太田述正コラム#8725(2016.11.11)
<レーニン見参(その7)>(2017.2.25公開)
 (5)到着後
 「彼のボルシェヴィキの同僚達がペトログラードのフィンランド駅で彼に対して行った、華やかで予期せぬ歓迎ぶりひるむことなく<(注12)>、レーニンは、装甲自動車のてっぺん上に飛び乗って火のような即席演説を行った。
 (注12)原文はunfazedだったが、unfadedのミスプリと判断した。
 その、平和を、パンを、金権家達にではなく大衆に権力を、富の抜本的再配分を、社会的諸関係の変革(transformation)を、という革命的メッセージは、希望を与えるとともに蠱惑的だった。
 より、飢えておらず、絶望的にもなっていない人々なら気が付いたかもしれないが、それらが達成できるのは、大量殺人、とてつもない経済的混乱、政治的諸自由の絶滅、及び、究極的には特権的な官僚的ご主人様カーストの創造、を含むところの、極端な暴力を通してのみであるというのに・・。」(C)
⇒当該社会において安全保障さえ確保できておれば・・これが結構むつかしいのですが・・、念的瞑想や教育によって人々をして己の人間主義性に目覚めさせることによって、それらを「極端な暴力」を用いることなく、達成できることを、我々は知っていますし、中共当局もまた、そのことを知った上で、まさに、「極端な暴力」を用いることなく、それらを達成しようと努めていることもまた、我々は知っています。
 もっとも、私見では、レーニンが率いたボルシュビキは、意識するとしないとにかかわらず、単に、それらを見せ金的スローガンとして掲げることによって、モンゴルの軛に由来するところの、ロシア領土及び緩衝地帯の維持拡大をより効果的に図ろうとしていただけなのですから、何をかいわんやですが・・。(太田)
 レーニンは、3日間の旅でドイツのバルト海岸に達し、そこから<フェリーで>海を渡ってスウェーデンに至り、それから、北極圏内のスウェーデンとフィンランドの国境に達し、フィンランドを横切って、ペトログラードに到着した。 
 彼にとっては軽薄なブルジョワ的出し物の匂いがしたところの、支持者達による儀典的な歓迎に苛立ったレーニンは、時間を無駄にすることなく、装甲自動車のてっぺんから火のような演説をぶった。
 「この海賊的な帝国主義戦争は、欧州全域の内戦の始まりなのだ…世界中の社会主義革命万歳!」と。・・・
 著者は、レーニンが仲違いしていたところの、マルクス主義者たる同僚である、ユーリー・マルトフ(Yuly Martov)<(注13)(前出)>による、1904年の、レーニンに関する、「ちっぽけで、時に無分別(senseless)で、個人的悪徳<の人>で、瞠目するほど自己愛的で[かつ]盲目で聾で無情な復讐の女神(fury)」、という批判を引用している。」
 (注13)1873~1923年。「イスタンブールに・・・ユダヤ人の両親の間に生まれる。祖父・・・は・・・オデッサでヘブライ語新聞・・・を発行していた。父は、ロシア国籍の船会社で事務長を務めた・・・自由主義的知識人であった。イスタンブールからオデッサに移り、1881年7歳の時、ポグロムに遭遇する。一家は襲撃からは免れたが、幼年時に体験した反ユダヤ主義は、マルトフをツァーリズムに対する反逆へと駆り立てる契機となった。中学時代は、ベリンスキーに傾倒し、文学や社会問題に熱中した。その後、一家はツァールスコエ・セローに移る。この時期にマルトフは、・・・ゲルツェンの『過去と思索』に触れ、帝政に批判的になってい<き>・・・、次第にナロードニキに共鳴するようになり、1889年には、中学校で・・・フランス革命史に熱中し・・・た。
 1890年・・・マルクスの『共産党宣言』に衝撃を受け、マルクス主義に転じる。1891年サンクトペテルブルク大学理学部に入学する。翌1892年学内に社会民主主義のサークルを創設する。しかし、大学当局から非合法文献の頒布を理由に退学処分を受け、逮捕される。1年半の投獄生活の後、<帝政ロシア領内の>リトアニアのヴィリニュスに追放された。リトアニアでは、ユダヤ人の労働運動に参加した。1895年サンクトペテルブルクに戻り、・・・レーニンと共に「労働者階級解放闘争同盟」に参加した。マルトフは1896年1月に逮捕され、1897年東シベリアのトゥルハンスクに流刑となるが、・・・1900年刑期を終了し、西<欧>に亡命した。
 1900年~1905年、国外でレーニンと共同で機関紙「イスクラ・・・」の発行・編集に携わる。・・・
 ロシア社会民主労働党第2回大会(1903年[。ブリュッセル大会])ではレーニンと組織問題をめぐって対立し、以降はメンシェヴィキ派の指導者とな[り、後にプレハーホフも、一旦、同派に加わ]った。1905年10月第一次ロシア革命が起こるとロシアに帰国しペテルブルク労働者ソビエトに参加するが、1906年2月、7月に逮捕され9月に再び亡命を余儀なくされる。1907年第5回ロシア社会民主労働党大会(ロンドン大会)と第二インターナショナル大会に参加<したが、>・・・ボリシェヴィキと<の>・・・対立が先鋭化し、・・・1912年ボリシェヴィキはプラハ党協議会で独自の政党である事を宣言するに至った。1917年の二月革命後帰国したが、ソビエト政権に反対し1920年に亡命。
 亡命後はベルリンに住み、・・・バーデンのシェーンベルクで、結核のため死去。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%95
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E6%B0%91%E4%B8%BB%E5%8A%B4%E5%83%8D%E5%85%9A ([]内)
⇒ボルシェヴィズム(マルクス・レーニン主義)とのメンシェヴィキ、そして、(時代的にはその後になりますが、)トロツキストとの対立は、私見では、要するに、マルクス主義をロシアの手段とするか、マルクス主義そのものを目的とするかの対立であって、換言すれば、矮小化されたマルクス主義と本来のマルクス主義との対立なのです。
 そして、興味深いことに、後者の担い手の主だった人物達は、(マルクスそのものはもちろんのこと、)ことごとくユダヤ人です。
 すなわち、メンシェヴィキのリーダーであったマルトフも、また、もちろん、有力構成組織であったブント(前出)・・「リトアニア・ポーランド・ロシア・ユダヤ人労働者総同盟・・・)は、帝政ロシア時代の1897年、ヴィリニュスで結成された、ロシア支配地域におけるユダヤ系住民の社会主義(社会民主主義)団体」・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%88%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%A6%E3%83%80%E3%83%A4%E4%BA%BA%E5%8A%B4%E5%83%8D%E8%80%85%E7%B7%8F%E5%90%8C%E7%9B%9F
も、かつまた、メンシュエヴィキのロシア外での連携相手であった、カウツキーもユダヤ人であったという有力説があります
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%82%A6%E3%83%84%E3%82%AD%E3%83%BC
し、ローザ・ルクセンブルクはユダヤ人です。(注14)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%B6%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%AF
 (注14)「メンシェヴィキは党大会で一時少数になっただけで、党外の<欧州>社会主義運動では広い支持を獲得していた<のであり、>特にドイツ社会民主党のカール・カウツキーは、レーニンの論文を自分の新聞に掲載することを禁じ、ローザ・ルクセンブルクはレーニンの「超中央集権主義」を非難した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%AD
ところ、ルクセンブルクは、「カウツキーの「民族融合論」に賛同してレーニンらの唱える社会主義の下での民族自決権を否定し・・・このことにより、・・・レーニンとのあいだに対立が生じることとな<った>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%B6%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%AF )
 そして、トロツキーもまた、ユダヤ人です。(注15)
 (注15)「トロツキーは、<ボルシェヴィズムの一国社会主義に反対し、欧州>のファシズムに対する赤軍による介入<を>提唱者<し、また>、1930年代にソ連とドイツが結んだ和平協定(Soviet–German relations before 1941)にも反対し<た>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%84%E3%82%AD%E3%83%BC
 ボルシェヴィキ的視点からは、メンシュエヴィキは平和革命志向の「穏健派」なので「右」、トロツキストは暴力革命に賛成する点ではボルシェヴィキ・・トロツキストもボルシェヴィキではあるので、正確には、真正ボルシェヴィキと言うべきですが・・と同じではあっても、世界同時革命を目指す(前掲)「過激派」なので「左」、ということになるけれど、私に言わせれば、そうではなく、ボルシェヴィキに対するにメンシェヴィキ/トロツキスト、という捉え方をすべきなのです。
 なお、ユダヤ人、というか、ユダヤ教、が、どうしてマルクス主義やキブツの思想
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%96%E3%83%84
を19世紀に生み出したかについて、私は、ユダヤ教が外形的規範や規律によって人々をして人間主義性に目覚めさせようという宗教であったこと
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%82%BB%E3%81%AE%E5%8D%81%E6%88%92
に注目しているところ、この話については、また、改めて論じたいと思っています。(太田)
 いつもレーニンにどやされていた、他の革命家達も、同じように感じた。
 ペトログラードで列車を降りるや否や、レーニンは、彼の桁外れのエネルギーと、2月に権力の座に就いた臨時政府とであれ、他の社会主義者達とであれ、徹底的な妥協の拒否、を活用したが、それは恐るべき効果を発揮した。
 臨時政府当局は弱体化され、成功裏にクーデタができる可能性への展望が生じた。
 ドイツの在ストックホルム大使館の喜んだ秘密工作員は、彼のドイツ政府におけるご主人達に対し、「レーニンのロシアへの入国は成功だった。彼は我々が望んだまさにその通りの働きをしている」、と打電したものだ。」(F)
(続く)