太田述正コラム#8503(2016.7.23)
<支那は侵略的?(その1)>(2016.11.6公開)
1 始めに
 學士會報の「未読分整理」を行い、五百旗頭真「今後の日本外交–アメリカ・中国とどう向き合うべきか–」(『學士會報』第917号 2016年3月)に最初に目を通したのですが、ツッコミどころが多過ぎて呆れたところ、一点、
 「中国を振り返って気づくのは、中国の諸王朝は全盛期になると必ずベトナムを侵略していることです。自立心が強いベトナムは、時に中国に支配されながらも激しく抵抗し、最後は中国軍を叩き出してきました。・・・
 最初にベトナムを支配したのは漢の武帝でした。彼は朝鮮半島、中央アジアと共にベトナム北部を制圧しました(紀元前111年)。中国には「強い王朝と強い皇帝は版図を拡大する」という認識が生まれました。武帝が始めたベトナム支配は、唐滅亡後の938年まで千年間続きました。この年、ベトナムの独立回復を決定づけたのは、有名な白藤(バクダン)<江>の戦いです。13世紀後半には元が三度にわたって侵攻しました。特に三度目の侵攻は水軍も含めて50万人という大規模なものでしたが、白藤<江>で同じ計略に引っかかって敗走しました。15世紀初頭には明の永楽帝が80万人の大軍をベトナムに送り、18年間支配しました。・・・
 しかし、ベトナムは・・・明を追い払い、独立を回復しました。・・・
 以上の歴史を振り返れば、「中国は国力が漲ると、再び周辺に支配を拡大しようとする」と、容易に想像できます。」(9~10頁)
という、ベトナムに係る部分に絞って、批判しておこうと思い立ちました。
2 批判
 (1)背景
 ざっと以下の史実に目を通してください。
 ベトナムは、「<支那>文明を受容したため、<支那>に類似する文化が数多くある。中国風の名を名乗り、文字や文章は漢字・漢文を使用していた漢字文化圏である。そもそも、ベトナムという名称自体が「越南」という漢字のベトナム語読み(漢越読み)である。かつては、ベトナム語を表すためにチュノムと呼ばれる漢字を応用した独自の文字を使用していた。現在では、フランス人宣教師により考案された補助記号を付けたラテン文字であるクォック・グー(国語)が使用され、漢字、チュノムとも冠婚葬祭を除いてはほとんど用いられなくなっている。
 <その主要民族である>キン族は中国の支配を跳ね除けて独力で王朝を樹立したとの誇りが高く、また我が民族が中心で、周辺民族を蛮族視する中華思想を導入していた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%B3%E6%97%8F 
 「<ちなみに、現在、>ベトナムでは公式に認められている民族が54あり、そのうちキン族(ベトナム族)がもっとも多く、全人口の85%から90%を占める。キン族の言語であるベトナム語は・・・オーストロ・アジア(モン・クメール)語族に属する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0
 ベトナムは、支那から独立した後も、フランスの植民地になるまで、基本的に、支那の冊封国であり続けた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%8A%E5%B0%81
 他方、朝鮮半島を見てみよう。
 紀元前4世紀には、その北部が、戦国時代の燕によって制圧され(衛氏朝鮮)、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%9B%E6%B0%8F%E6%9C%9D%E9%AE%AE
その地に漢が楽浪郡を設置し、その後帯方郡が分離し、両郡は、313年に(朝鮮系ではなくツングース系の)高句麗に滅ぼされる
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%BD%E6%B5%AA%E9%83%A1
まで、600年超にわたって支那の支配を受けたし、高句麗自体、32年に後漢の冊封国になっているところ、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%8F%A5%E9%BA%97
朝鮮半島を統一した朝鮮系の新羅を始めとする、歴代の朝鮮系の王朝も、基本的に支那の冊封国であり続けた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%BE%85#.E5.94.90.E3.83.BB.E6.B8.A4.E6.B5.B7.E3.81.A8.E3.81.AE.E9.96.A2.E4.BF.82 等
 もとより、朝鮮半島もまた、支那文明を受容した漢字文化圏だ。(典拠省略)
 さて、五百旗頭が、どうしてベトナムだけを例示したのかは知りませんが、私に言わせれば、朝鮮半島にしてもベトナムにしても、これだけ、それぞれの北部を長期間支配したというのに、しかも、圧倒的な人口や経済力の差がありながら、支那が、この二つの地域について、完全漢人文明化することはもとより、その支配を維持することさえできず、冊封関係という、「緩い」支配形態へと後退せざるを得なかったのは一体どうしてなのか、ということこそ問われるべきなのです。
 (2)支那のベトナム支配の挫折
 まず、指摘しなければならないのは、元は、そもそも、支那王朝とは言えないことです。
 ですから、五百旗頭が、元のベトナム侵攻を、「中国は国力が漲ると、再び周辺に支配を拡大しようとする」事例の一つとして挙げたのはおかしいのです。
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 [五百旗頭言及の元のベトナム侵攻について]
 白藤江の戦い(1288年):「1258年の第1次元越戦争および1283年の第2次元越戦争の二度の遠征に失敗したフビライ・ハーンは・・・1287年に三度目の出兵、第3次元越戦争を行った。今回の遠征では元はトゴン(脱驩)を総司令官として9万の兵力を投入した。加えて何百にもなる戦船と、張文虎将軍率いる数十万石の糧食を運ぶ船団も備えていた。・・・
 1287年12月末、・・・元軍が国境を越えて・・・攻め入った。・・・
 明けて1288年」、元軍は白藤江の戦いで水軍が全滅し、逃げ帰った。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E8%97%A4%E6%B1%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84_(1288%E5%B9%B4)
 興味深いのは、三度にわたるベトナム侵攻の間を縫うように、フビライが、二度にわたる日本侵攻・・文永の役(1274年)、弘安の役(1281年)・・を行っていて、弘安の役では、モンゴル人、朝鮮人、漢人(南北)からなる15万人前後の大軍(このほか水夫多数)を動員している
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%AF%87
ことだ。
 元が、一方的侵略を企て、諸民族連合の大軍を最終的には送り込むも、水軍がネックになって敗北した、という点において、日本侵攻とベトナム侵攻は、瓜二つと言ってよいほど似かよっている。
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(続く)