太田述正コラム#8959(2017.3.8)
<夏目漱石は縄文モード化の旗手だった?(その5)>(2017.6.22公開)
 漱石は、現実に起きた事件について明確に書きませんが、読者が記憶を蘇らせるように新聞連載小説の中に様々な仕掛けを施しました。その最も珠玉の場面の一つが、『門』<(1910年3月~6月)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%8F%E7%9B%AE%E6%BC%B1%E7%9F%B3 前掲
>の冒頭近くにあります。・・・<それは>、叔父の家で養育されている弟の小六が一高を卒業する年、叔父の死で学資を失い、大学進学が困難になるという場面です。<彼の>兄<で主人公である>宗助は不倫事件を起こして京都帝大を中退しています。ある日曜の夕方、弟は相談のために兄を訪問します。
 <そして、>「時に伊藤さんも飛んだ事になりましたね」と云い出した。宗助は五六日前伊藤公暗殺の号外を見たとき、<妻の>御米の働いてゐる台所に出て来て、「おい大変だ、伊藤さんが殺された」と云つて、手に持つた号外を御米のエプロンの上に乗せたなり書斎へ這入つたが、其語気からいふと、寧ろ落ち付いたものであつた。
 伊藤博文の暗殺は、1909年10月26日です。・・・『門』の連載開始は翌年3月からなので、読者は販年前の記憶を呼び覚まされたはずです。妻の御米は夫の宗助<ら>・・・に向け、次のように言います。
 「どうして、まあ殺されたんでせう」と・・・宗助は落<(ママ)>付いた調子で、「矢っ<(ママ)>張り運命だなあ」と云つて、茶碗の茶を旨さうに飲んだ。御米はこれでも納得出来なかつたと見えて「どうして又満州抔(など)へ行ったんでせう」と・・・。
 ・・・<こ>の「何故満州に行つたのか」という問いは本質に迫っています。
 伊藤博文は、日露戦争のポーツマス講和条約では朝鮮の独立を保障すると約束したのに、日韓併合をしました。伊藤はロシアとの根回しに行ったのです。伊藤をハルピン駅で射殺した安重根の死刑判決は、『門』連載直前の19<10>年2月に出ました。裁判で安重根が語った「何故、自分は伊藤博文を暗殺したか」は連日、新聞に報道されました。安重根が処刑されたのは同年3月半ばで、『門』の連載開始の後でした。『門』の読者は、この半年間に読んだ、そして今読んでいる新聞記事の記憶を蘇らせながら読み進めたはずです。
⇒漱石にとって、伊藤博文は英国留学の先輩でもありますが、下掲のような伊藤の生涯に、彼は、強い共感と覚え、同情を寄せていたはずです。↓
 「<自身が首相の時の>日清戦争後、伊藤は対露宥和政策をとり、陸奥宗光・井上馨らと共に日露協商論・満韓交換論を唱え、ロシアとの不戦を主張<するとともに、>に桂太郎・山縣有朋・小村寿太郎らの日英同盟案に反対した<上、>自ら単身ロシアに渡って満韓交換論を提案するが、ロシア側から拒否され<、結局日露戦争が起きてしまったところ、日露>講和後は、勝利を手にした日本と敗戦国ロシアとの間の戦後処理に奔走した。・・・<また、>明治40年(1907年)7月、京城(ソウル)にて・・・<韓国統監として、>「日本は韓国を合併するの必要なし。韓国は自治を要す。」と演説していた<というのに、最終的に日韓併合を認めざるを得なくなり、統監辞任後の>・・・明治42年(1909年)10月26日、ロシア蔵相・・・と満州・朝鮮問題について非公式に話し合うため訪れたハルビン駅で、・・・安重根によって射殺された。<ちなみに、彼は、>ハルビンで暗殺される前の歓迎会でのスピーチで「戦争が国家の利益になることはない」と語っている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%8D%9A%E6%96%87
 そして、漱石は、伊藤に対する共感と同情を、『門』の中で、朝日新聞読者達に向けて、素直に吐露し、読者達の大多数も、漱石の意のあるところを違和感なく受け止めたのだろう、と私は思うのです。(太田)
 当時は内務省の検閲と発禁のある時代です。そのことを念頭に、読者に新聞記事の記憶を甦らせることで、読者とともに小説の世界を作っていくという新聞連載小説の新しい手法を、漱石は検閲の下では十分に言えないことを伝える関係性を、この手法により、作家と読者の間に築いたのです。
⇒朝日新聞の読者達との黙契に基づく同紙連載小説という新しい手法、という小森の指摘については全面的に、それが検閲回避のためのものでもあった、という小森の指摘については一定程度、私は同意しますが、漱石が訴えたかったものは、「軍国主義とどう向き合うのか、戦争がどのような<負の>状況を国と人にもたらすのか」(前出)、ということ・・『門』の場合で言えば、朝鮮半島を植民地にすること、とりわけ、戦争によってそれを実現すること、への批判めいたこと・・とは微妙にズレているのではないか、というのが、(既に示唆しているところの、)私の見解です。
 これも、このシリーズのタイトルに物語らせ、かつ、冒頭にも申し上げたことですが、漱石は、日本の当時の弥生モードに嫌悪感を抱き、縄文モードへの回帰を訴えたかったのだ、というのが私の見解なのです。
 漱石の最高傑作であると私が考えているところの、「売上総数<が>2014年の時点で705万500部<だが、>これは日本の文学誌では1位の売上である」『こころ』(1914年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%93%E3%82%9D%E3%82%8D
の中で、そのことが事実上開かされている、ということに、(小森のおかげですが、)私は気付いたのです。
(続く)