太田述正コラム#0452(2004.8.25)
<京都・奈良紀行(その12)>

 (5)観光タクシー
  ア 三十三間堂
8月6日は、観光タクシーを一日、利用しました。
 ホテルで前日手配したのですが、二社紹介されたうち、安かったMKタクシーの方を選びました。
 行き先は、息子の希望も聞いて当方で決めました。三十三間堂、清水寺、銀閣寺、二条城、金閣寺の五カ所です。
 三十三間堂は、後白河上皇(1127??1192年)が平清盛(1118??1181年)に命じて造らせた天台宗のお寺の本堂です。
 ただし、現在の三十三間堂は、13世紀に再建されたものです。
 昨年のNHKの大河ドラマ「宮本武蔵」の中での、宮本武蔵(1584???1645年)と吉岡伝七郎の三十三間堂での果たし合い(注6)の場面が強く印象に残っていたらしく、三十三間堂は息子ご指名の参観先です。

 (注6)武蔵と京都とのご縁は深い。今回われわれが訪れたところだけでも、吉川英治の小説「宮本武蔵」によれば、大仙院は武蔵が沢庵から心の指導を受けたことになっている場所だし、吉岡清十郎と伝七郎を破ってから、一条下り松で吉岡一門数十名と戦って勝利したことになっている武蔵が、その後、身を潜めたことになっているのが東寺の塔頭の観智院だ。ちなみに、武蔵が吉岡兄弟(直綱・直重)と果たし合いをして勝ったのは史実らしいし、観智院には武蔵直筆の襖絵が残っている。(http://www.thehatanaka.co.jp/musasi/及びhttp://homepage3.nifty.com/ganryu/sub/musanenp.htm

 本像の国宝の千手観音(コラム#438)坐像を中心に、左右に重要文化財の千手観音等立像が整然と計1000体並んでいる様は、圧巻としか表現のしようがありません。
 (以上、特に断っていない限りhttp://www.digimake.co.jp/webtown/higashiyama/sanjyusan/sanjyusan.html及びhttp://www.kyoto-web.com/top/map/rakutou2/31.htmlによる。)
 そのため、ことごとく国宝であるところの、風神・雷神、及び二十八部衆(注7)の存在がかすみがちですが、その一つ一つがすばらしい作品です。

 (注7)二十八部衆は、千手観音菩薩の眷属で、八部衆(コラム#434)、四天王(コラム#436)と同体の毘沙門天(多聞天と同体)等の仏尊、仁王(ヴィシュヌの化身)の阿形・吽形と同体と考えられる2体の仏尊、そのほか帝釈天(インドラ)等14体の仏尊からなる(http://butsuzo.cside.com/buddha/html/33/haiti.html以下)。
風神と雷神はやはりインド古来の神々であり、この二十八部衆に抵抗し、やがて仏教に帰依したということになっている。また、尾形光琳や俵屋宗達の風神・雷神図のモデルとなったのではないかと言われている。(http://www.inokozaka.co.jp/sinbutu/raijin.htm

 イ 清水寺
 清水寺は京都で一番拝観者の多いお寺です。
 その名前の起こりは、音羽の滝という、境内から今でもわき出る霊験あらたかな清水にあります。この滝のように流れ落ちる清水をひしゃくで受けて、飲んで来ました。
 清水寺は、坂上田村麻呂(758??811年)の創建にかかるとされており、かつては興福寺(コラム#434)の末寺であった(境内に春日大社(コラム#434)ゆかりの春日社がある)ことから、興福寺と延暦寺(南都北嶺)の争いに巻き込まれ、たびたび焼き払われました。現在の堂宇の多くは徳川家光によって再建されたものです。
 有名な国宝の本堂の「清水の舞台」は今、一部が修理中だったのは残念でした。
 本堂に入る直前に胎内くぐりを息子と二人だけでやりましたが、完全な暗闇の胎内くぐりは初めての経験でした。しかし、この胎内くぐりについては、どのサイトにも説明がありません。一体あれは何だったのでしょうか。
(以上、http://homepage2.nifty.com/cub/niwa/kiyomizu.htmhttp://www.kiyomizudera.or.jp/engi-yurai.htmlhttp://web.kyoto-inet.or.jp/people/masako01/kiyomizudera-no.html以下、による。)

  ウ 銀閣寺
 昼食は、観光タクシーの運転手さんご推奨の「おめん」。冷麺も温麺も山のようにかやくを入れて食べます。支店三つの内の一つはニューヨーク支店だそうです。
 そして、山村美砂(故人)・西村京太郎邸の前をわざわざ通って銀閣寺に着きました。
 銀閣寺は、足利8代将軍義政(1436??1490年)が、祖父の義満が建てた金閣寺にならって山荘の東山殿を建立したのが始まりであり、正式には慈照寺といいます。
 国宝の観音堂がいわゆる「銀閣」です。
 庭園は、室町初期の西芳寺(苔寺)の庭園を模して作庭されたものです。西芳寺(http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kazuoy/saihoji.html)と同じく上下2段に大別され、上段は枯山水庭園、下段は池泉回遊式庭園で中央に池が広がり、池泉回遊式庭園は美しい苔に覆われています。枯山水庭園の、中国の西湖を模して白砂を段形に盛り上げた銀沙灘、及び、義政の月見跡を白砂で富士山のように盛り上げた向月台、のデザインの現代性には舌を巻きます。
 やはり国宝の東求堂(その同仁斎は、現存する最古の書院造りで四畳半茶室の原型と伝えられている)の拝観は事前の申し込みが必要であり、パスしました。
 (以上、特に断っていない限りhttp://www.digimake.co.jp/webtown/sakyou/ginkakuji/ginkakuji.html及びhttp://www.pref.kyoto.jp/intro/trad/isan/jishouji.htmlによる。)

 銀閣寺を出て、すぐ近くの「緑壽庵清水」で義母おめあての金平糖を買いました。たかが金平糖と思って口にふくんでみると、至福の味がします。

(続く)