太田述正コラム#8981(2017.3.19)
<再び英国のインド亜大陸統治について(その5)>(2017.7.3公開)
[書評の追加(但し、収穫はなかった。)]
D:https://www.ft.com/content/1885a53e-07d4-11e7-97d1-5e720a26771b
(3月18日アクセス)
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 (7)虐殺
 –アムリッツァーの虐殺<(コラム#5035、6317、6525)>–
 「1919年4月13日、インド亜大陸のアムリッツァー(Amritsar)で、非暴力的な抗議者達が政府の命令をものともせず、英国の植民地統治に反対するデモを行った時、彼らは、壁で囲まれたジャリンワラ庭園(Jallianwala Gardens)に押し込められ、グルカ兵達によって射撃された。
 この兵士達は、レジナルド・ダイヤー(Reginald Dyer)<(注7)>准将の諸命令の下、銃弾がなくなるまで射撃を続け、10分以内に、379人から1000人の抗議者達を殺害し、更に1100人を負傷させた。<(注8)>
 (注7)Reginald Edward Harry Dyer。1864~1927年。最終階級は陸軍大佐であり、事件当時を含む一定期間のみ准将だった。現在のパキスタンで生まれ、単科大学の途中までインド亜大陸で教育を受け、更にアイルランドの単科大学で学び、その後、英陸軍士官学校を卒業した。事件後本国に召還された彼は、当時のチャーチル陸相によって、懲罰なしの解雇処分を下された。
https://en.wikipedia.org/wiki/Reginald_Edward_Harry_Dyer
 (注8)「<インド亜大陸で>第1次大戦後発令された治安維持法(ローラット法)への抗議の声に沸き立つインドでおこった<英軍>による大量住民虐殺。1919年4月13日,パンジャ<ブ>州アムリッツァ<->市内で,2人の民族指導者の逮捕に抗議して集まった約2万の市民の間に<英>准将R.E.H.ダイヤー率いる完全武装の軍隊が乗り込み,無差別発砲により1500人以上の死傷者を出した。事件のおきた市内の地名をとってジャリアンワーラー・バーグ事件と通称されている。
https://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%84%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%81%AE%E8%99%90%E6%AE%BA-1143863
 ローラット法(Rowlatt Act)とは、「第一次世界大戦後、インド<亜大陸>内の反英運動を弾圧するために、インド<亜大陸>防衛法にかわるものとして1919年3月にインド政庁が成立させた法律。正確には「無政府・革命分子犯罪取締法」という。この法律のもととなったのは、17年にインド<亜大陸>の治安状況とその対策の調査のため任命された委員会の報告で、その委員長S・ローラットの名を冠してこの名でよばれる。逮捕状なしの逮捕、普通の裁判手続抜きの投獄など、民族運動への法外な弾圧を目ざす治安維持法であった。法案として提出された段階からインド<亜大陸>内の激しい反対運動をもたらしたが、19年4月のジャリアンワーラーバーグ(アムリッツァル)虐殺事件によってその運動はいっそう激化し、ガンディーに指導される第一次サティヤーグラハ(非暴力的抵抗)運動とよばれる、第一次大戦後のインドの大衆的反帝国主義闘争展開へのきっかけをつくった」
https://kotobank.jp/word/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%88%E6%B3%95-153447#E4.B8.96.E7.95.8C.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E7.AC.AC.EF.BC.92.E7.89.88
 ダイヤー准将は、後に英本国の公衆によって英雄として称えられ、謝金として彼のために26,000ポンドが募金された。」(C)
 「タルールは、兵士達が、「悲鳴を上げ、泣き叫び、次いで我がちに逃げ出した群衆に向かって、訓練された正確さでもって、諸弾倉を空にした」ところの、1919年のジャリアンワーラー・バーグ(Jallianwala Bagh)虐殺の類でもって「啓蒙的専制主義」の神話を粉砕しようとする。
 彼が、1928年の<首相が>スタンレー・ボールドウィン(Stanley Baldwin)の保守党政府における内相ウィリアム・ジョインソン=ヒックス(William Joynson-Hicks)<(注9)>のコメント・・「我々は、インド亜大陸を刀で征服したが、刀でもって我々はそれを保持する。私は、我々がインド亜大陸人達のためにインド亜大陸を保持すると語るような偽善者ではない。」・・の文脈を書いていないのは残念だ。」(B)
 (注9)William Joynson-Hicks, 1st Viscount Brentford。1865~1932年。内相:1924~29年。高卒で事務弁護士を経て保守党下院議員。内相の時は、保守反動の権化として鳴らした。
https://en.wikipedia.org/wiki/William_Joynson-Hicks,_1st_Viscount_Brentford
 (8)飢饉
 「3500万もの人々が諸飢饉で不必要に死んだ。
 インド亜大陸が飢えている時、そのパンをロンドンは食べた。
 そして、1943年には400万人近くのベンガル人達が死んだ。・・・
 これら諸飢饉の一切合切は、「英国の植民地ホロコースト」に相当するというのだ。」(B)
 「英帝国のコントロール下にあった間に、インド亜大陸で飢饉が酣の時にも英国に何百万トンもの小麦が輸出されたため、1200万から2900万人のインド亜大陸人達が飢餓で死んだ。
 1943年には、ウィンストン・チャーチルが、ベンガル全域に致死的飢饉が生じていたというのに、英国兵達とギリシャのような諸国に<インド亜大陸産の>食糧を回したために、最大で400万人のベンガル人達が飢餓で死んだ。
 1943年に、ベンガル飢饉について語って、チャーチルいわく、「私は、インド亜大陸人達を憎む。彼らは獣のような宗教を持つ獣のような連中だ。この飢饉は兎のように繁殖した彼ら自身のせいだ」、と。」(C)
⇒諸飢饉による死者の合計も、ベンガル飢饉の時のインド産食糧の行先も、書評子によって違っているというのは困ったものですが、そんなことはどうでもよくなる規模の苛斂誅求を英国はインド亜大陸統治でやってのけ続けたわけです。
 但し、英国人は・・この場合はイギリス人は、と言わないと舌を噛みそうになりますが・・時期的に重なる形で、全く同じことをアイルランド統治でもやってのけた(注10)のですから、イギリス人が、いかに人種主義者でないか、がここからも分かる(?!)、というものです。
 (注10)「アイルランドで1782年から1783年にかけて飢饉が起きた際は、港は閉鎖され、アイルランド人のためにアイルランド産の食料は確保された。結果、すぐに食料価格は下落し、商人は輸出禁止に対して反対運動を行ったが、1780年代の政府はその反対を覆した。しかし、1840年代には食料の輸出禁止は行われなかった。・・・
 <その結果、1841年から1851年のいわゆるジャガイモ飢饉の時、>80万人から100万人が亡くな<り、>・・・加えて、計200万人以上がアイルランド島外に移住・移民したと考えられている。アイルランドは19世紀の人口に比べて20世紀の人口が減少している、西欧では唯一の国である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%AC%E3%82%A4%E3%83%A2%E9%A3%A2%E9%A5%89
 そして、個人主義者達からなる国であるイギリスの恐ろしさも・・。(太田)
(続く)