太田述正コラム#8511(2016.7.27)
<支那は侵略的?(その5)>(2016.11.10公開)
 以上、永楽帝のベトナム「侵略」等は、一見、五百旗頭の言う、「中国は国力が漲ると・・・周辺に支配を拡大しようとする」典型例のように見えるものの、必ずしもそうは言えない、ということを申し上げた次第です。
 では、そもそも、漢人(支那)による、ベトナムの1,000年間の支配の起点となったところの、前漢(BC206~AD8年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%A2
の武帝(BC156~BC87年。皇帝:BC141~BC87年)による、ベトナム「侵略」を含む諸「侵略」はどう評価すべきなのでしょうか。
 それこそ、「中国は国力が漲ると・・・周辺に支配を拡大しようとする」典型例ではなかったのか?
 いや、これも、そうとは言い切れません。
 まず、肝心のベトナム「侵略」ですが、これは、そもそも、「ベトナム」の「侵略」ではなかった、という点に注意が必要です。
 すなわち、「武帝<が>紀元前111年に・・・遠征軍を送り、南越を滅ぼして直轄領とした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E6%BC%A2
ことは事実ですが、「南越国・・・は、紀元前203年から紀元前111年にかけて5代93年にわたって<支那>南部からベトナム北部にかけての地方(嶺南地方)に自立した王国(帝国)であ<り、>・・・<その>首都は・・・現<在の>広州市・・・におかれ、最盛期には現在の広東省及び広西チワン族自治区の大部分と福建省、湖南省、貴州省、雲南省の一部、<そして、>ベトナム北部を領有していた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E8%B6%8A%E5%9B%BD
ところの、地理的には、支那南部を中心とする国であり、地理的なベトナム部分はこの国のほんの一部に過ぎなかったからです。
 いや、当時は、支那南部にはベトナム人が住んでいたのではないか、という疑問を持つ方もおられるかもしれません。
 そうではないことをご理解いただくためにも、この国の前史から滅亡までの、歴史をざっと振り返ってみましょう。↓
 「紀元前221年に始皇帝が天下統一を成し遂げると、・・・<秦に対して>謀反を起こした・・・南方の<諸>蛮族の統治<と>・・・北方の漢族を移住させる<目的で、>・・・南海郡(現在の広東省)・・・群守に発令された者をトップとする漢人官吏達が率いる[50万人もの大軍を南方に派遣し、ベトナムに至る地域を征服するとともに、10万人もの捕虜たる漢人移民を同地域に送り込んだ]のだが、>・・・紀元前206年、秦が項羽(項籍)に滅ぼされると、<派遣されていた主要官吏の一人であった>趙佗<(BC240年?~BC137年。王:BC203~BC137年)>は隣接する<地域>・・・を<更に>併呑した<後、>・・・紀元前203年に国号を「南越」として自ら武王と称した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%99%E4%BD%97
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A6%E6%9C%9D ([]内)
 そして、「紀元前202年、高祖劉邦が項<羽>を討ち取って天下を統一し前漢を興す<も>、項<羽>との長年の戦いで軍隊<が>疲労していたために、<彼は、>敢えて南越への遠征はしなかった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%99%E4%BD%97
ところ、「紀元前196年と紀元前179年に、南越国は2度漢に朝貢し、漢の「外臣」<(冊封国)>となるが、紀元前112年、<その>5代君主・・・と漢の間で戦闘が勃発し<たことを契機に、南越は>、武帝により紀元前111年に滅ぼされた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E8%B6%8A%E5%9B%BD 前掲
 すなわち、(ベトナムを含む)南越は、秦が征服して郡を設置した秦の直轄地域が起源であり、漢の武帝の時代には、恐らくは、漢人が支配する、しかも、その支那区域は漢人が主住民となっていたと想像されるところの、漢の冊封国だったのであり、武帝は、高祖の残した宿題を、南越の「狼藉」に藉口して解決しただけであって、それをして「侵略」である、とは言い難いのです。
 もとより、武帝による、北方の匈奴攻略、及び、その支作戦と言うべき西域攻略、その他の攻略、は、「侵略」でした・・その結果、漢人支配地域はそれまでの2倍に拡大し、この全地域を現在の中共も概ね踏襲する形で支配しています・・
https://en.wikipedia.org/wiki/Emperor_Wu_of_Han
し、秦の始皇帝の南方攻略、等もまた然りであったわけですが、その結果は、武帝は、「外交や遠征などの派手な事業については特筆すべき事柄<こそ>多いが、・・・盛んな造作もあいまって治世末には農民反乱が頻発した・・・ため、後世は秦の始皇帝と並び「(英邁な資質ではあるが)大事業で民衆を疲弊させた君主」の代表例として、しばしば引き合いに出されることとな<った>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%B8%9D_(%E6%BC%A2)
という有様でした。
 始皇帝は、そのために、久方ぶりに支那全域統一を自らの手で果たした秦を事実上一代で滅ぼしてしまったのに対し、武帝の方は、たまたま、子孫に宣帝(BC91~BC48年。皇帝:BC74~BC48年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A3%E5%B8%9D_(%E6%BC%A2)
等の相対的明君達が、前漢の疲弊をある程度恢復させてくれたおかげで、前漢は、AD8年まで、なお、95年間生き延びるができたのでしたが・・。
 (後漢は、前漢の皇帝の傍系5代目の県令を父とする6代目の、しかも長男でもない劉秀(BC5~AD57年。皇帝:AD25~57年)が光武帝として建国した
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E6%AD%A6%E5%B8%9D
ところの、前漢とは別の王朝、と見るべきでしょう。)
(続く)