太田述正コラム#8897(2017.2.5)
<米帝国主義の生誕(続)(その4)>(2017.5.22公開)
 「著者は、史上、ある国がかくも突然海外帝国へと急に変わったことはない、と記す。・・・
⇒「海外」を「国外」と言い換えれば、マケドニアの例やモンゴルの例等、いくらでもあるというのに・・。
 米国が史上初だったのは、19世紀末から20世紀初にかけて、国外への軍事的進出が、領域的拡大を基本的に伴わない形に急に変わった点です。(太田)
 著者は、とりわけニューイングランドにおける、米国人の複雑な感情を描写するにあたって、見事な仕事を成し遂げている。
 すなわち、ニューイングランドにおいては、ハーヴァード大のチャールズ・エリオット・ノートン(Charles Eliot Norton)<(注4)>教授のような思想家達が、この国は「文明のあり方(way)から野蛮(barbarism)のあり方へと強制的に踵を返させられた」、という告発を行った。
 (注4)1827~1908年。米国の著述家・社会批評家・美学教授。ハーヴァード大卒。同時代人達から、米国最大の教養人(civilized man)と目された。
 彼が帝国主義批判を行った話は、下掲には出て来ない。
https://en.wikipedia.org/wiki/Charles_Eliot_Norton
 トウェインは、<原>住民達の若干の暴力的反対を掻き立てたところの、諸乗っ取り(takeovers )の擁護者として出発したけれど、すぐにその考えを改めた。
 ブッカー・T・ワシントン(Booker T. Washington)<(注5)(コラム#3974)>は、帝国主義を弁護する際に用いられる自由の修辞は、「この共和国の核心部で大きくなりつつある癌」と彼が呼んだところのものを無視している、と警告した。
 (注5)Booker Taliaferro Washington(1856~1915年)。「[不詳の白人が父。]母親と共に奴隷制から解放された・・・19世紀後半から20世紀前半にかけて<米>国におけるアフリカ系<米国>人の間で人気のあるスポークスマンとして活動した。・・・彼の自叙伝、1901年に出版された『奴隷から立ち上がりて<(Up from Slavery: An Autobiography )>』はベストセラーとなり、彼は大統領のゲストとしてホワイトハウスに招待された最初のアフリカ系<米国>人となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%BBT%E3%83%BB%E3%83%AF%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%B3
 上掲にも下掲にも、彼の反帝国主義言動についての言及はない。
https://en.wikipedia.org/wiki/Booker_T._Washington ([]内)
 労働指導者のサミュエル・ゴンパースは、米国が、「征服者達の国になりつつある」ことを心配した。・・・
 <一方の帝国主義推進陣営の方だが、>マッキンレー(McKinley)<(注6)(コラム#1995、3639、3649、3826、3976、4020、4024、4026、4028、4030、4235、4240、4430、4432、4436、4471、4488、4817、5347、7032、7301、8529、8893)>は、ボストンで、一世代にわたって米外交政策の諸原則を確立するところとなった演説を行い、米国は、「神の摂理の下、人類の進歩と文明の名において」<対外的に>行動している、と主張してのけたものだ。・・・」(D)
 (注6)彼は、大統領時代に「<米国>を国際的な帝国主義政策へ突き進めた。彼は保護貿易主義を取り、外国製品に対して実に57%という史上最高の関税率をかける「ディングレー関税法」を制定させた。 対外的に米西戦争へ国を導き、1898年にはハワイ諸島を併合した(ハワイ併合)。この際に日本の大隈重信総理から「これほど激烈で宣戦布告か最後通牒に等しいような外交文書は見たことがない」という抗議を受けるも、穏便に対処している。米西戦争ではフィリピンの独立勢力を支援するが、戦争に勝利するや一転して現地勢力を弾圧し、フィリピンおよびカリブ海のスペインの旧植民地を<米国>の保護下に置いた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC
 米国を世界大国にしたことに、マサチューセッツ州選出の上院議員のヘンリー・カボット・ロッジ(Henry Cabot Lodge)ほど貢献した者はいない。
 1892年に上院議員に当選してから、彼は、「大きな政策(the large policy)」と呼んだものを推進しようとした。
 彼の手先がセオドア・ローズベルトであり、彼は、ウィリアム・マッキンレーにローズベルトを海軍次官に任命するよう促した。
 著者によれば、ローズベルトとロッジは、親しい友人同士、かつ、パートナー、として、「数えきれないほどの諸時間を、<米国の>天命(call of destiny)と二人が考えたところのもにに向けて米国人達を覚醒させる諸方法についての議論に」費やした。
 実際、ローズベルトの信条(credo)は、「防衛として意味がある唯一のものは攻勢だ」、という代物だった。
 ニューヨーク・ジャーナル紙の社主のウィリアム・ランドルフ・ハースト(William Randolph Hearst)がこの二人の十字軍に加わるや否や、紛争の舞台は設えられた。
 著者によれば、「この、ロッジ、ローズベルト、ハースト、という強情な3人は、世界を再形成するために手を結んだ」のだが、彼らは、概ねそれを成し遂げたのだ。・・・」(E)
⇒人間主義の世界への普及という、私の言うところの、日本の世界史的使命については、積極的協力者がいまだにゼロであり、世界への普及に乗り出す以前に、そもそも、過半の日本人に、これが日本の天命であることを自覚させることができる時が果たしてやってくることでしょうか。(太田)
(続く)