太田述正コラム#8581(2016.8.31)
<チーム・スターリン(その7)>(2016.12.15公開)
 (6)改めてのフィッツパトリック批判
 「ある時、その(モロトフの次官達(chief secretaries)の一人であるところの)父親が逮捕されるよりはと自殺した少女のために介入したことがある。
 彼女は、彼女の両親のマンションが立ち入り禁止になった後、冬服がないまま残されているとモロトフにご注進した。
 モロトフは、彼女の手紙を保安官吏達に回付し、彼女に「暖かい衣類が与えられるべきだ」、と付け加えた。
 これがスターリンの王国内での人生だった。
 そして、スターリンも自分の近親達を庇いはしなかった。
 彼の妻が1932年に自殺した<(注30)>後、彼は、彼女の家族成員達の大きな集団を徐々に標的化して行った。
 (注30)「1905年、スターリンは最初の妻であるエカテリーナ・スワニーゼと結婚し、長男のヤーコフをもうけるも、エカテリーナは25歳で病没した。・・・
 2人目の妻であるナジェージダ・アリルーエワとの間には、次男のワシーリー・スターリンと娘のスヴェトラーナが生まれた。ナジェージダは1932年に亡くなり、公式には「虫垂炎による病死」と発表された。彼女はスターリンとの口論の後に遺書を残して拳銃自殺を遂げた。・・・
 スターリンは3人目の妻として・・・カガノーヴィチの姉妹であるローザ・カガノーヴィチと結婚したと見られている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%82%B7%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3
 「大粛清の間のスターリン自身の家族や近しいサークルの被害率(casualty rate)は、他のチーム成員達のそれよりも高かった」とフィッツパトリック氏は記す。
 続いて、彼女は、スターリンは、「チームが自分達のためにそれができない以上は、自分自身の親友達(intimates)のために介入してはならないことが、チームに対する道徳的権威からして、求められている、と感じた」、と主張する。
 しかしながら、この主張の論理を受け入れるのは困難だ。
 とにかく、スターリンは、絶対権力を保有しており、彼の「道徳的権威」を彼のチームやその他の誰に対してであれ、確立する必要などなかったからだ。
 いずれにせよ、「介入する」人物は、彼自身以外には誰もいなかった。
 こういう次第で、フィッツパトリック氏のチーム動態への焦点絞りは、彼女の目からスターリンの凶暴さ(cruelty)を逸らせてしまったわけだ。
 彼の人生の最後の月々において、スターリンは、長きにわたるボルシェヴィキの指導者たるモロトフと・・・ミコヤンに目を向け、彼らをスパイだと非難し始めた。<(注31)>
 (注31)「第二次世界大戦終了後の1945年10月に、スターリンは最初の発作を起こし、休養を余儀なくされた。そのためこの時期はモロトフが代理で政務を扱った。外国の新聞では後継者を巡る報道が行われ、モロトフに対するスターリンの警戒心は高まった。12月始め、復帰したスターリンはモロトフ批判を政治局で行った。政治局に対外委員会が設立され、外務人民委員部の役割とモロトフの権限は縮小された。・・・
 ・・・スターリンは独裁を強め、ベリヤやジダーノフといった側近を重用した。モロトフやミコヤンといった古参幹部は遠ざけられ、粛清の危険が迫っていた。
 1949年1月、<モロトフの妻でユダヤ人の>ポリーナは逮捕され、党を除名された上でカザフに流刑された。当時スターリンはイスラエルの建国やソビエト・ユダヤ人共和国設立をめぐってユダヤ人への警戒心を強めており、モロトフの妻の粛清はイスラエル大使ゴルダ・メイアとヘブライ語で会話したことが直接の引き金になったという。モロトフは妻の処分決定時には棄権したが、のちにそのことについて自己批判せざるを得なかった。3月には外務人民委員を解任され、第一副首相となった。しかし第一副首相は閑職であり、幹部会のメンバーからも外された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%83%A3%E3%83%81%E3%82%A7%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%AD%E3%83%88%E3%83%95 前掲
 「「私にも見当がつかん。連中は私の身内も全員刑務所に放り込んだではないか」(1949年、妻ポリーナが逮捕された理由をモロトフがスターリンに尋ねた時に。連中とはベリヤのこと)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%82%B7%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3
 ミコヤンに対する「嫌疑」や「迫害」については、日本語、英語とも、ウィキペディアに具体的記述が見当たらない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%8A%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%82%B3%E3%83%A4%E3%83%B3 前掲
https://en.wikipedia.org/wiki/Anastas_Mikoyan
 ついに、「チームのスターリン以外は抵抗した」。
 スターリンは、不興を買ったこの二人が、招かれもしないのに彼の別荘に現れるのを止めることすらできなかった。
 スターリン以外のチーム成員達がこの二人に<粛清の危険が迫っていると>密告したからだ。」(H)
 
⇒改めて思うに、ヒットラーと毛沢東は、それぞれ、ドイツと支那の創業的権力者であり、ヒットラーは第一次世界大戦後のドイツ国民の過半の意向の実現を目指し、毛沢東は支那における人間主義社会の実現を目指したのに対し、スターリンは、ロシアにおける(レーニンを初代とする赤露の)二代目的権力者であって、(独自の理念を抱くことなく、)己の権力の維持のみに汲汲とした、という感を深くします。(太田)
(続く)