太田述正コラム#8957(2017.3.7)
<夏目漱石は縄文モード化の旗手だった?(その4)>(2017.6.21公開)
 <漱石が、1907年(明治40年)2月に朝日新聞に入社した後、同年の>『虞美人草』<と、翌年の>・・・『夢十夜』<(漱石のウィキペディア前掲)という、>2つの実験小説を経て、新聞小説家として別人と思えるような優れたエンターテインメントを実現したのが<1908年の>『三四郎』です。その冒頭を紹介します。
 うとうととして目が覚めると、女は何時の間にか、隣の爺さんと話を初めてゐる。此爺さんは慥 <(たし))>かに前の前の駅から乗った田舎者である。…(中略)…
 三四郎は九州から山陽線に移って、段々京大坂へ近付いてくるうちに…(後略)…
 ここで大事なのは、「九州から山陽線に移って」です。多くの読者は、「山陽線」という一言で、連載前の1906年に始まった鉄道国有化問題を思い出したはずです。山陽線は山陽鉄道と言って、最初に食堂車や寝台車を設置するなど、日本の鉄道事業の最先端を行く西日本で最も有力な私鉄でした。ところが、日露戦争では兵站が私鉄によって担われたため、外国人株主を通じて軍事輸送用の特別ダイヤが漏洩する可能性が生じました。このため、軍部にとって私鉄の国有化は急務となったのです。・・・
 外国人株主は国有化に大反対し、外務大臣が辞任するという混乱の中、1906年、鉄道国有法(32の私鉄を買収)は成立しました。『三四郎』が発表された時期は、山陽鉄道の買収の最終段階でした。当時の新聞は、一面が政治面、二面が外交・経済面、三面が社会面で、その下に新聞小説が掲載されていました。漱石の読者は半年前に読んだ社会面の記憶を思い起こしながら読んだことでしょう。つまり、新聞小説では具体的に書かなくても、読者の記憶のスイッチを押せば、豊かな世界を構築できるのです。漱石は、新聞というメディアを、読者共通の言語体験の場として、最大限活用したのです。・・・
 さて、三四郎は東京で、物理学を専門とする東京帝大講師・・・の野々宮さんに会います。・・・野々宮さんが入院した<時、>・・・三四郎は留守居を預かることになります。野々宮さんの借家は甲武鉄道(今の中央線)の線路のそばなので、汽車の音が響きます。すると、いつになく高い音を立てて汽車が通り過ぎました。驚いて外へ出ると、「轢死ぢやないですか」との声があり、三四郎は鉄道自殺をした若い女性の斜掛(はすがけ)の遺体を目にします。通常の歴史体はミンチ状になります。綺麗に斜掛になるには、汽車の鉄輪が体を轢き切るまで、レールにしがみついている必要があります。朝日新聞は日露戦争中、こうした事例を一例だけ報道しています。亡くなったのは夫を日露戦争で失った身重の寡婦でした。舅と姑は彼女に恩給を渡さず、彼女の妊娠も疑い離縁したのです。彼女は自分の妊娠を証明するために、自分の子宮を汽車の鉄輪が綺麗に轢き切って行くまでしがみついて、そのような死体を残したのです。
 朝日新聞の見出しは、「あっぱれ、覚悟の歴史」。「女性でもこのような死に方をするのだから、大和魂を持つ男子は日露戦争で勝利を収めよ」という士気の鼓舞をねらったものです。漱石はこの記事を読んでいたのではないかと類推しています。また、別の所で三四郎の友人の与次郎は、「日本じゃ今女のほうが余っているんだから」と言います。適齢期の男性が日露戦争で戦死する中、女性は相応しい結婚相手を見つけられるのか。日露戦争後、結婚適齢期の兄を持つ妹である里見美禰子も野々宮よし子も、そういう状況に置かれたことが、『三四郎』の隠れたテーマだと思います。
⇒この、説得力ある着意を得た小森は素晴らしいと思います。
 後で若干補足しますが、1915年に死ぬまで、漱石は、朝日に連載小説を書き続けるところ、その大部分において、小森が見抜いたところの、いわば、朝日の読者達との黙契に基づく執筆方針、が貫かれることになるのです。
 おかげで、どうして、漱石が朝日に入る直前に書いた。1905~06の『吾輩は猫である』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%BE%E8%BC%A9%E3%81%AF%E7%8C%AB%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B
や、1906年の『坊つちゃん』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%8A%E3%81%A4%E3%81%A1%E3%82%84%E3%82%93
はまあまあ面白いのに、朝日に入ってから書いた長編小説群である、『虞美人草』、『杭夫』、『三四郎』、『それから』、『門』、『彼岸過迄』、『行人』、『こころ(正式には『こゝろ』)、『道草』、『明暗』(未完)(漱石のウィキペディア前掲)が、『こころ』を除いて面白くなかったのか、が分かりました。
 面白い面白くない以前に、私は、当時の朝日の読者ではない、のですから、漱石の小説を読んだだけでは、彼が伝えたかったものの全体像が掴めなかったからだ、ということが・・。
 (『こころ』だけが、どうして、私にとって例外的に面白かったのか、については後述します。)(太田)
 
(続く)