太田述正コラム#8905(2017.2.9)
<米帝国主義の生誕(続)(その8)>(2017.5.26公開)
 (6)ローズベルト
 「・・・1889年の「精力的な生活(A Strenuous Life)」と題する演説の中で、ローズベルトは、反帝国主義者達に対して雷を落とした。
 すなわち、「彼らの諸教義は、もしも実行に移されたならば、アリゾナのアパッチ族が彼ら自身の救済方法を編み出すのに任せ、そして、どのインディアン保留地にも干渉してはならないという義務を我々に課すことになるだろう。彼らの諸教義は、君達や私のご先祖様達がこの米国に入植し続けてきたことを非難するものだ」、と。・・・」(B)
⇒この理屈での反帝国主義者達に対する反撃は、トウェインに対してだけしか正鵠を射ていないことは、ここまで読んでこられた読者にはお分かりになることと思います。
 『トム・ソーヤーの冒険(The Adventures of Tom Sawyer)』(1876年)、『王子と乞食(The Prince and the Pauper)』(1881年)、『ハックルベリー・フィンの冒険(Adventures of Huckleberry Finn)』(1885年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%88%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%A4%E3%83%B3
は、全て、トウェインが、帝国主義者(というより、米ナショナリストにしてキリスト教徒)から反帝国主義者(かつアブラハム系宗教懐疑論者)へと転向する前に書いた、彼の三大傑作ですが、いずれも私が小学生時代に読み耽って、(『王子と乞食』だけはセッティングがイギリスですが、)私に米国に対する強い好感を植え付けたため、この誤った印象を拭い去るのにさんざん手こずらされることとなったところ、いささか厳しすぎるかもしれませんが、トウェインは、帝国主義者達よりも更に唾棄すべき者が多かった反帝国主義者達の一員として活動するなどということをしないで、自身の回心を宣言し、米国の全歴史を非難した上で、さっさと米国籍を離脱してカナダあたりに居を移すべきでした。
 (彼は、『王子と乞食』をカナダの出版社から刊行しています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E5%AD%90%E3%81%A8%E4%B9%9E%E9%A3%9F )
 そうしておれば、「ウィリアム・フォークナー<が>トウェインが「最初の真の<米国>人作家であり、我々の全ては彼の相続人である」と記し・・・アーネスト・ヘミングウェイ<が>・・・「あらゆる現代<米>文学は、マーク・トウェインの『ハックルベリー・フィン』と呼ばれる一冊に由来する」と述べた」(上掲)ことに代表される、誤った御大層な評価が世界中にまき散らされることをトウェインは阻止することができたはずです。
 というのも、私見では、初期トウェインの文学は、彼の祖先であったイギリス人・・より正確には、スコッチアイリッシュ、イギリス人、及び(イギリス中のケルト系の)コーンウォール人
https://en.wikipedia.org/wiki/Mark_Twain 前掲
・・達が抱き、トウェインが受け継いでいたところの、人間主義「的」文学なのであり、断じて、偽善と暴力主義と人種主義の国である米国の文学の濫觴なんぞではなかったのですから・・。(太田)
 「何が起こったかと言えば、<1901年の>マッキンリーの暗殺であり、それは、帝国主義の最大の擁護者である<当時副大統領だった>ローズベルト自身を大統領職へと押し上げたのだった。・・・」(D)
 (7)米西戦争
 「・・・軍事的、人種的、そして、金銭的な諸動機の居心地の悪い混淆に煽り立てられ、<帝国主義者達は、>キューバ、プエルトリコ、及び、フィリピンを併合することによって、衰弱したスペイン帝国に取って代わろうとした。・・・
 1897年の大統領就任演説の中で、マッキンリーは、「我々は征服の諸戦争を欲しない。我々は領域的侵略の誘惑を回避しなければならない」、と宣言した。
 <しかし、>彼はそう長くはそれを回避しなかった。
 この勝利に終わったキューバでの交戦・・というのも、それは、キューバでの若干の散発的な諸小競り合いを越えるものでは決してなかったからだ・・に、ローズベルトは、戦闘で第1合衆国義勇騎兵隊 (1st United States Volunteer Cavalry、1st U.S.V. Cavalry=Rough Riders) <(コラム#3976)>を率い、<米国内で>愛国的な誇りの爆発を引き起こした。
 ロッジはそれを利用しようとした。
 彼は、・・・クリーヴランド<大統領>が1893年に阻止したところの、ハワイの併合を承認するよう、上院に求めたのだ。・・・
 「1898年の夏における貪欲なる55日間の発作でもって、米国は、全部で1100万人の住民達がいるところの、遠く隔てられた5つの諸土地・・グアム、ハワイ、キューバ、フィリピン、そして、プエルトリコ・・に支配を確立した。・・・」(E)
(続く)