太田述正コラム#8573(2016.8.27)
<チーム・スターリン(その3)>(2016.12.11公開)
 「スターリンが自分のチームの成員を選ぶ基準は間違いなく独特のものだった。
 汚斑した紋地・・諸ロシア皇帝への諸奉仕、裏切りないしは怯懦の諸行為・・<を行った過去>を持つ男達を、それが彼らを脅迫する材料になることから<チームに>採用した。
 一つの例が、スターリンによる見世物裁判の首席検察官を務めたアンドレイ・<ヤヌアリエヴィチ・>ヴィシンスキー(Andrei Vyshinsky)<(注15)>だ。
 (注15)1883~1954年。ウクライナの南西端のオデッサでポーランド人家庭に生まれ、キエフ大卒。メンシュヴィキに所属していたが、十月革命後の1920年にボルシェヴィキに転じる。検事総長、外務大臣、国連大使等を歴任。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC
 彼は、優等の(alpha)ではなく劣等の(omega)男達を選んだ。
 スターリンの競争相手達の誰にも雇われたり忠誠を尽くしたりしないであろう男達を・・。
 クリメント・ヴォロシーロフは、ソ連軍の最悪の元帥だった。
 (そのことを彼は知っていた。彼は、同様にうすのろのブディオニー(Budionny)<(注16)>元帥に、「心配するな。奴らは利口な連中だけを逮捕してるんだから」、と伝えたものだ。)
 (注16)Semyon Mikhailovich Budyonny。1883~1973年。ロシアのドン・コサック地区でロシア農民の家庭に生まれ、無学歴のまま帝政ロシア軍に徴兵され、日露戦争で騎兵として活躍、その後、騎兵士官学校を(一年修学して)一番で卒業し、第一次世界大戦、ロシア内戦、干渉戦争、で赫々たる武功を立てた。
 しかし、以後、彼は戦車の役割を軽んじ続け、既に元帥になっていたブディオニーは、戦車重視が過ぎるとしてトハチェフスキー元帥を大粛清で死刑に追い込み、独ソ戦開始時点での、ソ連軍の戦車の不足をもたらした。
https://en.wikipedia.org/wiki/Semyon_Budyonny
 1930年代にスターリンの下で首相(chief executive)を務め、外相にもなった・・・モロトフは、ヒットラーとの間で共通の言葉を見出さねばならない時だったことに照らせば、これは、外交史における最悪の<外相>任命だった。<(注17)>
 (注17)「1939年5月、ナチス・ドイツとの融和のため<ヒットラー>の歓心を買おうと企図したスターリンによってユダヤ人であった・・・リトヴィノフ外務人民委員(外相)が解任された。<首相であった>モロトフは外務人民委員を兼務し、以降10年にわたって<ソ連>における外交の長として活動することになる。一方、ユダヤ人であった妻のポリーナも交通人民委員を解任されている。8月には独ソ不可侵条約(モロトフ=リッベントロップ協定)を締結し世界中を驚愕させ<た。>・・・
 1940年11月にベルリンを訪問し、ヒトラー、・・・リッベントロップ外相らと会談し、融和方針を確認した。11月13日、<英>空軍による爆撃があったため防空壕に避難し会談を続けたが、リッベントロップが<英国>の敗北は必至と言ったところ、モロトフは「いま上空を飛んで爆弾を落としているのはどこの飛行機か」と応酬した。リッベントロップはやや面食らったがすぐに冷静さを取り戻し、日独伊三国同盟にソ連を加えて四国同盟にする計画を説明し始めたという。この提案にスターリンも含めて同意したが、ドイツの最終的な返答はバルバロッサ作戦であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%83%A3%E3%83%81%E3%82%A7%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%AD%E3%83%88%E3%83%95 前掲
 彼は、仕事を頑張り<、また、スターリンに>忠誠を尽くし、1930年代央には、<都合>44,000人に上ったところの、政治局によって諸処刑が裁可された人々のリストを、折々に精読しては、彼らの名前の所に、「売春婦、人間の屑、死刑」と書きつけたものだ。・・・
 ・・・カガノーヴィチは一見もう少しはマシに見える。
 彼は、政治局の中のユダヤ人の象徴(token)だったところ、革命家のカール・<ベルンガールドヴィチ・>ラデック(Karl Radek)<(注18)>が冗談で言ったように、あたかもエジプトから除去(remove)されたモーセ(Moses)のように、<大粛清において、>政治局からユダヤ人達が除去されたわけだが、効率的なモスクワの地下鉄は、彼の監督の下に建設されたものだ。<(注19)>
 (注18)1885~1939年。当時オーストリア=ハンガリー領であったレムベルク(Lemberg。現在のウクライナのルヴフ(Lviv))のユダヤ人の家庭に生まれ、無学歴。ポーランドで革命運動に従事した後、ドイツ、スイスに活動拠点を移し、第一次世界大戦後はソ連に移り、孫逸仙大学学長、ロシア共産党国際情報局局長等を務め、大粛清で強制労働収容所送りとなり、現地で殺害された。
https://en.wikipedia.org/wiki/Karl_Radek (日本語ウィキペディアは極めて出来が悪い。)
 (注19)「1930年、カガノーヴィチはソ連共産党政治局員、そして党モスクワ地区(1930年~35年)及びモスクワ市(1931年~34年)第一書記となった。・・・<当時、>カガノーヴィチは、モスクワにおけるソビエト初の地下鉄システムの建設を組織化し、大いに寄与した。この地下鉄には、1955年までは彼の名前が冠されていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%B6%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%82%AC%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81 前掲
 ・・・ミコヤンは、ぬるぬるした魅力を持っていたが、スターリン主義の犠牲者達に密かに救いの手を差し伸べていた。
 フィッツパトリックは、スターリンの最悪の「フィクサー」である、起き上がり小法師のレフ・<ザハーロヴィチ・>メフリス(Lev Mekhlis)<(注20)>に言及していない。
 (注20)1889~1953年。[ウクライナの南西端のオデッサでユダヤ人家庭に生まれる。無学歴で帝政ロシア軍入隊、その後、共産党員になる。そして、晩学ながら共産主義者アカデミー(Communist Academy)と赤色教授大学(Institute of Red Professors)で学ぶ。]その後、プラウダ紙編集長、副国防相(2回)、国家監督相([minister of government control])等を歴任。[この間、第二次世界大戦中のクリミア前線担当時の無能ぶりにより一旦2等級降格させられているが、その後、復活している。]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%A1%E3%83%95%E3%83%AA%E3%82%B9
https://en.wikipedia.org/wiki/Lev_Mekhlis ([]内)
 彼の<対独>戦争への諸介入は、50万人もの命を失わせた。
 これらの人々は、ヒットラー率いるギャング達・・彼らの大部分は、どんなに不忠誠や無能であっても、ヒットラーによって抑圧(repress)されることはなかった。・・よりもチーム・スピリットが不足していたけれど、ヒットラーの「チーム」について語った歴史学者は皆無だ。
⇒以上、本文中に登場した、スターリン以外の17人中、ユダヤ人が4人というのは、人口比的には、やはり、極めて多いと言わざるをえないですね。
 こういったことが、(マルクス主義の祖のマルクスや、戦闘的マルクス主義者のトロツキー、ローザ・ルクセンブルクらがユダヤ人であったこととあいまって、)戦間期の、ドイツにおける、反ユダヤ主義の火に油を注いだ、ということなのでしょうね。(太田)
(続く)