太田述正コラム#8791(2016.12.14)
<米リベラル知識人の内省三(その2)>(2017.3.30公開)
 今日においては、共感とは、しばしば、何かをそこから得るに丁度十分な程度に人々の痛みを理解することを意味するように見える。
 1世紀後<の今、>SNSの興隆は我々の諸相互作用(interactions)が。再び、諸対象物との関係を通じて取り次がれるようになったことを意味する。
 理論家のマーシャル・マクルーハン(Marshall McLuhan)<(注5)>は、この文化のコンピューター化は共感的結び付き(connection)の興隆へと導く、と見なしたことがある。
 (注5)1911~80年。「カナダ出身の英文学者、文明批評家。メディアに関する理論で知られる。」マニトバ大卒、同修士。長い期間を経てオックスフォード大博士。
 我らの時代における、全体性(wholeness)、共感、及び、自覚(awareness)の深さ、への熱望(aspiration)は、電気技術の生来的付属物である」、と彼は1964年に出版された『メディアを理解する(Understanding Media)」の中で記した。
 すなわち、コンピューターは、「普遍的理解と統一(unity)の精霊降臨的条件」を約束した、と。
 しかし、それは、何か他のものも提供する結果となってしまった。
 人間達との、費用のかさむ、ややこしい(messy)諸相互作用の都合の良い代替物を・・。
 フェイスブックのようなSNSが実際に提供するものは、全体としての(in the aggregate)共感であって、それは、安全で中立的な離れた場所から家族達や友達の諸ネットワークの全体のムードを捉えた、という幻想なのだ。
 次いで、彼らは後ろを振り返り、広告主達に、一時に10億を超えるユーザー達の既読を提供する。
 アップル、タンブラー(Tumblr)<(注6)>、そしてスクエア(Square)<(注7)>、で働いて来た技術畑のOBであるブズ・アンダーセン(Buzz Andersen)は、シリコンバレーでは、「共感なるものは、基本的には、「マーケット・リサーチ」についての、より利他的に響く言い回しである」、と私に聞かせてくれた。
 (注6)「<米国の>メディアミックスブログサービス。ブログとミニブログ、そしてソーシャルブックマークを統合したマイクロブログサービス・・・2013年、Yahoo!に買収される。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/Tumblr
 (注7)「サンフランシスコに本社を構えるマーチャントサービスアグリゲータおよびモバイル決済企業である。Square RegisterとSquare Walletといったアプリケーションやサービスを売りだして<いる。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/Square,_Inc.
 そもそも、経済界(marketplace)においては、<人は、>利他主義ないし道徳的責任感から他の人々を理解しようとするわけではなく、それを自利から行うものだ。
 大統領選挙後の数日間、多くの評論家達が、人々はトランプの支持者達と共感する営みを実践しなければならない、という観念に苛ついた。
 トランプを選出した人々であるところの、彼の支持者達こそ、トランプの諸政策によって粉砕されることとなる諸人生を送る人々に対してほんのちょっとでいいから共感を試みるべきではないのか。
 この問題に対する市場の回答は、「ノー」だ。
 右翼の米国人達のための、より共感的になる運動が存在しないのは、彼らが勝利を収めたからだ。
 この国は、彼らが売っていたものを既に買っているのだ。
 <他方、>民主党支持諸州の住民達に対する、<トランプ支持者達への>共感を育成せよとの訴えは、他者達の諸世界観の中に<自分達にとって>ためになる(instructive)諸真実を見出すためのものではない。
 それは、<トランプ支持者たる>彼らに対し、異なった先に投票するよう説得するために十分なだけ、彼らの諸動機を理解するためなのだ。
 共感は生来的に非合理的だ、とエール大の心理学教授であるポール・ブルーム(Paul Bloom)<(注8)>・・『共感に抗して–合理的同情心の勧め(Against Empathy: The Case for Rational Compassion)』という題名の新しい本の著者・・は注意を喚起する。
 それは、広範な人間悲劇の規模のもの、よりは、一つの哀しい物語、に直面した場合に活性化(activate)しがちだ<からだ>。
 (注8)1963年~。カナダのユダヤ系家庭に生まれた米国人。加マクギル大卒、MIT博士(認知心理学)。アリゾナ大を経てエール大。
https://en.wikipedia.org/wiki/Paul_Bloom_(psychologist)
 それはまた、操作され易い(manipulative)。
 すなわち、群衆の共感を一人の犠牲者に指向させることは、他の諸標的・・それら諸標的が当該の犠牲者の苦しみについて責任がなかった場合でさえ・・に対する怒りと攻撃を養成することがありうる。
 <また、>ザッカーバーグの事例のように、共感は、責任を回避するための戦略にもなりうる。・・・
 ヴィクトリア期には、若干の批判者達は、道徳的な諸小説が人々の同情を外の世界に向けてではなく、諸本の中へと誘う(channel)かもしれない、と心配したものだ。
 フェイスブックは、共感的結び付きを我々へと行き先を変更させる諸試みであるという意味で、それを更に一歩進めている。
 我々が相互に手を伸ばす(reach out)時、我々は、しばしば、我々自身を単に触っている(feeling)、というわけだ。」
⇒現在の米国は、つい最近までの支那や現在の中東アラブ世界並みの、エゴとエゴがぶつかりあうだけの、索漠とした社会に成り下がってしまったな、という感を深くします。
 もともと、イギリス等から、キリスト教狂信者達やドロップアウト達が北米大陸に逃亡してきて、そんな彼らが独立して作ったのが米国であったわけですが、それでも、当初はそんな米国にも残っていたはずの、イギリス由来の人間主義的な要素が、ついに払底してしまったのでしょうね。
 支那やアラブ世界は、一族郎党に個人が属することでその限りにおいてエゴが緩和された、或いはされている(コラム#省略)、のだけれど、米国の場合は、この緩和装置すらないだけに、事態はより深刻ではないでしょうか。
 米国において、経済成長が停滞し、一握りの上流階級すら、所得の伸びが期待できなくなった暁・・そうなる可能性は決して少なくないでしょう・・には、米国が、かつての支那、現在のアラブ世界以上に、武力的内紛の絶えない社会になってしまう予感が私にはします。(太田)
(続く)