国のいたるところにある。満蒙にだけ特殊権益があると考えるのは錯覚である。愛国心を算盤珠にのるものにせよと論じていた。
 (注31)きよさわきよし(1890~1945年)。「比較的裕福な農家の三男として生まれ・・・1907年(明治40年)、17歳のとき研学移民(学生となるための立場での移民)として<米>ワシントン州に渡航した。シアトル、タコマで病院の清掃夫、デパートの雑役などを務めるかたわらタコマ・ハイスクール、ワシントン大学などで学んだ(ただしその履歴を示す文書は残されてい<ない。>・・・)・・・当時は<米>西海岸において日本人移民排斥運動が高潮に達していた・・・にも拘わらず、清沢は晩年に至るまで一貫して日米友好を訴え続けた・・・1918年(大正7年)帰国した清沢は、・・・1920年(大正9年)には中外商業新報(現在の日本経済新聞)に入社した。・・・1927年(昭和2年)には東京朝日新聞に移籍し、またこの頃から新聞以外での著作活動も精力的に始まった。清沢の基本的な立場は、対米関係においては協調路線、国内では反官僚主義・反権威主義、対中関係では「満州経営」への拘泥を戒めるものであって、石橋湛山のいわゆる「小日本主義」と多くの共通点をもっていた。・・・<右翼の攻撃を受け、>1929年(昭和4年)には清沢は東朝退社に追い込まれ、以後は生涯フリーランスの評論家として活動することになる<が、>・・・事態は・・・ことごとく自らが提言した潮流と相反する方向へ進んだ。・・・
 またその太平洋戦争下における日記が『暗黒日記』として戦後公刊されたことでも名高い。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B2%A2%E6%B4%8C
 清沢は、満州権益の中核は満鉄であるが、満鉄の財産総額は7億円、受け取る利益は5000万円、それは中国との貿易総額10億円の5パーセントにすぎず、それを守るために一個師団をはるかに超える兵を常駐させているのは算盤に合わないと批判した。・・・
 清沢は、<以前にも、>昭和3年(1928年)の山東出兵(田中義一内閣)についても、・・・<算盤に合わないと>批判し<てい>た。」(92~93、113)
⇒関東軍は、形式的には鉄道等の「経済的」利権・・なぜ「」をつけたかと言えば、鉄道は軍事兵站上極めて重要だからです・・を守るために満州に駐留していたわけですが、そもそも、どうして満州においてかかる利権を日本が得たのかと言えば、日露戦争勝利の結果であり、かつ引き続きの対露抑止のためだったのですから、関東軍の実質的な駐留目的は安全保障でした。
 そこのところが、清沢には、全く分かっていなかったようです。
 (なお、第一次山東出兵は、英仏の要請もあり、米国の同意も得て日本が実施した「政治的な」ものであり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9D%B1%E5%87%BA%E5%85%B5
こちらの方の清沢の主張もナンセンスです。)
 さて、松元は、石橋湛山については、その名前に言及しただけで、湛山の具体的主張を記述していませんが、湛山(1884~1973年)は、日蓮宗僧侶の父と大きな畳問屋の娘たる母の間に生まれの早大卒で、短期間、二度、陸軍に籍を置き、歩兵少尉で予備役になった、という、その人生初期の歩み
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E6%A9%8B%E6%B9%9B%E5%B1%B1
から見て、ついに武士になり損ねた縄文系の人物、という印象を受けます。
 高橋亀吉、吉野作造、清沢洌の3人に至っては、武士的なものとは縁もゆかりもない、純粋縄文系の人物群である、と言ってよいでしょう。
 また、吉野以外の(湛山を含む)3人は、官学を出ていない・・清沢は恐らく大学を卒業すらしていない・・ことも特徴的です。
 前者からは安全保障感覚の欠如が、後者からは反官僚(含む軍事官僚)的姿勢が、導かれた、というのが私の見方です。
 ちなみに、官側で安全保障感覚が欠如し戦前戦後の日本に大いなる弊をもたらした双璧たる幣原喜重郎と吉田茂ですが、幣原(1871~1951年)は豪農の家に生まれ、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%A3%E5%8E%9F%E5%96%9C%E9%87%8D%E9%83%8E
恐らくは縄文系の人物であったと思われるのに対し、吉田(1878~1967年)は実母こそ芸者であったようですが、実父の竹内綱も養父の吉田健三もれっきとした武士であった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E8%8C%82
ので、一応弥生系ということになります。
 縄文系であっても、努力いかんで弥生系的センスを身に付けることも不可能ではない・・高橋、吉野、清沢、及び、幣原は努力を怠り、湛山は努力が不十分であった・・一方、弥生系であっても、努力を怠れば、(吉田のように、)弥生系的センスが鈍磨してしまう、ということでしょうね。(太田) 
(続く)