太田述正コラム#8861(2017.1.18)
<米支関係史(その8)>(2017.5.4公開)
 「・・・最初にパリで1989年に出版されたペイルフィット(Peyrefitte)<(注8)>の、私の考えでは、啓発的な『停滞的帝国(The Immobile Empire)』<(注9)>・・・がポムフレットの参照文献の中に登場しないことはいかがなものか。
 (注8)Alain Peyrefitte(1925~99年)。フランスの政治家、学者。外交官を経て、情報相、司法相等を歴任。
https://en.wikipedia.org/wiki/Alain_Peyrefitte
 (注9)原著L’empire Immobile(1989年)の英訳(1992)。新史料群を用いて、1793年の英使節ジョージ・マッカートニー(Sir George Macartney)の乾隆帝(Qianlong Emperor of China)訪問を扱っている。米史学界による評価は、著者の筆致は支那を見下している、といった厳しいものが多かった。
https://en.wikipedia.org/wiki/The_Immobile_Empire
 というのも、ペイルフィットは、ポムフレットによる、この。極めて良い、かつ、重要な本を、より貴重なものとするところの、支那についての視座(perspective)を提供しているからだ。
 著述家であるペイルフィットは、当時、(18世紀末に焦点を当てているし英国だけの関連だが、)ポムフレットと殆ど同じ東西関係を調査しており、北京の清帝国の古文書群への前例のないほどのアクセス権を与えられた。
 そこにおいて、彼は、乾隆帝が発出した私的文書群の山を見付け、これらの諸ファイルの中から、まさに天子自身によって書かれたところの、朱色のインクでの諸注釈を発見したのだ。
 瞠目すべき率直さで、この皇帝は、<英国王の>ジョージ3世が、当時、少なくとも英国の観点からは世界の二つの最も偉大な国々の間の友好を増進させるという諸希望を持って、この貴族達を支那に遣わしたことに対して彼がどう思ったかを示している。
 この皇帝が、すこぶるつきに彼らについて殆ど関心を払わなかったことがはっきりした。
 彼の注記群は、訪問者達への暴虐的なまでの見下し、及び、支那文明の優位性の絶対的にして微動だにせぬ確実さを顕示していた。
 米国の政策形成者達が、今、把握しなければならないことは、この新刊本には十分に指し示されていないのだが、これが今日においても殆ど変わっていない、という点なのだ。
 全ての余りにも多い支那人達の間で、今日の人民共和国の統治者達のご承認とご愛顧を希求するところの、成り上がりものの欧米人達に対する根深い軽蔑が残っている。
 米国政府が、支那と米国の関係が、今や、「世界の運命にとって死活的である」ことを完全に受容するに至ったのは、遅きに失したきらいがある。
 バラク・オバマの大統領時代の間に、やっと、太平洋に向けて傾斜(tilt)する、ないしは旋回(pivot)する、ないしは調整(rebalance)する・・この字義的不確定性はこの政策の躊躇性を映し出している・・ことを始めるのが必要でありそうだ、ということになった。
 しかし、今なお、この政策は正しく根を下ろしてはいない。
 中東における泥沼が余儀なくもたらしている諸目晦ましが、力、資金、そして心を、全球的諸言辞で言えば、本筋の諸事柄から逸らせてしまっているからだ。・・・
 ポムフレットは、適当な域を超えてまでして、過去250年間の<支那との>交際の物語を米国の見地から語っている。
 我々が今知らなければならないのは、この「もつれた抱擁」が支那によってどのように見られているのかだ。
 今日の支那の高位のお偉方達は、依然として古の乾隆帝の朱色に筆で描かれた怒った不機嫌さと侮蔑をとどめているのだろうか。
 私は、どちらかと言えば、彼らがそうしているのではないか、と疑っている。・・・」(B)
⇒惜しい、と言うべきか、全然違うよ、と言うべきか微妙なところです。
 というのも、表見的にはその通りですが、理由が間違っているからです。
 中共当局者達は、米国を始めとする欧米諸国の識者達のみならず、支那自身も「怒った不機嫌さと侮蔑」の対象としているところ、その理由は、日本文明の普遍性・優位性に、前者は、毛沢東が気付くまで気が付かなかったからであり、欧米諸国の識者達に至ってはいまだに気が付いていないからなのですからね。
 とはいえ、米国でオバマ御一人は気付いている可能性があります。
 彼は、アジアへの旋回と言っているのであって、支那への旋回とは言っていないことの捉え方によってはそう言えるのでないでしょうか。
(完)