太田述正コラム#0425(2004.7.29)
<悪夢から覚めつつあるドイツ(その4)>

1944年6月6日、5,000隻の艦艇、11,000機の航空機、150,000人の兵士による史上最大の作戦、ノルマンディー上陸作戦が連合軍によって敢行されました。
10,000人の死傷者、うち4,000人の死者を出しつつも、連合軍はフランスに橋頭堡を築くことに成功します。
とりわけ、オマハ海岸(Omaha Beach)での戦いは酸鼻を極めました。
この海岸の塹壕で米軍を迎え撃った30人のドイツ兵は機関銃と小銃を代わる代わる撃ち続け、約2,500人を死傷させたと推定されています。わずか30人で連合軍兵士の全死傷者の実に四分の一を「稼ぎ出した」勘定です。
この30人のうち最も「活躍」したドイツ軍兵士Sは81歳で存命であり、戦後はナチ協力者と見られることを恐れ、口をつぐんできました。第一、当時のドイツ人はそんな話には何の関心もありませんでした。ところがSは、戦後半世紀経った頃から急にドイツの戦史家やジャーナリスト達から取材を受けるようになりました。
これは、先の大戦を体験した人々が殆どいなくなり、またドイツが「大国」として世界各地に平和維持部隊を派遣するようになったこともあり、ドイツ人が先の大戦をようやく「同時代史」としてでなく、「過去の歴史」として客観視できるようになったからです。
今まで沈黙していたかつての兵士達の生き残りが語り始めた結果、先の大戦の実相が見えてきました。
例えば、Sが語る思い出です。
「ドイツ軍はD-Dayの前に宿泊していたフランスの農家と暖かい交流があった。D-Dayに戦死した私の上司のF少尉は尊敬すべき人物であり、流暢にフランス語を話し、かつて年配のフランス婦人の買い物袋を持ってやらなかった咎で部下を10日間営倉にたたき込んだことがある。上陸してきた米軍は農家の家畜を勝手に屠殺し、ドイツ軍捕虜を殺した。もっとも私が捕虜になった<D-Dayの>晩にはお互い飢えていた米兵達と私は一本のバゲットパンを分け合って食べたものだ。」
今年の6月20日に開催された上陸作戦60周年記念式典には、初めてドイツの首相が招待され、出席しました。
確実にドイツは先の大戦の悪夢から覚めつつあるのです。
(以上、http://www.washingtonpost.com/ac2/wp-dyn/A10191-2004Jul23?language=printer(7月25日アクセス)、及びhttp://search.eb.com/normandy/week5/memory.htmlhttp://www.dday.org/html/d-day_history.html(いずれも7月26日アクセス)による。)

 オ ヒットラー暗殺未遂事件
 
 そうなるといきおい、1944年7月20日のヒットラー暗殺未遂事件の首謀者として処刑されたシュタウフェンベルグ(Claus Schenk Graf von Stauffenberg)大佐達(注6)も一層脚光を浴びることになります。

 (注6)シュタウフェンベルグら3名は当日、裁判なしで銃殺され、その他の首謀者8名は裁判を受けた上で、屠殺された家畜をつるすカギにひっかけられたピアノ線にぶら下げられて長時間かけて絞殺され、その模様は映画に撮影された。このほか、処刑されたり自殺を強要された関係者は約5,000人にものぼる。

 戦後西独の人々からは彼らは忠誠を誓ったヒットラーに対する裏切り者と白眼視されてきましたし、東独は彼らを敗戦が確実になった時点でヒットラーを殺害して自分たちだけ助かろうとした右翼反動扱いをしてきたのです。
 しかし、次第に彼らはナチスに協力したドイツ人の罪を購ったレジスタンスの志士だったとする見方が頭をもたげて来ます。(いずれにせよ、この種レジスタンスを試みたドイツ人が余りにも少なかったという事実を忘れてはならないでしょう。)
 シュピーゲル誌が今年実施した世論調査によれば、何と彼らに敬意を抱く者は73%、否定的な見解を抱く者は10%に過ぎませんでした。
 この事件の黒幕は、カナリス(Wilhelm Canaris。1887??1945年)海軍大将でした。
カナリスは国防省情報部長(head of the Abwehr, the military intelligence service)を9年間も務めた人物であり、事件の時には既に自宅軟禁状態にあり、ドイツ敗戦の直前に処刑されます。
ニュルンベルグ裁判の時に、早くもカナリスの次のような「業績」が明らかにされています。

・ スペインのフランコ総統に、ドイツは必ず敗北するのでナチスとのつきあいはほどほどにと助言した。
・ 英国に、ヒットラーがオランダ・ベルギー及びフランスを攻撃すること、英国を攻撃すること等を伝えた。
・ ヒットラーに1943年の連合軍のイタリア上陸作戦の予想地点をわざと誤って伝えた。
・ 1938年、1939年、及び1944年(上述)のヒットラー暗殺(クーデター)計画の黒幕となった。

 これらの輝かしいカナリスの「業績」に、このたびもう一つ加わりました。
 1944年の事件がクローズアップされたことを契機に、かつてカナリスの秘書をしており、ご主人もこの事件に関与した女性が口を開いたのです。すなわち、

  ・ フランス占領後、カナリスもフランスで執務を開始するが、フランスでカナリスは、(この秘書の女性に命じて、ナチスやナチスのお友達であったフランスの警察の目を盗んで)迫害されたユダヤ人等にパスポートを次々に届けさせた。そのおかげでこれらの人々の大部分は国外に脱出することができ、命を救われた。

(以上、ワシントンポスト上掲、http://www.guardian.co.uk/germany/article/0,2763,1258691,00.html(7月11日アクセス)、及びhttp://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/3897885.stm(7月19日アクセス)、http://www.spartacus.schoolnet.co.uk/GERjuly.htm(7月25日アクセス)、http://news.bbc.co.uk/onthisday/hi/dates/stories/july/20/newsid_3505000/3505014.stm(7月28日アクセス)による。)

(続く)