太田述正コラム#8737(2016.11.17)
<ナチス時代のドイツ人(その2)>(2017.3.3公開)
 スモレンスクでは、死体群が公然と通りに横たわっていた。
 <(スイス人看護師の)女性>は、買い物に出かけた折、ドイツ人の同僚と仕事がらみの話をしていたスイス人医師を小突き、歩く速さを遅くした。
 彼女の正面には、「血だらけのロシア人(Ruskie)が、死んだ眼で彼女を見つめていた。」
 その傍らにはさらに2つの死体があった。
 「あれは何?」と彼女は尋ねた。
 「叛徒達だ。報復だ」、とドイツ人医師はそっけなく答えた。
 <彼女>は、この種の「抑止」は実際には「誘因(incentive)」にな<って逆効果であ>る、と思った。
 「これらの全ての殺戮は何をもたらすのだろう?」と彼女は、自身、思案した。
 死体群は、他のドイツ占領下のロシア<諸地域と>同様、スモレンスクでは日常風景だった。
 男達、女達、そして子供達は、単に過酷な戒厳諸体制違反をしただけで射殺された。
 「毎晩、この界隈じゃ、少なくとも4人から5人の人々が射殺されている」、とドイツ人の看護婦長が、彼女のスイス人上役達(charges)に、彼らがここに到着した時に警告していた。
 10月から11月の間中、ドイツ人達は、大人数の諸隊列の捕虜達をスモレンスクを行進させて通過させた。
 この、長い、ゆっくりと動く、腹をすかせた汚れた兵士達の諸隊は、通過するのに1時間もかかった。
 諸通りに残されたのは、崩れ落ちたので射殺された死人達だった。
 <あるスイス人医師(?)は、>彼が見た捕虜達の半分はオルシャ(Orscha)<(注2)>にある鉄道の起点への行進で死ぬと推測した。
 (注2)Orshaのミスプリか。Orshaは、現在のベラルーシ北部のロシアとの国境沿いのヴィテブスク(Vitebsk)州(Oblast)・・東側は現在のロシアのスモレンスク州に隣接・・の国境から遠くない所に位置する都市。1320年から1772年の間、リトアニア大公国(Grand Duchy of Lithuania)の領土だった。
https://en.wikipedia.org/wiki/Vitebsk_Region
https://en.wikipedia.org/wiki/Orsha
 彼のこの推定はほぼ中っていた。
 というのも、捕虜になったソ連の兵士達の3分の1はその年を生きて越すことができなかったからだ。
 その数は全部で200万人にのぼった。
 後に駐在したところの、ロスラヴリ(Roslawl)<(注3)>で、彼は、野戦諸病院で助手として働かせるため、捕虜達の中から彼が選んだ、「欧州人的容貌のタイプ達」20人を救うことができた。
 (注3)「<現在の>ロシアのスモレンスク州南部、<現在の>ベラルーシとの国境近くにある都市。ドニエプル川の支流オスチョル川の東岸に建っており、州都スモレンスクからは南へ123キロメートル。・・・道路や鉄道が交差する市場町である。・・・1408年<から1667年の間、>リトアニア大公国の領土<だった。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%B4%E3%83%AA
 女性看護師として、<前出の彼女>は、療養中のドイツ人兵士達と長い諸会話に耽った。
 その彼女の日記は、戦時の会話の最も長い諸筆写を含んでいる。
 この患者達が彼ら自身を彼女に説明する流儀において、核心的であったのは、暴力と信仰の双方だった。
 ある晩、・・・一人の大尉が広間にやってきて、「婦長さん(sister)、親衛隊(SS)ってなんだか知ってるかい」、と。
 彼は、彼女に、「我らの総統の選良達」は既にドイツに実に多くのことをやってくれた、と説明した。
 それから歴史の授業が始まった。
 ヒットラーの前は、「全てのドイツ人の生活は危機に瀕していた」、と、この大尉は、1919年4月に共産主義革命家達がミュンヘンで人質達を射殺した(本当の)諸物語を受け売りで語った。
 彼は、犠牲者達の諸名前(ヴェスタルプ(Westarp)伯爵夫人とツルン(Thurn)/タクシス(Taxis)公爵)や場所(ミュンヘンのルイトポルト(Luitpolt)高校)まで知っていた。<(注4)>
 (注4)1919年4月6日から5月3日まで存続した、バヴァリア・ソヴィエト共和国(Bavarian Soviet Republic)が、[プロイセンとバヴァリア連合軍(白衛軍)及び自由軍団の包囲下、右翼スパイ達等であるとして、]4月30日に行った、公爵、伯爵夫人、を含む[10]名の処刑事件。
https://en.wikipedia.org/wiki/Bavarian_Soviet_Republic
https://en.wikipedia.org/wiki/Prince_Gustav_of_Thurn_and_Taxis ([]内)
 自由軍団(Freikorps=Free Corps)とは、18世紀から20世紀初まで存続した傭兵団。
https://en.wikipedia.org/wiki/Freikorps
 この大尉は、ドイツ人の生と死になると細かいことまで注意を払った。
 そして、彼は、彼の総統と新しいドイツのために死ぬ覚悟ができていた。
 「死は生の父だ」、と彼は宣言した。
(続く)