太田述正コラム#8593(2016.9.6)
<スターリンの死とそれがもたらしたもの(その4)>(2016.12.21公開)
 「フルシチェフが除去した人々が、ベリヤと彼の直下の従者達を除き、殺害どころか、投獄さえされなかったことは銘記しておいてよい。
 ベリヤに関しては、彼は明確だったし彼の同僚達も同意見だった。
 すなわち、やるかやられるかだったのだ。
 実に興味深いことに、フルシチェフがベリヤについて語ったり考えたりしたことは、ブハーリン(Bukharin)<(注9)(コラム#1779、2035、7149)>がスターリンについてメンシェヴィキの<一人>にコメントしたことと瓜二つだ。
 (注9)ニコライ・イヴァノヴィチ・ブハーリン(Nikolai Ivanovich Bukharin。1888~1938年)。モスクワでロシア人知識人家庭に生まれ、モスクワ大法で学ぶがボルシェヴィキ活動で放校、流刑になるが脱走し、ドイツ経由でウィーン大学で経済学と社会学を学ぶ。その後、スイス、北欧、米国に亡命、ロシア革命が起こると帰国。
 「ブハーリンは、スターリンとともに一国社会主義論の立場を取り、・・・トロツキーとの権力闘争自体ではトロツキーを厳しく批判したが、トロツキーの党からの除名には反対した。スターリンとは、工業化と農業の集団化をめぐり、対立するようになり、ブハーリンは、・・・政治局内で反スターリン派を形成するものの、逆にスターリン派から「右翼」として批判されたブハーリンは、・・・一度は失脚したものの・・・自己批判してスターリン支持を表明し・・・1934年には<復活。>・・・しかし、1936年大粛清が開始されると、・・・1937年には、ブハーリン<は>・・・党から除名される。同年2月にブハーリンは逮捕され、・・・1938年3月の・・・裁判で・・・日独などファシストの手先として、1938年3月15日銃殺された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3
 違いは、彼が、知っていたところの、スターリンが計画していた破壊、を真剣に防止しようとしなかった点だ。
 それに対し、フルシチェフは、先に動くことを好んだ。・・・
 次いで、諸強制労働収容所において諸暴動(uprisings)があり、それらは凶暴に鎮圧されたが、若干の諸変化がなされなければならない状況となった。
 いくつかの東欧の諸植民地では諸暴動(riots)があり、6月17日の東ベルリン暴動(uprising)<(注10)>で頂点に達した。
 (注10)「1953年6月16日に起こり翌日6月17日に収束した<暴動。>・・・
 事件の発端は、ノルマ未達成者の賃金カットという東ドイツ政府の新政策に反対しての、・・・建設労働者のストライキであった。・・・6月17日には、4万人以上が抗議行動に参加した。参加者代表と東ドイツ政府関係者との会合が行われ、参加者側は政府首脳の退陣を要求する。しかし、ドイツ駐留ソ連軍兵士約2万人ほどと、東ドイツの兵営人民警察(国家人民軍の前身)8千人が動員される。ウンター・デン・リンデンあたりで、労働者と兵士の衝突から、兵士の発砲となって暴動に発展し、労働者から死者を出し、抗議行動はその日のうちに鎮圧された。暴動自体は東ベルリンで収まるが、東ドイツの600の市町村で散発的な抗議行動が展開された。・・・西ドイツ内務省の・・・推計では、116人の東ドイツ体制側の死者も含め、合計383人が東ベルリン暴動により死亡したとする。106人が、即決裁判または正式裁判により、処刑されたと推計している。この推計では、1838人が負傷し、5100人ぐらいが逮捕されたとしている。
 鎮圧にソビエト連邦軍が出動したことは、1956年のハンガリー動乱、1968年のプラハの春などで民衆の要求をソ連軍が武力で押さえつける先例となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%AA%E3%83%B3%E6%9A%B4%E5%8B%95
 その後は、欧米に対する、より開かれた姿勢は再び終わったが、ソ連国内での慎重な諸変化は継続した。
 すなわち、僅かだが検閲の緩和、ほんの少し異なった経済観(economic outlook)、他の諸国に対する可能な範囲内での国の開放拡大だ。」(D)
 (4)それが国際的にもたらしたもの
 「1946年2月に、・・・スターリンの健康悪化の諸噂が欧米で流布していた時、米外交官のジョージ・ケナン(George Kennan)は、彼の有名な「長文電報(Long Telegram)」をモスクワから国務省に送っていた。
 ソ連の権力の本性についての彼の数多の諸見解(observations)の中で、ケナンは、ソ連国家は、「一つの個人ないし集団から権力を継承的に移転する至上の試練(test)に生き残りうるかどうかの証明」がまだなされておらず、「<実際、>レーニンの死はこのような最初の移転であったところ、その諸効果はソ連国家を15年間にわたって破壊(wrack)した」、と記した。
 彼は、スターリンの死ないし引退は、権力の2回目の移転であり、再度、痙攣がもたらされる可能性がある、と述べていた。
 しかし、結果的にはそうはならなかった。・・・
 ドワイト・アイゼンハワー(Dwight Eisenhower)は、彼と彼の外交政策顧問のジョン・フォスター・ダレス(John Foster Dulles)が、ダレスが1952年の共和党綱領のために書いたように、ソ連の東欧支配を「巻き返し(roll back)」をして「消極的(negative)で無駄で(futile)非道徳的な「封じ込め(containment)」政策」を終わらせる、との彼らの決意を強調してきたところの、大統領選挙運動の後、スターリンの死の7週間前に大統領に就任していた。
 大統領選挙運動の最中のライフ誌のための論文の中で、ダレスは、トルーマン政権の「単調な(treadmill)諸政策」<(注11)>を「大胆な(boldness)政策」によって置き換えることを力説(urge)していた。<(注12)>」(G)
 (注11)「朝鮮戦争時、<トルーマン政権>は、巻き返し政策――北朝鮮政府の破壊――を公式に支持し、38度線の北方に国連軍を派遣して北朝鮮の制圧を図った。しかし、巻き返し戦略は中国の介入を招き、中国人民志願軍は国連軍を38度線まで押し戻し・・・巻き返し政策<は>失敗し・・・、米国は巻き返し政策ではなく封じ込め政策を行うようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%BB%E3%81%8D%E8%BF%94%E3%81%97
 (注12)しかし、「アイゼンハワー政権は1953年10月に国家安全保障会議文書「NSC 162/2」を通じて封じ込めを採用した。これは、欧州における巻き返し運動を事実上放棄するものであった。」(上掲)
 もっとも、アイゼンハワー政権は、その末期にキューバのカストロ政権に対する巻き返し作戦を計画し、1961年に次の大統領に就任したケネディの政権下で実行に移されたが大失敗に終わっている。(1961年4月15日~19日のピッグス湾事件(Bay of Pigs Invasion))
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%BB%E3%81%8D%E8%BF%94%E3%81%97
(続く)