太田述正コラム#8412(2016.5.22)
<一財務官僚の先の大戦観(その33)>(2016.9.22公開)
 「昭和14年<(1939年)>8月、陸軍の日独伊三国同盟案<(注52)>に関する五省会議<(注53)>が開かれたが、米内海相は英米に勝てる見込みがないとして石渡荘太郎<(注54)(コラム#8410)>蔵相とともに強硬な反対を貫いた。・・・
 (注52)「日独防共協定が締結された後、国民政府を援助する米英を牽制する目的で軍事同盟への発展を唱える動きがあった。特に駐独大使大島浩、駐伊大使白鳥敏夫は熱心で、同盟案に参戦条項を盛り込むべきと主張し、独伊政府にも参戦の用意があると内談していた。1938年7月に開催された五相会議において同盟強化の方針が定まり、1939年3月の会議で決定された。この時平沼騏一郎首相が同盟強化案を昭和天皇に奏上しているが、参戦条項は盛り込まないこと、大島・白鳥両大使が暴走すれば解任することなどを確認している。
 しかしドイツは参戦条項を盛り込むべきと要求。これに陸軍内部からも呼応する声が多く、陸軍大臣の板垣征四郎以下陸軍主流は同盟推進で動いた。一方英米協調派が主流を占めた海軍には反対が多く、 海軍大臣の米内光政以下、次官の山本五十六、軍務局長の井上成美は特に「条約反対三羽ガラス」と条約推進派(親独派)から呼ばれていた。 また軍令部総長として形の上では海軍の最高権威者だった伏見宮博恭王をはじめ、前海相の永野修身、元首相・海相の岡田啓介、さらに小沢治三郎、鈴木貫太郎など、陸軍でも石原莞爾・辰巳栄一などが条約締結に反対していた。その他内大臣の湯浅倉平、外相の有田八郎、蔵相の石渡荘太郎、元老の西園寺公望も反対派だった。そもそも昭和天皇が参戦条項には反対しており、5月9日に参謀総長の閑院宮載仁親王が参戦条項を認めてもよいという進言を行った際には明確に拒否している。しかし5月に第一次ノモンハン事件が勃発し、その最中の8月27日に独ソ不可侵条約が締結されると平沼内閣は総辞職し、三国同盟論も一時頓挫した。平沼の後の阿部内閣と米内内閣では三国同盟案が重要な課題となることはなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%8B%AC%E4%BC%8A%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%90%8C%E7%9B%9F
 (注53)「昭和時代前期の日本において、内閣総理大臣・陸軍大臣・海軍大臣・大蔵大臣・外務大臣の5閣僚によって開催された会議。主に陸軍・海軍の軍事行動について協議され、これを実現する財政・外交政策のために蔵相、外相も出席した。議案の必要に応じて企画院総裁なども出席したことがある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E7%9B%B8%E4%BC%9A%E8%AD%B0
 (注54)いしわたそうたろう(1891~1950年)。「旧幕臣・・・の長男・・・習院中等科、一高<、東大法。>・・・近衛文麿の学友・・・大蔵大臣・内閣書記官長・宮内大臣などを歴任」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E6%B8%A1%E8%8D%98%E5%A4%AA%E9%83%8E
 財政関係者は、第一次近衛内閣(昭和12年6月)の池田成彬蔵相、平沼内閣(昭和14年1月)の石渡荘太郎蔵相、阿部内閣(昭和14年8月)の青木<一男>蔵相と一貫して対英米協調路線を指向し、軍部の主張する日独伊三国同盟<(注54)>に反対した。・・・
 (注54)「1940年(昭和15年)9月27日に・・・締結された日独伊三国間条約<は、1937~38年に議論されたものとは異なり、>・・・<既に始まっていた>英独戦への参加義務<はもとよりだが、>、米独戦への自動参戦義務もない<ものになった。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%8B%AC%E4%BC%8A%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%90%8C%E7%9B%9F 前掲
⇒耳タコでしょうが、「英米に勝てる見込みがない」とか「対英米協調路線を指向」といった具合に、「英米」を一括りにした瞬間に、それは何の意味もない主張に堕してしまっている、ということです。
 「財政関係者」が、基本的に財政膨張が必至である施策・・この場合は三国同盟だったわけですが・・に慎重になるのは当たり前であり、当時、そのために受け売りで援用したのが「外交関係者」が唱える英米一体論であった、ということ以上でも以下でもありますまい。
 この英米一体論の誤りは、単純な話、その後の1939年9月にドイツ(とソ連)のポーランド侵攻によって始まった第二次世界大戦に、英国が対独参戦しても、米国は、その時点では参戦しなかった・・ローズベルト大統領は参戦したかったが米国世論がそれを許す状況ではなかった(注55)・・こと一つとっても明らかです。
 (注55)「<ロ>ーズベルトはモンロー主義に閉ざされていた<米>国民に対し、「欧州やアジアの戦争は<米国>に関係ないという人たちがいる。しかし、戦争を引き起こしている者に<米国>につながる大海原の支配権を渡すわけにはいかない」とラジオで諭し<つつも、>・・・自身<、>選挙では戦争に介入をしない、と宣言して当選しており、参争したくても出来ない状況にあった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88
 なお、日独伊三国同盟論議と一口に言っても、英独戦が始まる前と後、そして、自動参戦義務がある条約案か否か、では全く別物である、と考えた方がいいでしょう。(太田)
 
 この時、海軍省の米内<光政>大臣、山本五十六次官、井上成美軍務局長は反戦トリオといわれた。・・・
 <当>時、海軍省には右翼団体が押しかけ、陸軍の強硬分子が海軍省を襲撃するとの噂も流れたため、一時は、海軍省警護のために横須賀鎮守府から一個小隊が派遣される騒ぎがあった。・・・
 満鉄調査部も昭和14年末の報告(「支那抗戦力調査」)で、経済的観点から日米開戦の不利を指摘していた。
 昭和15年初頭には、陸軍も「戦争経済研究班」を立ち上げて日本の経済戦持久力の分析を行ったが、分析結果は米英との経済戦力の差は20対1、開戦2年間は備蓄戦力により抗戦可能であるが、持久戦は耐え難いというものであった。」(108~109、116)
⇒今度は、英米一体のはずの英国はどこに行ってしまったのか、また、日独伊三国同盟論議が起こっているというのに、独伊、とりわけドイツはどこに行ってしまったのか、という疑問が湧きます。
 より端的には、日米の潜在戦力、すなわち、経済力の比較など、誰がやっても、圧倒的に日本が不利などという結論はミエミエであったはずである、ということです。(太田)
(続く)