太田述正コラム#8549(2016.8.15)
<一財務官僚の先の大戦観(その69)>(2016.11.29公開)
 「ユーロは、その導入後しばらくの間は、EUという巨大な経済圏の発展を支える素晴らしい基盤だとされていた。
 しかしながら、リーマン・ショック後のユーロは、ギリシャなどの参加国の財政規律が保たれていないことが明らかになったことなどから、その信認を失い、危機に直面することになった。
 その危機に対処するために、ECBはギリシャやアイルランドの中央銀行のユーロ発行に際しての担保基準を緩め、それらの国の中央銀行による、事実上、無制限のユーロ発行を認めることとした。
 と同時にそれらの諸国に対しては厳しい財政規律の維持という、戦前の金本位制の下での危機時と同様の対応が求められた。・・・
 <(>竹森俊平『ユーロ破綻、そしてドイツだけが残った』199~217頁<)>。
 ユーロの発行が各国の中央銀行で行われているのは、米国のドル札の発行が、地区連銀で行われているのと同じである。
 ただし、その発行の担保基準がギリシャやアイルランドなどについて撤廃された(2010年5月~2011年7月)ことは、かつて我が国が昭和16年にそれまでの通貨発行の担保制約をなくして、無制限の通貨発行が行えるようにしたのと同様だと言えよう。・・・
 そのようになったユーロについては、そもそも最適通貨圏の条件を満たしていなかったではないかといった指摘もなされるようになったのである(内閣府『世界経済の潮流2012年II』)。
 そこで、思い出されるのが、かつて日本の軍部が強行した無理な「円元パー政策』である。
 EUの政策が、当時の軍部と同じレベルだったというつもりはないが、様々な国の生の経済を相手にしている国際通貨政策は、どれほど金融の知識が増え、IT化などが進んだとしても、万全ということは無いということである。
⇒既に指摘したように、『円元パー政策』は「軍部」ではなく「政府」が、「強行」ではなく単に「実施」したものであって、というか、「軍部」にそんなものを単独で「実施」する権限などないのですから、当然そうであるわけです。
 そんなことより、松元のこのくだりの記述ぶりから、『円元パー政策』って、ユーロの魁のようなもので、高橋財政がケインズ的財政政策の魁であったこともこれあり、戦間期だけを取っても、日本人の財政金融感覚は素晴らしい、という印象を抱いた次第です。(太田)
 それにしても、何故、我が国では、英蘭銀行がようやくその形を現しだした江戸時代という早い時期に、金貨の流通が見られない金本位制が成立したのであろうか。
 藩札という実質的な管理通貨制が成立したのであろうか。
 大阪の商人間では決済の99パーセントが手形でなされるという世界が出現したのであろうか。
 思うに、その背景には我が国における、金銀よりも人々の間の信頼関係を重視するという国民性の成立があったと考えられる。
⇒私は、掛売と人間主義との関係に言及したことこそ2014年(コラム#6821)ですが、2006年(例えばコラム1157のQ&A)には既に人間主義論を展開しており、松元がこの本を上梓した2013年はもとより、松本がその元になった雑誌連載でこのくだりを書いたと思われる平成2008年よりも前なので、理論上は、彼が太田コラムを読んでヒントを得た可能性があります。
 とまれ、これに続く箇所を以下読んでいただけば分かりますが、松元は、どこまで行っても日本人の人間主義を国民性の一言で片づけており、そのよってきたる所以の追求を碌に行っていないのは怠慢の誹りを免れません。
 閑話休題、松本による、このあたりの、日本「文明」の優位を示唆するかのような、「文明論的」記述は、大変結構なことだ、心強い限りだ、と申し上げておきましょう。(太田)
 仏教学者の中村元<(コラム#923Q&A、7631)>は、「インド大陸は、古来王朝などの政治的権力の不安定な国土であった。(中略)そういうところで、民衆のたよれるものは、宝石と金銀だけである。
 これは、今日的な問題でもある。
 インド人は、国家や銀行にたよろうとしない傾向がある。
 だから民衆に至るまで宝石と金銀をせっせと買い込む。
 信頼関係にたよって生きて来た日本人には、この気持が解らない。・・・」(<中村元>『往生要集』)。・・・
 民衆の頼<(ママ(太田)>れるものが宝石と金銀だけというのは、実は、インドで成立した仏典に描かれている極楽浄土にも現れている。・・・
 それを日本では、平安時代中期に浄土真宗の第六祖ともされる源信<(コラム#4142、7625)>が「こんな貪欲な宝石願望を浄土と結びつけるのは『汚らわしい』とでも思ったのであろう。
 かれは、くどくどしい宝石願望を、極楽浄土から削除してしまったのである。・・・
 そして、そのような感覚・・・<そ>の背景には、権力者の興亡が庶民の生活を直撃するようなことはないという庶民の信頼があったものと思われる<のであって、>天下分け目の決戦と言われた関ヶ原の合戦には、町人が見物に出かけて<おり>(『慶長年中卜斎記』)<、>南北朝期に行われた合戦でも「洛中のことなれば、見物衆五条橋を桟敷とす」などの光景がみられた。幕末、彰義隊が新政府軍と戦った上野戦争にも人々は見物に出かけている。それは、権力者の兵隊が庶民に危害を加えることは無いという感覚を踏まえてのことであった・・・を背景として、江戸時代には金貨が流通しない金本位制が成立したというのが筆者の考えである。
 江戸時代、天下の台所と言われた大坂<(ママ(太田))>では、銀貨が流通しない銀本位制が行われていた。
 <また、>商人間の取引のほとんどは手形決済となった。
 そして、庶民の生活は、両替商の信用をベースとした銭遣いであった。
 そのような江戸時代の貨幣秩序の成立には、金銀よりも人と人の信頼関係を重視する国民性の成立が不可欠だったと考えられるのである。
 ただし、そのような国民性は日本以外にはあまり見られないものである。・・・
 <米国でも然りであり、>スタンフォード大学ビジネス・スクール<で>・・・筆者が感じたのは、米国人と日本人のビジネスに対する感じ方の違いであった。・・・
⇒中村元の唱える「政治的権力の・・・安定<した>国土」説も、その系であるところの、松元の「権力者・・・が庶民の生活を直撃するような<形でしか>・・・興亡<を争わない>」説も、日本人の人間主義のよってきたる所以を説明し得ていないことを、松元自身が事実上認めてしまっています。
 米国が、「政治的権力の不安定な国土」とは到底言えませんからね・・。(太田)
 日中戦争時に、軍が華北の通貨ブロックを簡単に創り上げられると思い込んだ背景には、我が国における感覚が大陸でも通用すると考えたことがあったのであろう。
 日本での感覚は、日本以外では通用しないとは思わなかったのである。
 軍部が経済合理性を無視した共通通貨圏を構築しようとして「持たざる国」への道をたどったことを見てきたが、通貨制度に関する経済合理性には、各国の間にそのような感覚の違いがあることを自覚することも含まれているのである。」(280~283、289~291)
⇒戦後半世紀超経過した時点にもなって、日本人の人間主義のよってきたる所以を碌に追求しようとせず、また、「円元パー政策」について、日本を「持たざる国」に転落させたという主張の裏付けとなる計数等も開示しない、という、松元のような非科学的な人間が大蔵省/財務省で本流を歩むことができた以上、日支戦争時の軍部ならぬ日本政府が、仮に「円元パー政策」なる(私は半信半疑だが)「経済合理性を無視した」政策を本当に実施したとするならば、それは、当該政策立案に関与したところの、当時の大蔵官僚達の非科学性の咎以外の何物でもなかったであろう、というのが私の印象です。(太田)
(続く)