太田述正コラム#8641(2016.9.30)
<またまた啓蒙主義について(その2)>(2017.1.14公開)
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[ギリシャ文明の東方の思想に及ぼした大きな影響]
一、初めに
 私の限られた識見を踏まえれば、表記についての全体像を、典拠の裏付けある形で、ただちにお示しするのは不可能なので、ギリシャ文明の、古代ローマを介しての中近東・ペルシャへ及ぼした影響
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AD%E3%82%B93%E4%B8%96
については割愛することとし、また、それ以外の地に関しても、広義の仏教への影響に絞ることとし、ごく簡単に仮説的私見を述べておきたい。
二、インド亜大陸における帝国形成
 ギリシャ人たるアレクサンドロスは、中央アジアから北西インド亜大陸にまで攻め込んだわけだが、「インダス川流域は・・・アレクサンドロスが紀元前323年に死去すると彼の任命した総督(サトラップ)達の支配するところとなっていた<ところ、>・・・ガンジス川流域の支配を確立したチャンドラグプタはインダス川方面の制圧に乗り出した。・・・
 <アレクサンドロス死後のその帝国の跡目争いである>ディアドコイ戦争中の紀元前305年、アレクサンドロスの東方領土制圧を目指したセレウコス1世がインダス川流域にまで勢力を伸ばした。チャンドラグプタはその兵力を持ってセレウコス1世を圧倒して彼の侵入を排し(セレウコス・マウリヤ戦争・・・)、・・・インダス川流域からバクトリア南部にいたる地域に勢力を拡大した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A6%E3%83%AA%E3%83%A4%E6%9C%9D
という史実から見えてくるのは、(「プルタルコスは、チャンドラグプタが・・・青年時代に、インド北西部へ侵入したアレクサンドロス大王のもとに出向き、インド東部への道案内を申し出たという逸話を伝えている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%A9%E3%82%B0%E3%83%97%E3%82%BF_(%E3%83%9E%E3%82%A6%E3%83%AA%E3%83%A4%E6%9C%9D)
ところ、その真否はともかく、)チャンドラグプタが、「インド最初の本格的な統一王朝<たる>マウリヤ朝」の創始者となった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%A6%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%A4
契機は、アレクサンドロスによる、東征、大帝国の形成、の衝撃であった、という事実だ。
 私は、このマウリヤ朝は、ペルシャより東の旧世界における最初の帝国であった、という認識を持っている。
 帝国とは、多民族からなる大領域国家のことであり、(「夏」の実在性はまだ確立していないところ、)「殷」にしても「周(西周)」にしても、漢人のみからなる、都市国家に毛が生えた存在に過ぎず、支那における帝国の成立は、マウリヤ朝の成立よりも半世紀後の紀元前247年における、秦による、漢人プラスアルファからなる大領域国家の成立
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%8B%E7%9A%87%E5%B8%9D
を待たなければならない。
三、アショーカによる釈迦の思想の採択と普及
 帝国を形成、維持するためには、現に、或いは、企図された征服対象として将来的に、その統治下に抱える諸民族を超越したイデオロギーが必要となる。
 秦の場合は、以前(コラム#省略)に指摘したように、(ホンネでは、それは、諸子百家中の墨家の思想で、)タテマエ上では、それを、(帝国成立前から採択していたところの、)諸子百家中の法家の思想に求めたわけだが、それは極めて実務的な選択であったと言えよう。
 マウリヤ朝の場合は、簡略化して述べれば、(いわゆるヒンドゥー教の前身たる)バラモン教の信者が多いガンジス河地域を本拠としつつ、旧アレクサンドロスの帝国ないしセレウコス朝の、上澄み部分に、(その具体的な説明は省かせてもらうが、)古典ギリシャ哲学/ギリシャの神々/プラトン・アリストテレス流の哲人君主制、を信奉する者達、を抱える、インダス河地域も取り込んだ形・・そもそも、チャンドラグプタは、後継ぎの息子、ピンドゥサーラの后の一人として、セレウコス1世の娘を貰い受けている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%A9%E3%82%B0%E3%83%97%E3%82%BF_(%E3%83%9E%E3%82%A6%E3%83%AA%E3%83%A4%E6%9C%9D) 前掲・・で成立した帝国であることから、インド亜大陸で生まれてからそれほど年月を経ていない新興宗教ないし新興思想に、帝国イデオロギー候補として目を付けた、と見たいところだ。
 「チャンドラグプタはジャイナ教を熱心に信仰したが、<二代目の>ビンドゥサーラはアージーヴィカ教の信者であったと伝えられ<れるところ、三代目のあの有名な>アショーカ<は>仏教を熱心に信仰した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%A5%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%A9
のは、どれが国家イデオロギーとして一番適切であるか、試行錯誤を続けたということだ、と見たらどうか、というわけだ。
 ここで注意が必要なのは、一般にアショーカは「仏教」を「信仰」したとされており、私も、これまでは、そのように記述してきたけれど、彼が信奉していたのは、釈迦の唱えた「ダルマ」(注3)であって、当時、まだ、本格的には成立していなかったところの、「仏教」では必ずしもなかったことだ。
 (注3)法。日本語ウィキペディアの「釈迦のさとり<とは>「法」の自覚<であり、>・・・その伝道<は、この>「法」の伝達であった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95_(%E4%BB%8F%E6%95%99)
というダルマ(法)の説明は、簡にして要を得ていると思う。
 「法」を「人間主義」に置き換えれば、太田コラム読者には腑に落ちるはずだ。
 アショーカ自身、「彼はダルマが全ての宗教の教義と矛盾せず、1つの宗教の教義でもないことを勅令として表明して」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%AB%E7%8E%8B
いることから、このことは明らかだろう。
 しかし、その意図せざる結果として何が起こったかと言えば、釈迦の唱えた「ダルマ」の、マウリヤ帝国内、及び、セイロンへの普及であり、そのことを奇貨としたところの、釈迦を祖師とする仏教なる新宗教の勢力大伸長であり、「ダルマ」の普及・保護のための過度な財政支出や国家財産の供出、及び、平和志向、によるマウリヤ帝国の財政的・軍事的破綻であり崩壊だった。(前掲)
 (最後の話については、これまでにも何度か指摘したことがある。)
(続く)