太田述正コラム#9202(2017.7.8)
<皆さんとディスカッション(続x3397)/朝鮮論(第I部)>
<太田>(ツイッターより)
 「…感情に鈍感である方が、勉強ができる…
 頭がいいのに、相手の表情や空気感をつかめ<ない>…人の脳をMRIで見てみると扁桃体とその周囲が発達していないことが多い。…
 「確かに…」と、<豊田、稲田両議員のような>…身の周りの才女の感情の欠落に心当たりがある人も多いのではないか。…」
http://news.livedoor.com/article/detail/13305411/
 こんな非論理的なことを言う、恐らくは「勉強ができ」ず「頭が」悪「い」と思しき人が、知的経営者、知的物書き、として成功しているらしい
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E4%BF%8A%E5%BE%B3
ことに衝撃を受けた。
 記事で引用した『女性セブン』にも喝!
<dekapoppo>(同上
 男も心当たりある。
<太田>
 「相手の表情や空気感をつかめ<ない>」ないし「偏桃体とその周囲が発達してない」こと(α)、・・この二つの「」内がイコールなのかどうか知らないが・・と、「頭がいい」ないし「勉強ができる」(β)・・この二つも必ずしもイコールじゃない・・かどうか、とは、別問題だろってのが第一。
 そして、どうして、こういう話をする時に、dekapoppoクンじゃないけど、「人」じゃなく「女」を持ち出すんだよ、ってのが第二。
 蛇足ながら、「相手の表情や空気感をつかめ<ない>」じゃ、心理描写に長けてることが必要条件であるところの、まともな文学者にはなれないはずだが、日本の有名な文学者の学歴は、極めて高いぜ。
http://yuumeijin.biz/hensasyokuken.php?syoku=%E6%96%87%E5%AD%A6%E8%80%85
 なお、「頭が」悪くて「相手の表情や空気感をつかめ<ない>」人は、淘汰されてしまうが、「頭が」良ければ「「相手の表情や空気感をつかめ<ない>」人でも、それなりに使えるので必ずしも淘汰されないってことはあるし、女性の場合、「頭が」良ければ、逆差別の対象になることが多いので、更に淘汰されにくいってことはあるだろな。
(参考)偏桃体
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%81%E6%A1%83%E4%BD%93
    心の知能指数
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%83%E3%81%AE%E7%9F%A5%E8%83%BD%E6%8C%87%E6%95%B0
    精神病質
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%BE%E7%A5%9E%E7%97%85%E8%B3%AA
<太田>(ツイッターより)
 「…A級順位戦…佐藤康光九段―三浦弘行九段戦<で>…三浦九段が…勝<ち>…三浦九段は1勝1敗、佐藤九段は0勝2敗となった。…」
http://digital.asahi.com/articles/ASK7803NWK77UCVL02X.html?iref=comtop_list_cul_n01
 これ衝撃的ニュースだわ。
 前将棋連盟会長の谷川九段のA級陥落といい、プレイングマネジャー制度は止めた方が。
<TSY>
 太田さんの、人-間主義の説明の中に和辻の『人間の学としての倫理学』があげられていたように思います。覗いてみました。少し感想を書きます。ご笑覧ください。
● 僕が太田さんの人-間主義と思っているもの
相手の人間らしい暮らしに常に配慮して、自分の生活上職業上の行動を選択する生き方。
自分の周りの人達が、態度や、部分的に言葉で表現している生活上職業上の信条を尊重し、自分もそれを共有することで一人前になろうとする生き方。
● 和辻
一般論として人がどんな存在かを書くという態度。
「……顔を洗って飯を食う。食器や食卓や料理の仕方や食事の作法などがすべて一定の存在の仕方を表現する。我々はその表現の了解においてのみ飯を食うことができる。さらにそこでは家族の間に言葉や身ぶりがかわされ、食事そのものが共同的になされる。我々は味覚をただ己のみの感覚とするのではなく、共同に食物を味わうのである。これらはすべて間柄の表現でありその了解であって、それなしには人は何物をも味わい得ぬであろう」p.231 二章 15節 人間存在の通路
目の前のご飯茶碗をみて、もしそれが見たことのないプラスチック製で嫌いな色の椀だったとする。僕は自分の手になじんだ、普段のお茶碗を懐かしむだろうし、それを買った店のことを思い出し、それを作ってくれた陶芸家
のことを考えるかもしれない。あの形や色が好きだったことを改めて意識し、
そういうものが好きでこだわるのが自分だということを思い返すかもしれない。あのお茶碗を毎日出してくれていた家人のことも考えるかもしれない。
そして家人が僕がその茶碗を気に入っていることを覚えていてくれて、今日まで毎日出してくれていたことを有難く思うかもしれない。たしかに意識しさえすればお茶碗一つでも、人とつながり、人といろんな思いをキャッチボールしながらその場にいる自分という存在に気づかされる。他者(人・もののすべて)との関わり合いのなかで、存在(正味の自分)に気がついていくのが人間のあり方ということになる。
相手と自分の相互作用を意識できる、という意味で、この人間観は人-間主義の基盤を提供する、人間の説明(和辻語では存在のありかた)になっている。
● 問題点
和辻の論は、年齢も、性別も、宗教も、民族も、国籍も、まったく区別なく、人間一般にあてはまる説として記述されている。
単純な例で申し訳ないが、従業員の人間らしい暮らしなど一顧だにせず、会社の利益の大半を私物化する経営者のことをちょっと考えてみる。人-間主義的な判別をすると、この経営者は人-間主義者とはいえない。和辻説ではどうなるか、彼は人間的な人間ではない、とされるのか? 僕の理解では、そうはならない。和辻の説は人間一般、人であれば必ずそういう存在である、という一般的な人間のありかたの説明である。会社の利益配分について非人-間主義的な行動をとるこの経営者も人間としては、相手(ここでは従業員)と自分との相互作用的関係のなかにいることから免れないということを和辻は説く。
この考えの素敵な所は、殺人正当化の論理を許さないことだと思う。殺人は敵を「あんなことをする(言う)やつは人間じゃねえ」と相手を非人間化することではじまる。和辻は例外なく人間一般にあてはまる説を展開している。したがってその説の中では「人間じゃねえ」人間というのは、理論的にありえない。和辻の世界では世界はどこまでいっても、自分と相互作用関係にある人間しかいない。「人間じゃねえ」といってこの相互作用の外に出られる人間の存在は、和辻が許さない。
問題点は、和辻の説が誰にも例外なくあてはまる人間のあり方として記述されることにある。利害対立があり、行動の選択肢が別れた場合であっても、和辻によれば、その選択肢は全て、例外なく、相手と自分との相互作用の中で生きる人間が形成したものになる。非人-間主義的な主張と、人間主義的主張が対立している、この現実世界で、人-間主義的な主張に肩入れする、論拠が和辻の説からは出てこない。
素数の定義は、次の素数を教えてくれない。学としての倫理学も、現実の行動選択肢の選択に力を貸してくれることはなさそうだ。
<太田>
 釈迦は実践哲学者、和辻は理論哲学者、という違いこそあれ、どちらも人間の本質を捉えている、という点では同じであり、かかる哲学者の指摘を真理である、と措定した上で、現実の人間社会をどう捉えるか、というのは歴史学者ないし社会学者、その人間社会をどう導くべきか、というのは政治学者ないし政治家、のそれぞれ仕事である、ということではないでしょうか。
<太田>
≫「…共産主義にとって、「一民族一国家」を目指す民族主義は否定されるべき思想である<ところ、>…人民解放軍は共産党を支持する人民を守るが、反抗する国民(民族)を守らない<ので、>…中国共産党が民族主義を高く掲げれば掲げるほど、共産党のイデオロギー的矛盾は拡大していくことになる。…」
http://www.sankei.com/column/news/170706/clm1707060006-n1.html
 この主張の誤り(複数)を指摘せよ。≪(コラム#9200。太田)
 簡単過ぎた(?)のか、誰も答えてくれなかったけど、共産主義と言ってもスターリン主義は、ロシア民族主義の無花果の葉っぱに過ぎなかったのに対し、中国共産党は、マルクス主義/人間主義の支那での実現を目指す組織であって、人間主義の縄文文化を基調とする日本において非人間主義的要素のある弥生文化の担い手たる武士達による、日本を内外の非人間主義者から守るための武家独裁政権(幕府)が果たした役割に類似した役割を支那において担ってきた、という私のかねてからの主張に照らせば、上掲の「」内の主張の誤りは明らかだろう。
<太田>
 それでは、その他の記事の紹介です。
 米国じゃ、金正恩殺害を、という声が高まってるみたいね。
 それができりゃ、確かにイチバンいいのかもしれないが・・。↓
 ・・・Fox News・・・has a<n>・・・idea on how to address the threat of a nuclear-armed North Korea. Namely, it is to assassinate the country’s leader, Kim Jong Un, who was referred to as “a complete and total absolute maniac, spoiled, fat kid” by Fox News host Meghan McCain, daughter of Senator John McCain,・・・
http://www.newsweek.com/fox-news-kim-jong-un-633656
 全くその通り。↓
 Sally Hemings wasn’t Thomas Jefferson’s mistress. She was his property.・・・
https://www.washingtonpost.com/outlook/sally-hemings-wasnt-thomas-jeffersons-mistress-she-was-his-property/2017/07/06/db5844d4-625d-11e7-8adc-fea80e32bf47_story.html?utm_term=.fc271b134ed2
 中共官民の日本礼賛(日本文明総体継受)記事群だ。
 <人民網より。
 あらゆることを調べまくってる習ちゃん。↓>
 「日本の電炉鋼が発展しない理由は?・・・」
http://j.people.com.cn/n3/2017/0707/c94476-9238238.html
 <御贔屓にしていただき、ありがとさん。↓>
 「中国人観光客が日本の買い物のカタチを変える?・・・」
http://j.people.com.cn/n3/2017/0707/c94476-9238625.html
 <御心配していただき、ありがとさん。↓>
 「日本の製造業は輝きを取り戻せるか・・・
http://j.people.com.cn/n3/2017/0707/c94476-9238255.html
 <ここからはサーチナより。
 はいはい、引き続き、「継受」、頑張ってね。↓>
 「・・・簡書はこのほど、日本で長く暮らしているとう中国人が執筆した書籍の内容として、中国人から見た日本について紹介する記事を掲載した。
 この本を紹介しているのは日本を観光で訪れた中国人で、彼女は日本へ向かう機内の中でこの本を読んだという。なぜなら彼女は1週間の滞在だけで日本人の性質を理解したり、日本の風土や人の情を知ることは難しいと思い、事前にこの本を読もうと思い立ったとしている。
 彼女は本の内容から、「自分が日本を訪れても知ることのできなかったであろうこと」を選んで3つ紹介している。1つは「読書」であり、日本人は読書家であると紹介した。これは実際に地下鉄など様々な場所で多くの日本人が読書をしているのを目にし、日本人は読書が好きなのだと実感したようだ。多くの日本人が手にしていた本のサイズは小さく、表紙が折り曲げられる文庫本だったことが驚きだったようだ。
 中国で一般的な本は表紙がしっかりした分厚いものなので、移動中に読むには不便だ。また、中国人の年間の平均読書量は8冊以下であり、あまり読書をしない国民と言われており、地下鉄で読書をしている日本人の姿は新鮮に映るようだ。
 2つ目に「家族関係」を挙げ、日本人と中国人は「家族」に対する概念が異なるとした。本が紹介したのは「日本人は団体意識こそ強いが家族の絆が希薄」とし、中国では子どもは全面的に親の庇護を期待し、自分が成長したら親の面倒を見る責任と束縛が生じ、これは自分の家庭を持ったとしても弱まることはないとした。
 3つ目に「教育」を挙げ、日本の教育の中で美しさを感じる心を育てることに重きが置かれていると紹介した。この中国人は日本を観光している際、修学旅行の学生を目にしたが、子どもたちが観たものについて書き留めたり絵をかいたりしている姿に感銘を受けたとしている。
 記事は、中国人にとって、日本は「理解したと思っても、まだ片目をつむって物を見ているような国」であり、日本と中国には「距離がまだまだ存在する」としている。」
http://news.searchina.net/id/1639383?page=1
 <まだまだ前途遼遠だけどね・・。↓>
 「・・・網易はこのほど、中国は近年、著しい経済発展を遂げたと伝える一方、「農家の暮らし」という観点から見れば日中には雲泥の差があると指摘する記事を掲載した。 
 記事は、中国の農民と日本の農家で暮らしぶりに大きな違いが出る要因について、まず「土地」の所有権をめぐる違いを指摘し、「中国では土地は国の所有物であり、農民に貸して耕作させている」と紹介。一方、日本では土地の個人による所有が認められていて、何を育てようが自由であり、売買も自由だと紹介した。 
 また、中国の農民は収穫量を増やすためならば土壌が破壊されるようなことも厭わないと伝える一方、日本の農家は土壌が破壊されるようなことはせず、土地を肥沃に保とうとすると指摘。さらに、中国では土地の所有権が認められないうえに農民は伝統的な生産性の低い方法で農業を行なっていると伝える一方、日本の農業は機械化が進んでいて、生産性も高いことを伝え、良質な農作物を安定的かつ大量に生産することで、暮らしの安定につなげていることを伝えた。」
http://news.searchina.net/id/1639384?page=1
 <こんなのはご愛敬。↓>
 「今日頭条は・・・この「腹出しルック」を日本でやると、警察に捕まる可能性があると伝えている。 
 記事は「夏の盛りになると、国内の街角では腹を出した人を見かける。腹を出して運転するドライバー、飲食店で腹を出して酒を飲む客、腹を出して串焼きを売る露天商、公園で腹を出しておしゃべりする暇な人。もはや夏の日の特別な風物詩となっている」と紹介した。 
 そのうえで「品がないと思う中国人もいるが、腹を出している人が多いこと、出してはいけないという法律がないことから、みんな見て見ぬふりをし、文句を言う人も少ない。しかし、日本で腹を出している人はとても少ない。湿度が高い酷暑の日本なのに、どうしてなのか」と疑問を提起した。 
 その理由として、日本人が公衆マナーを重んじるという要素以外に、腹出しが法律に抵触する可能性があると説明。軽犯罪法では「公共の場において他人が嫌悪する方式にて臀部や大腿部、その他の部位を露出した者」を処罰の対象とすると定められており、「上半身を含む体の一部を露出する」という行動に「他人に嫌悪感を抱かせる」という条件が加わって通報されると、逮捕される恐れがあると伝えている。」
http://news.searchina.net/id/1639385?page=1
 <こりゃ、ウソじゃあないが、ま、ガス抜きなんだろね。↓>
 「・・・今日頭条は・・・「中国人観光客が撮影した、日本の街の汚い一面 見たらとてもビックリするかもしれない」とする記事を掲載した。 
 記事は「われわれの印象では日本の街は非常に清潔で、ツアーで日本に行った観光客も、通りにチリ一つ落ちていなかったと言う。しかし日本全体がそうなのだろうか。真実はそうではない」としたうえで、日本を個人旅行で訪れた中国人観光客が日本の繁華街やその路地裏の様子を撮影したという画像を多数紹介している。 
 ある繁華街の路地裏を撮影した写真では「壁に小便禁止との文字が書いてあるのに、強いアンモニア臭がしたという。日本人には酒を飲んで酔っ払うと、路地裏で小便をする人がいるのだ」と説明した。また、コンビニエンスストア近くの通りにさまざまなゴミが散乱している写真では「これは想像していた日本だろうか」とした。 
 記事はさらに、街角で見かける廃屋のような佇まいの建物を「中国の小さな街で見かけるのと大差ない」と評したほか、トイレの乳幼児用イスに本やビニール袋が詰め込まれた光景、電柱や街灯の柱に複数の広告ビラが貼り付けられている様子などを紹介している。」
http://news.searchina.net/id/1639352?page=1
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 一人題名のない音楽会です。
 余り知られていないロマン主義の作曲家によるピアノ協奏曲シリーズの最終回として、今回は、フランシス・プーランク(Francis Poulenc)(注a)(コラム#3458、3785、6021)の作品をお送りします。
(注a)1899~1963年。「フランスの作曲家。・・・「ガキ大将と聖職者が同居している」と評された。・・・私生活では、両性愛者とされ、恋人の一人にラディゲがいたことが判っている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AF
Piano Concerto FP. 146(1949)(注b) ピアノ:Francois Rene Duchable 指揮:James Conlon オケ:Rotterdam Philharmonisch Orkest
https://www.youtube.com/watch?v=tCnctwMgceY
(注b)「初演は1950年1月にプーランク自身のピアノ、シャルル・ミュンシュ指揮ボストン交響楽団で行なわれた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%A2%E3%83%8E%E5%8D%94%E5%A5%8F%E6%9B%B2_(%E3%83%97%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AF)
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          –朝鮮論(第I部)– 
1 始めに
 朝鮮(Joseon)民族を理解するキーワードは「羈縻国」(きびこく。’Jimi state’とでも訳す?)です。
 羈縻そのものの説明は後に回しますが、現在、香港とマカオが対象となっているところの、一国二制度において、香港やマカオが名目的には独立国にされているようなもの、とご理解ください。
 ちなみに、「羈縻州」という言葉はあり、まさに、香港やマカオは「羈縻州」であるわけですが、「羈縻国」という言葉は存在しないので、私の造語、ということになります。
 朝鮮民族の歴史は、清の「羈縻国」であったこと<(注1)>、の後遺症のために、同民族が、世界最高の平均的知能を誇りながら、それを碌に生かすことができなくなってしまったまま現在に至っている、という悲喜劇的な歴史なのです。
 (注1)「陸奥宗光は、朝鮮との折衝で、<支那>と朝鮮の宗属関係はなんとも複雑怪奇だと、嘆いている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E6%B0%8F%E6%9C%9D%E9%AE%AE#.E8.A6.AA.E6.98.8E.E6.94.BF.E7.AD.96
 しかし、彼は、私ほど親切ではなく、この「宗属関係」を形容する熟語をひねり出す労を惜しんだらしい。
 遺憾なことに、この労を惜しまなかった日本人はこれまで現れなかったようだ。
 ここで、英語を用いて、簡単に概念整理をしておきましょう。
 私が、かねてより、戦後日本は米国の「属国=保護領=dependency=vassal state」である、と申し上げてきたのは、「保護国=protectorate」と申し上げるべきところ、「保護国」という言葉が最近殆ど用いられないところから、本来は異なった意味であるところの、より刺激的な「属国」・・それとほぼ同義の「保護領」という言葉も殆ど用いられない・・という言葉を用いてきた、という経緯があります。
 他方、漢語たる「属国=tributary」は、本来、華夷秩序の下における、冊封された(ところの、一般的には、名を捨て実を取った)朝貢国を指します。
 従属度で言えば、dependency>protectorate>tributary、という順になります。
 李氏朝鮮(Joseon)の清との関係は、名目上はtributaryだが、実質はdependencyであった、ということです。
 本日の「講演」では、このことと、そのよってきたる所以、を明らかにします。
 そして、次回のオフ会「講演」で、それが、現在の南北朝鮮、とりわけ、韓国にいかなる後遺症をもたらしているか、をご説明するつもりです。
 つまり、今回は朝鮮論の総論をお話しし、次回は朝鮮論の各論をお話しする予定なのです。
2 総論
 (1)習近平の朝鮮半島観
 まず、習近平の朝鮮半島観に関する、下掲の3つの朝鮮日報掲載コラム群のさわりを紹介しがてら、随所に私のコメントを挟むことから始めましょう。
 「中国の習近平国家主席が、<今年4>月6日から7日にかけて米国のトランプ大統領と首脳会談を行った際「<朝鮮半島>は実際<のところ、支那>の一部だった(Korea・・・actually used to be a part of China)」と発言していた<(注2)>と伝えられた・・・ 
 (注2)https://www.washingtonpost.com/news/fact-checker/wp/2017/04/19/trumps-claim-that-korea-actually-used-to-be-a-part-of-china/?utm_term=.80092132c01b
 <中共>の歴史学界は、韓国が韓民族形成の二つの柱としている北方のワイ貊(ワイパク<(ハク)>。ワイはさんずい<偏>に歳)族<(注3)>と南方の韓族のうち、韓族だけが韓国史の領域だと見なしている。
 (注3)「周<(Zhou)>代以降の記録に<ワイ>貊の名が見えるが、漢<(Han)>代に入り<ワイ>貊と記されるケースが増える。・・・<ワイ>貊・沃沮・高句麗<(Goguryeo)>・夫余の四種族の前身」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%82%A4%E8%B2%8A
 「靺鞨(渤海(Balhae) )<や>女真<(Jurchen)>(金<(Jin)>、後金<(=清(Qing))>)<は>ツングース系民族と確定して<おり、>・・・<ワイ>貊<、>夫余<、>高句麗<、>百済<(Baekje)は>ツングース系民族に比定する説がある<が、確定はしていない。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%84%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%BC%E3%82%B9%E7%B3%BB%E6%B0%91%E6%97%8F
⇒現在の中共当局も、従って中共の歴史学界もまた、ワイ貊族史(ツングース系民族史)だけでなく、韓族史もまた支那史の一環である、と考えていることはほぼ明白だというのに、この筆者は、恐らく意図的に、中共の歴史学界の朝鮮半島史研究を「矮小化」しています。(太田)
 高句麗・扶余・渤海などワイ貊族やその子孫が建てた国々は、<支那>の地方政権だという<のだ>。こうした認識によると、満州はもちろん大同江以北も、高麗(Goryeo)時代以前は<支那>の領土<だ>ということになる。<支那>からやって来た箕子が平壌に古朝鮮を建国して周の諸侯国となって以降、漢は楽浪郡・帯方郡、唐は安東都護府を置いてこの<ワイ貊族系の>地域を統治したというのだ。<すなわち、>韓半島(朝鮮半島)南部から起こった韓族が北進して鴨緑江・豆満江に到達するときまで、韓半島北部は<支那>の領土だっという主張だ。
⇒後でお話しすることから、私自身も、ワイ貊族史は、支那史の単なる一環であるのに対し、韓族史は、支那史の一環であることはもちろん、支那歴史における主流たる、漢人諸王朝史の一環でさえある、と考えるに至っています。
 韓族史についてのこの考えは、中共当局どころか、(これも後で説明しますが、)ずっと以前から、支那当局や支那識者達の間で確立していた、と言っていいでしょう。(太田)
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[高麗と女真人との関係]
 「960年に宋が建国されると、高麗は使節を派遣して国交を結んだ。このことは宋と敵対する遼<(Liao)>(契丹<(Khitan)(注4)>)にとって高麗侵攻の動機となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%91%E4%B8%B9%E3%81%AE%E9%AB%98%E9%BA%97%E4%BE%B5%E6%94%BB
https://en.wikipedia.org/wiki/Liao_dynasty (<>内))
 (注4)匈奴→鮮卑→契丹、という流れらしいが、モンゴル系かトルコ系かそれ以外か、判然としない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%88%E5%A5%B4
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AE%AE%E5%8D%91
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%91%E4%B8%B9
 ちなみに、唐の帝室は鮮卑系。(コラム#8513)
 「<朝鮮半島北部の>江東6州・・・はもともとは高麗の領土ではなく、女真の居住地だった。993年の契丹の高麗侵攻の講和に際し、高麗は宋とは断交し、契丹の年号を使用し、契丹に朝貢することになったが、高麗と契丹の間に女真がいるのが障害になるといって、江東6州を高麗の領土とすることを認めてもらった。高麗は、この地域に住んでいた女真を征服して城を築いた。これによって高麗は、それまで清川江が北限だった領土を鴨緑江まで拡大した。
 1009年に康兆が穆宗を殺して顕宗を立てる(康兆の政変)と、不義を正すとして、1010年にまた契丹の侵攻を受けた。康兆は契丹に捕らえられて処刑され、契丹は高麗の首都である開京を占領した。この講和条件として、江東6州を契丹に渡すことになったが、高麗は条件を守らず江東6州を領有し続けた。このためさらに1018年にも契丹の侵攻を受けるが、亀州で高麗が契丹を破り(亀州大捷)、契丹は高麗の江東6州を<最終的に>認めることとなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%9D%B16%E5%B7%9E
 「遼の聖宗は、蕭排押の敗戦を受けて本格的な高麗征伐を準備していたが、高麗からの「藩属国となり毎年朝貢を怠らない」旨の謝罪を受け容れ、1020年・・・和睦を許した。1022年以降、高麗は契丹の年号を用いて朝貢の義務を果たし、契丹が高麗の江東6州領有を許した事で、高麗は鴨緑江沿いの女真族の土地を占領した。
 その後、北東地域では女真との戦いが続いた。女真が居住していた江東6州への侵略に際して女真族の抵抗に遭った為、1033年から1044年にかけて北部に半島を横断する長城を築いて報復に備えた。1037年に女真水軍が長城の及ばない鴨緑江を侵したが、この後はおおむね安定を取り戻した。
 この後の女真の台頭は著しく、1104年の反撃では女真軍に敗れ略奪を受けている。女真は1115年に金を建て、1125年に高麗の宗主国である遼を滅ぼした。その為高麗は金へ服属し、翌1126年に朝貢した。金は中華帝国となるべく、宋への介入に集中したため、高麗は・・・それほど政治介入を受けずに済んだ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%BA%97
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 三国時代以降19世紀末まで、韓中関係は東アジアの朝貢・冊封秩序<(tributary system)>の中で進展してきた。<支那>周辺の国々が<支那>の皇帝から冊封を受けて貢ぎ物をささげれば、<支那>側が答礼の品を贈るという互恵関係は、<支那>および周辺諸国の王朝交代に関係なく続いた。<支那>は、朝貢冊封秩序とは宗主国と服属国の支配・隷属関係だったと主張する。しかし実際には儀礼的・経済的な性格が強く、周辺諸国は内治と外交の自律性を保証されていた-というのが、世界の学界における通説だ。・・・
⇒これは、一般論としては間違っていませんが、肝心の、支那と朝鮮半島との関係には必ずしも当てはまらず、清王朝と李氏朝鮮との関係に至っては全く当てはまらない、というのが現在の私の考えであり、これは間違いなく中共当局の考えでもあるはずです。(太田)
 1882年の壬午(じんご)軍乱と1884年の甲申政変<(後出)>の後、朝鮮の「監国」として赴任した袁世凱<(コラム#230、234、713、752、1561、1820、2100、4502、4528、4948、4952、4977、5036、5102、5323、5376、5890、5957、6288、7177、7606、7664、7668、7670、7674、7734、8090、8115、8390、8852)>は、10年間にわたって朝鮮の内政と外交を思いのままもてあそんだ。
⇒清は、私の知る限り、他の(通常の)冊封国に対しては、こんな無体なことは一切やっていません。
 にもかかわらず、当時、李氏朝鮮の側も、この清の措置を唯々諾々と受け入れています。
 この史実だけでも、支那と朝鮮半島の特殊な関係が浮かび上がってくるというものです。(太田)
 <支那>の政治家や知識人は、朝鮮を中華帝国の一部にしようとする構想まで打ち出した。辛亥(しんがい)革命に参加していた章炳麟<(コラム#5372、7678、7684、8852)>は、文化的に異質な新疆・チベット・モンゴル・満州を独立させる代わりに、外交・文明を共有した朝鮮・ベトナム・琉球を編入して「大中国」をつくろうと主張した。・・・
⇒私人たる章炳麟の特異な主張を引用してどうするんだと言いたくなりますが、それはそれとして、章炳麟が「外交・文明を共有」すると考えたところの、朝鮮・ベトナム・琉球、の3冊封国のうち、清が「監国」を派遣した(ことがある)のが、繰り返しますが、これらの諸国の中で李氏朝鮮だけであること、がキモなのです。(太田)
 1910年に朝鮮が日本に国権を奪われた後、中国国民党は韓国の独立運動を支援する理由として「韓国は<支那>の藩属であって、その血統が互いに通ずる殷周の末裔にしてわが中華民族の一支流」と主張した。
⇒これぞ、ずっと以前からの、支那の当局と識者の、韓族の国たる「李氏朝鮮/大韓帝国」観なのです。
 (ちなみに、「藩属」という言葉は、殆ど無内容と言ってもいいでしょう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E4%B8%BB%E5%9B%BD )(太田)
 1911年の辛亥革命で中華民国が成立した後に編さんされた『清史稿』は、朝鮮をベトナム・琉球と共に「属国列伝」の中に含めた。中国が2003年から推進している『新清史』も、こうした前例を踏襲するのではないかという懸念が持ち上がっている。
⇒既にお分かりのように、朝鮮は独特の存在であって、ベトナムや琉球と一括りにしてはいけないのですが、李氏朝鮮は、形式的には属国(冊封国)であったので、これは間違いとまでは言えないでしょう。
 なお、『清史稿』は、中華民国は中華民国でも、北京政府によって編纂されたものであり、蒋介石政権、と、中共双方は、それが正史であることを否定しているところです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E5%8F%B2%E7%A8%BF (太田)
 <韓国の>国際関係史研究の大家、金容九(キム・ヨング)翰林大学翰林科学院長は「1880年前後に、<朝鮮>半島を満州に編入すべきだという主張が中国で非常に強まり、それ以降『韓半島は自分たちのもの』という認識が中国人の脳裏に深く刻み込まれた。・・・」
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2017/04/21/2017042101560.html
(4月22日アクセス)
⇒話は逆で、「『<朝鮮>半島は自分たちのもの』という認識が中国人の脳裏に深く刻み込まれ」ていたからこそ、「1880年前後に、韓半島を満州に編入すべきだという主張が中国で非常に強ま」ったのです。(太田)
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[朝鮮半島有力諸王朝の漢人性](歴史地図でそれぞれの位置を確認されたい。)
◎箕子朝鮮(Gija Joseon)(BC12世紀?~BC194年)
 「半島北西部に存在した、<支那>の殷に出自を持つ箕子が建国した<とされる>朝鮮の古代国家。・・・このような箕子朝鮮の伝説は史実か否かとは別に<して>、・・・高麗以降の貴族や知識人によって熱烈に支持され<、現在でも中共学界では踏襲されているものの、>・・・<朝鮮半島で、>民族意識の高揚した近代以降においてはまったく逆に、<漢>人起源の箕子朝鮮は顧みられぬこととなった。韓国・北朝鮮ともに太白山(現・白頭山。<中共>と北朝鮮との国境)に降臨した天神の子の檀君<(だんくん)>が朝鮮族の始祖であり、ここから始まる檀君朝鮮こそが朝鮮の始まりと主張。現在の歴史教科書にも記述されている。・・・<なお、支那>からの移民集団の存在を認め<てい>る点では日本の学界は<中共学界>に近い。・・・
 コロンビア大学のオンライン百科事典や<米>議会図書館の朝鮮古代史のくだりには、「古朝鮮も<支那>の植民地」=「古朝鮮は紀元前12世紀に、<支那>人、箕子が韓半島北部に建てた国だ。その当時、韓半島南部は日本の大和政権の支配下にあった」と書かれている。・・・
 <ちなみに、>李朝の歴史学が文明の正統は箕子朝鮮から出発したという箕子正統説を信奉して、15世紀初期両班たちが箕子正統説を導入したのかは、当時の人口の3~4割が奴婢だっため、両班たちは自分たちが奴婢を思うままに支配してもよい根拠がどこにあるのかという問いにぶつかり、そこで聖人箕子が朝鮮にやって来て犯禁八条を定めたが、その中に窃盗したら奴隷にされるとある。だから奴婢はもともとは聖人の教えを破った野蛮人であり、両班は聖人の教えを悟った文明人である。だから、両班が奴婢を奴隷にするのは朝鮮人を教化しようとした聖人箕子の思し召しであるというのが箕子正統説が出現した現実的な理由であるという」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%95%E5%AD%90%E6%9C%9D%E9%AE%AE
 (「男なら奴、女なら婢・・・奴婢となったいきさつは、奴婢の子、捕虜、犯罪人、窃盗犯、王命で賤民に落とされた功臣、逆賊の妻子で賤民に落とされた者、借金の抵当など様々であった。しかし最も数が多いのは王朝が滅亡した時であり、百済滅亡時には亡国民は賤民となって大量に奴婢が発生した。・・・
 奴婢は主人の所有物であり財産であって、売買・略奪・相続・譲与・担保・賞与の対象となった・・・
 官奴婢は、他の奴婢よりも高い地位にあり、良民と奴婢との中間のような立場であった。・・・
 また、奴婢とは別にもうひとつの賤民「白丁」が存在した。奴婢は主人の所有物であったのに対し、彼らは誰かの所有物ではなかったが、職業は特定のものに限定され、規則をやぶれば厳罰を受け、時にはリンチで殺害された。白丁は人間ではないとされていたため、殺害犯は罰を受けなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B4%E5%A9%A2 )
⇒奴隷制維持等のために、美しい理念を掲げて英国から独立した米国を思い起こさせる。(太田)
◎衛氏朝鮮(Wiman Joseon)(BC195年?~BC108年)
 「その実在について論争のない朝鮮半島の最初の国家である。<支那>の燕に出自を持つ<漢>人亡命者である衛満・・・<が>朝鮮半島北部に建国した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%9B%E6%B0%8F%E6%9C%9D%E9%AE%AE
◎楽浪郡(Nangnang-gun)(BC108年~AD313年)
 「漢朝によって設置され、・・・、朝鮮半島北部の郡(植民地との見方も存在する一方で、完全に漢帝国が直轄する内地という見方も存在する)。・・・
 313年には高句麗に滅ぼされ、後に高句麗は楽浪郡の跡地に遷都した。楽浪・帯方の土着漢人達は高句麗・百済の支配下に入り、これらの王国に中華文明を伝える役割を果たした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%BD%E6%B5%AA%E9%83%A1
◎新羅(Silla)(676~935年。朝鮮半島中部・南部を支配。但し、建国自体は356年と考えられており、892/901年からは後三国時代であり、支配領域は縮小する。)(注5)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%BE%85#.E5.BE.8C.E4.B8.89.E5.9B.BD.E6.99.82.E4.BB.A3
 (注5)渤海の建国は698年、滅亡は926年
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A4%E6%B5%B7_(%E5%9B%BD)
だが、朝鮮半島概史の英語ウィキペディアは、「三国時代」が668年の高句麗滅亡で終わり、それから高麗時代が始まる936年までを、(朝鮮半島史に係る各種日本語ウィキペディアが「後三国時代」としているのとは違って、)「南北・後三国時代」としている。
https://en.wikipedia.org/wiki/Timeline_of_Korean_history
 つまり、英語圏は、(韓国(/北朝鮮?)の史観
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%8F%A5%E9%BA%97
に影響されてか、)渤海史を朝鮮半島史の一環と見ているわけだ。
 「<中共学界>は新羅について「<支那>の秦の亡命者が樹立した政権」であり、「<支那>の藩属国として唐が管轄権を持っていた」と記述している。・・・
 水谷千秋<(注6)>は、辰韓<(しんかん)(注7)>の民の話す言語は秦の人に似ており、辰韓は秦韓とも呼ばれていたため、実際に<その住民は支那>からの移民と考えて間違いない、と述べている。・・・
 (注6)男性。1962年~。「龍谷大学大学院・・・博士後期課程単位取得。・・・皇學館大学文学博士。・・・堺女子短期大学准教授、龍谷大学非常勤講師。日本古代史専攻。・・・松本清張記念館の研究奨励金を授与され、『謎の豪族蘇我氏』を完成する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E8%B0%B7%E5%8D%83%E7%A7%8B
 (注7)「辰韓(・・・紀元前2世紀~356年)は、朝鮮半島南部にあった三韓の一つ。帯方郡の南、日本海に接し、後の新羅と重なる場所にあった地域である。その境は、南にある弁韓と接しており、入り組んでいた。もともと6国であったが、後に分かれて12国になった。そのうちの斯蘆<(しろ)>が後の新羅になった。・・・馬韓人とは言語が異なっていたが、弁韓人とは互いに雑居し、風俗や言語は似通っていたという<史料と、>辰韓とは城郭や衣服などは同じだが、言語と風俗は異なっていたという<史料とがある>。・・・<支那>の王室の娘・・・が海を渡って辰韓に渡来して、新羅の初代王<と>王后・・・を生んだ。・・・
 <辰韓の始まりについてだが、>秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦人がおり、馬韓はその東の地を割いて、与え住まわせ辰韓人と名づけたという。そのため、その地の言葉には秦語(陝西方言。長安に都があった頃の標準語で、この亡民が秦代~前漢代に渡来したことを物語る)が混じり、秦韓とも書いた。秦人は王にはならず、辰韓は常に馬韓人を主(あるじ)として用いており、・・・馬韓が全てを制していた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%B0%E9%9F%93
 森博達<(注8)>や伊藤英人<(注9)>によると・・・辰韓人(秦韓人)<が>秦語を使用していることが決定的だという。・・・
 (注8)1949年~。「大阪外国語大学・・・中国語学科卒・・・<名大>院博士課程・・・中退。愛知大学専任講師、同志社大学助教授、大阪外国語大学助教授、京都産業大学教授・・・日本語学者・・・金田一京助博士記念賞(1992年)・・・毎日出版文化賞(2000年)を受賞」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E5%8D%9A%E9%81%94
 (注9)1961年~。東京外大朝鮮学科卒、同大ソウル大院博士課程単位取得退学、東京外大助教授で退職。「専門は、朝鮮語学・文献学。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E8%8B%B1%E4%BA%BA
⇒但し、「一般的に現在の朝鮮語の祖語は新羅語と考えられている。このことから言語をもって民族の基準とすると、朝鮮民族を形成していった主流は新羅人であると考えられ<る>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%8F%A5%E9%BA%97
ことから、辰韓が新羅になる過程で、(土着民たる被治者達(?)の文化影響を受けて、)漢人であった辰韓人が文化的に変容した、ということなのだろうか。
 この「問題」を解決しようとした学説がなさそうなのは不思議だ。(太田)
 7世紀新羅の金春秋(武烈王)は唐の冊封を受け、新羅国王となって百済と高句麗を滅ぼし半島を統一する道を選んだ。これ以後、朝鮮半島の国家は新羅であれ高麗であれ李氏朝鮮であれ全て<支那>皇帝の冊封下に入る。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%BE%85
 (参考)いわゆる三国時代における残り二国について。
 「高句麗<は、>・・・ツングース系民族による国家。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%8F%A5%E9%BA%97 前掲
 「百済<は、>・・・ツングース系夫余族の国家だったとする説と、ツングース系夫余族の支配層(王族・臣・一部土民)と韓族の被支配層(土民中心)からなっていたとする説の2説がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E6%B8%88
 (ちなみに、「韓人<とは、>・・・古代においては、朝鮮半島南部を中心として紀元前後に定住していた民族諸集団を指す。・・・
 澤田洋太郎(注10)は<戦国時代末期に>秦<に滅ぼされた>韓
< https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93_(%E6%88%A6%E5%9B%BD) >
からの移民が朝鮮半島に居住し韓人になったとしている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E4%BA%BA
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E7%B3%BB%E8%AB%B8%E8%AA%9E
 (注10)1927年~。戦後、一高・東大法卒。高等学校社会科教諭を務め、教頭で退職。「その後は著作を精力的に行い、日本古代史や憲法改正論議、共産党や資本主義などの政治経済の解説、社会人向け教養書などを多数執筆した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BE%A4%E7%94%B0%E6%B4%8B%E5%A4%AA%E9%83%8E
 この説の信憑性には立ち入らないが、仮にこの説が正しいとすると、その後、韓を滅ぼした秦からも、秦人が、辰韓地域に移民してきた、ということになる。(太田))
◎高麗(936~1392年。但し、建国は918年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%BA%97
 「文王(・・・紀元前1152年~紀元前1056年)は、<支那>の周朝の始祖。・・・周の創始者である武王の父にあたる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E7%8E%8B_(%E5%91%A8)
 「康叔(こうしゅく、生没年不詳)は、・・・周の・・・封国である・・・衛の初代君主<。彼は周>文王の九男で<周の初代君主の>武王の同母弟」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%B7%E5%8F%94
 「康叔の次男康侯の67代子孫の康虎景の息子が康忠であり、康忠は、・・・康宝育・・・を授かる。康宝育は姪・・・を娶り娘の康辰義をもうけ、その康辰義と<支那>人とのあいだに生まれたのが王帝建である。王帝建の父<たる支那>人は・・・[鮮卑系、つまりはテュルク系
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E5%B8%9D%E5%BB%BA
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AE%AE%E5%8D%91 (↑↓[]内)
であるところの]唐の皇族で、『編年通録』と『高麗史節要』では<10代皇帝
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%9B%E5%AE%97_(%E5%94%90)
の>粛宗、『編年綱目』では<第19代皇帝
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A3%E5%AE%97_(%E5%94%90)
の>宣宗である<とされている>。父<たる支那>人が新羅に来た時に、康宝育の娘の康辰義との間に王帝建は生まれた<・・唐の帝室は李姓なのにどうして王姓なのか?(太田)・・>。王帝建は、父を探しに唐に行くため黄海を渡河していた途上、・・・龍女・・・と出会<うのだが、>・・・『聖源録』によると、<こ>の龍女(後の元昌王后)というのは、<支那>平州出身の西海龍王の娘のことである。そして王帝建と・・・龍女(後の元昌王后)との間に息子の王隆が生まれる。その王隆の息子が高麗の初代王王建である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E5%B8%9D%E5%BB%BA
 「高麗の太祖王建・・・の家系はほとんど<支那>系<だが>・・・、曾祖父から調べても<曽祖父と祖母が支那人である>王建は間違いなく<支那>系3世<である。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E5%B8%9D%E5%BB%BA
◎その他:朝鮮半島の律令と漢人性
 新羅以降の朝鮮半島の統一王朝は、(モンゴル人とツングース系人がそれぞれ支配者であったところの元(Yuan)と清(Qing)は律令を用いなかったが、)下掲のように、漢人が支配者であったところの唐(Tang)・宋(Song)(や明(Ming)(?))が制定・使用した律令を用い続けた。
 「律令を制定できるのは<支那の>皇帝だけであり、<支那>から冊封を受けた国には許されないことだった・・・
 <従って、>新羅は自前の律令は制定せず、唐律令を採用していたが、独自色の強い格を多数制定することにより、新羅独特の国家体制を築いたとする見解が日本の東洋史学界では通説化している。一方で、包括的な「律令体制」と部分的受容とは分けて考えるべきであり、部分的という意味では新羅律令は存在していたとする見解が韓国学界では通説となっている。10世紀に朝鮮を統一した高麗は独自に律令を制定し、これも唐と宋の律令を引き写した内容であったとされるが、現物が存在せずに異説もある。・・・
 李氏朝鮮も<、これを>ほぼ継承<した。>・・・
 <ちなみに、>ベトナムは長らく<支那>王朝の支配を受けており、形式上は<支那>王朝の律令が適用されていた<が、>李朝期(11世紀)に北宋から事実上の独立を果たし、独自の律令格式を制定するようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8B%E4%BB%A4
 琉球に関しては、「琉球王国は、律令制を参考にした政治<等、>・・・最大の交易相手だった<支那>の影響を強く受けた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%89%E7%90%83%E7%8E%8B%E5%9B%BD#.E6.94.BF.E6.B2.BB
が、単に「参考」にしただけであると思われ、現に、政府の官職名一つとっても、(日本とも異なるが、)支那の明や清とは全く異なる(上掲)。
 ここからも、新羅以降の朝鮮半島の統一王朝の、冊封国中唯一の漢人性、を指摘することができよう。
◎その他:朝鮮民族と漢人性
 以上見てきたように、北部はツングース系、南部は漢人系、がそれぞれ中心となった形で、やがて、朝鮮民族が形成されることとなったところ、それ以降、広義のモンゴル系の流入があった。
 そういう意味で、朝鮮民族としては、その漢人性はかなり希釈されたものである、と言えよう。↓
 「後三国時代に入る<と、後三国が>高句麗系住民が建国した渤海と対立したが、渤海の滅亡以後、新しく建国された高麗が帰順してきた一部の流民を受け入れた。こういったながれの中で、現在の民族意識の確立は・・・モンゴルに支配された13世紀に入り『三国史記』の編纂や民族の啓発や統合が活発となり、13世紀後半に、現在の民族としての自己独自性の熟成と遺伝子的な一致がほぼ完成されたとみられる。・・・
 <但し、>高麗時代初期に異民族<(渤海の遺民(ツングース系人)?)>が23万8000人余りも帰化した。あるいは契丹<(Khitan)(遼(Liao))>が滅亡した後に、高麗に渡来した契丹人は100万に達するという記録もある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E6%B0%91%E6%97%8F
 「契丹語はモンゴル語の古形をとどめるモンゴル語の一方言に最も近い言語<である。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%91%E4%B8%B9
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 引き続き、二番目のコラムをどうぞ。↓
 「・・・東アジアの朝貢・冊封秩序・・・に変化が生まれたのは、1870年代後半に清とロシアの間で国境紛争が起こってからだった。1880年にロシアとの交渉を成功させた曽紀沢<(注11)>は、国境を明確にして<支那>周辺の不確実な地域を再編すべきことを皇帝に建議した。
 (注11)1839~90年。「清末の外交官。[太平天国の乱鎮圧に功績を挙げた]曽国藩の長男<であり、>・・・父の功で<官僚となる。>・・・当時新疆はコーカンド・ハン国の軍人ヤクブ・ベクが占領していたが、清の陝甘総督左宗棠によって滅ぼされた。ロシアはこの混乱に乗じてイリ地方を占領した。清朝は戸部右侍郎兼盛京将軍代理の崇厚を派遣して交渉にあたらせたが、崇厚はロシアにイリ地方をすべて割譲し賠償金を支払うというリヴァディア条約を結ぶ。清の朝廷はこれを認めず、・・・駐英公使兼駐仏公使・・・曽紀沢に<更に>駐露公使を兼任させて改めて交渉にあたらせた。結局、1881年にイリ条約を結び、イリ地方の一部の返還に成功した。このため曽紀沢の評価は国内外で高まった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%BD%E7%B4%80%E6%B2%A2
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%BD%E5%9B%BD%E8%97%A9 ([]内)
 <これは、>事大秩序の「属邦」を、近代の万国公法にいう「属国」にしようというものだった。また、当時清の駐日公使だった何如璋<(注12)(コラム#7989)>は、対朝鮮政策を盛り込んだ「三策」で、朝鮮を中国の郡県にするのが上策、政治をつかさどる監国大臣を派遣するのが中策と主張した。
 (注12)1838~91年。進士。「1877年・・・に初代駐日公使となり3年間在職・・・帰国後は福州船政大臣に任命されたが、清仏戦争時の馬江海戦で砲声に驚いて・・・逃亡してしまった。これにより11隻の艦艇を失い、700人の兵が死亡し、馬尾船廠を破壊されるという損害を出したため、責任を問われ免職となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%95%E5%A6%82%E7%92%8B
 清の朝廷はこの建議を受け入れ、1881年に対朝鮮政策を李鴻章と何如璋に任せた。
⇒この二つの献策のうち、清当局が採用し、後に実行に移したのは、監国を派遣する方でした。(後述)
 なお、李氏朝鮮のロシア東漸への危機意識の欠如を次回のオフ会の「講演」で論じるつもりです。(太田)
 1880年に修信使として日本へ渡った金弘集(キム・ホンジプ)が清の外交官・黄遵憲<(コラム#7989、8845)>から受け取って高宗に届けた『朝鮮策略』も、黄遵憲の上司だった何如璋と同じ思考から出てきたものだった。
 朝鮮がロシアの脅威に対処するつもりなら「親中国、結日本、連米国」すべきだと主張する『朝鮮策略』は、朝鮮のための外交戦略に関するアドバイス-と紹介されるのが普通だ。
 しかし金院長<(前出)>は「『朝鮮策略』は“親中国”に力点を置いており、結局は『中国に入れ』という話。高宗の命で『朝鮮策略』を回覧した大臣たちは、<清>の意図を看破し、危険性を指摘した」と語った。
⇒19世紀後半において、日支は、双方とも、対露抑止を重視していて、その観点から、李氏朝鮮の法的や実態的な立ち位置に心許なさを感じていた、という点で共通していた、というわけです。
 この心許なさの解消を、支那(清)は自国による李氏朝鮮の統制の強化に求めたのに対し、日本は、李氏朝鮮の支那からの独立と近代化に求めたことから、両国は、対立するに至り、日清戦争で衝突し、日本が勝利を収めることになるのです。(太田)
 朝鮮を属国にしようとする<清>の政策は、甲申政変(1884年)<(こうしんせいへん)(注13)>の鎮圧を主導した袁世凱を、翌85年に監国大臣として派遣することで実行に移された。
 (注13)「1880年代前半、朝鮮の国論は、清の冊封国としての立場の維持に重きをおいて事大交隣を主義とする守旧派(事大党)と朝鮮の近代化を目指す開化派に分かれていた。後者はさらに、国際政治の変化を直視し、外国からの侵略から身を守るには、すでに崩壊の危機に瀕している清朝間の宗属関係に依拠するよりは、むしろこれを打破して独立近代国家の形成をはからなければならないとする急進開化派(独立党)と、より穏健で中間派ともいうべき親清開化派(<これも要は>事大党)に分かれていた。・・・
 甲申政変・・・とは、1884年12月4日・・・に朝鮮で起こった独立党(急進開化派)によるクーデター。親清派勢力(事大党)の一掃を図り、新政権を樹立したが、清国軍の介入によって3日で失敗した。甲申事変、朝鮮事件とも呼ばれる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E7%94%B3%E6%94%BF%E5%A4%89
 袁世凱は、朝鮮の高官人事に思いのまま手を加え、清の商人が朝鮮経済を掌握できるようにした上、高宗の廃位を推し進めるなど、日清戦争(1894年)直前に<清>へ逃げていくまで、できぬことはない権力を行使した。
 <清>による朝鮮属国化の推進は、日清戦争に敗北したことで中断された。しかし<支那>は、このとき形成された対韓観を捨てなかった。・・・
 習近平国家主席が行ったと伝えられる『韓国は<支那>の一部だった』という発言は、1880年代に形成された<支那>の『歴史的な病』が130年たっても癒えておらず、むしろ慢性化したということを示している。・・・」
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2017/04/28/2017042801698.html
(4月30日アクセス)
⇒とんでもない。これは、中共当局の『歴史的な病』どころか、まさに、後で述べる史実を踏まえた『歴史的な常識』なのです。(太田)
 最後に3番目のコラムです。
 「・・・習主席が正気なら「韓国は中国の植民地だった」というようなことを言うはずがない。韓中関係を「唇滅びて歯寒し」程度で説明したと信じるのが合理的だ。・・・
⇒御冗談を。中共はトランプによる習発言紹介内容(コラム#9044)を否定していないじゃないの、で終わりです。(太田)
 675年に新羅と高句麗復興軍が世界最強の唐軍を撃破した・・・
 韓民族の連合軍は3万、対する唐軍は20万だった。7対1の戦いで勝った韓国側は、初の統一国家をつくり上げた。・・・」
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2017/05/12/2017051201821.html
(5月14日アクセス)
⇒前述したように、高句麗はツングース系の、また、新羅は漢人系の、それぞれ国家であり、この二つが同じ韓民族意識を持っていて唐と戦ったかのよような見方は牽強付会というものです。
 更に困ったことに、新羅に関する、邦語ウィキペディアには、「唐が西方で吐蕃と戦争している隙に反乱を起こして、<675年ならぬ>676年に唐の行政府に駐留する役人や警備部隊を奇襲して殺害、旧百済領と旧高句麗領の南半分を合わせて朝鮮半島をほぼ統一することに成功した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%BE%85 前掲
とあり、また、英語ウィキペディアに至っては、それとは全く違った内容である上に、「(武烈王(King Muyeol)の後継の)文武王(King Munmu)の下で、・・・新羅は668年に、北方の高句麗を征服した。新羅は、次いで、そこに唐の諸植民地を作ろうとしていたところの、朝鮮半島内の支那軍を追放すべく10年近くにわたって戦い、最終的に、現在の平壌あたりまでの北方に至る、統一王国を樹立した。滅亡した高句麗国の北方地域は後に渤海として再出現した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%BE%85
という具合なのですが、どちらにも675年の対唐大勝利の話など全く出て来ません。
 そこで、文武王(626~6812年:国王:661~681年)の英語ウィキペディアにまであたってみたのですが、「674年には、唐とその元同盟国の新羅とは、文武王が元の百済と高句麗の領土の多くの部分を奪取し・・・たことに伴い、恒常的戦闘状態にあった。<唐の>高宗(Gaozong。[皇帝:649~683年])は、怒って、恣意的に、文武王の弟・・・を国王と宣言した。しかし、文武王は公式に謝罪し貢納を申し出、高宗は<唐軍に>撤退を命じ<弟>を<国王の座から>罷免した。675年に <1000人を率いて唐に服属した>《ツングース系と思しき》靺鞨の一首長たる>李謹行(Li Jinxing)が唐に服属した靺鞨(Mohe)軍と共に新羅領内に到着した。しかし、この唐軍は<ある>要塞において新羅軍に敗北した。(唐の諸史料は<、逆に、>この唐軍は新羅内でのこの戦いや他の諸戦いに勝利したと主張している。)
https://en.wikipedia.org/wiki/Munmu_of_Silla (太田)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%B8%9D%E7%8E%8B%E4%B8%80%E8%A6%A7 ([]内)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E8%AC%B9%E8%A1%8C (<>内)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%BA%E9%9E%A8 (《》内)
と、またまた異なった内容でした。(注14)
 (注14)他方、文武王の邦語ウィキペディアは、「662年には唐から<開府儀同三司・上柱国・楽浪郡王・新羅王>に冊封された。」(直接的典拠抜き)としており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E6%AD%A6%E7%8E%8B
674年ではなく662年を、新羅の冊封体制入りの年としている。
 また、675の戦勝(戦敗?)への言及はなく、「676年11月には白江河口部の伎伐浦(忠清北道舒川郡長項)で唐軍に大打撃を与え、ついに唐の新羅征討と半島支配とをあきらめさせた」(直接的典拠抜き)(上掲)としている。
 要するに、朝鮮日報のこのコラムは、どうやら、お伽噺ないし白日夢とでも形容するしかない、新羅側の史料(?)だけに基づいて書かれているようです。
 そもそも、文武王の事績として、最も銘記されるべきは、7世紀後半に、朝鮮半島の韓民族の統一王朝が、初めて支那の冊封体制に下に置かれ、以後、その状態が、20世紀初頭まで続くことになった、という点なのに・・。(太田)
 (2)支那と朝鮮半島の関係に係る史実–元・明・清と高麗・李氏朝鮮
 朝鮮日報は、以上の3つのコラムでもって、李氏朝鮮・・より一般的には朝鮮人の歴代王朝・・と支那との関係を、琉球やベトナムの支那との関係と同じ、と主張しているわけですが、それは自己欺瞞以外の何物でもないことが既にお分かりいただけたのではないでしょうか。
 以下、このことを、主として高麗以降の支那・朝鮮半島関係の史実を踏まえて検証してみましょう。
 ここから、ようやく、本題に入る、というわけです。
 大変長らくお待たせしました。
 まず、既に少し触れてしまっていますが、「朝貢・冊封秩序」についての一般論を、改めて押さえておきましょう。↓
 「清と朝貢国は「属邦自主」の原則にあり、朝貢国の内政・外交を清が直接支配はしなかったが、属国と上国という上下の秩序にあり、朝鮮・琉球・ベトナム・タイ・ビルマ・ネパール・イスラム諸国の朝貢国の国王が清と主従関係を結んだ。・・・
 <ちなみに、>冊封により<支那の>王朝の臣下となった冊封国は原則的に毎年の朝貢の義務があるが、冊封を受けていない国でも朝貢自体は行うことが出来た。例えば遣唐使を送っていた当時の日本では日本側は「<支那>と対等貿易を行っていた」。<もっとも、支那>側は<恰好をつけて、>「遠国である事を鑑み、毎年の朝貢の義務を免じた」としている<ところだ>。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E8%B2%A2 
 繰り返しますが、ポイントは、清と李氏朝鮮との関係が、極めて特異な「朝貢・冊封秩序」であったことです。
 労力の節約上、明/清と琉球、明/清とベトナム、の2つの比較的標準的な「朝貢・冊封秩序」に絞って、それらを、清と李氏朝鮮のものと比較することにしましょう。
 最初に琉球です。
 支那と琉球の関係は、「1372年、建国間もない明の洪武帝の招きに応じて、琉球の三国が相次いで朝貢を行い、冊封を受けた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%89%E7%90%83%E8%B2%BF%E6%98%93
ことに始まり、「明に代わって<支那>本土を掌握した清も<統一を果たしていた>琉球国王に冊封を与え、福州に琉球館の設置を許した」(上掲)、という対等に近いものでした。
 具体的には、「<支那>皇帝による琉球国王の「冊封」は明代15回、清代に8回おこなわれている。本来「冊封」には、<支那>が使者を派遣して冊封する「頒封<(はんぷう)>」と被冊封国が<支那>に使者を送り国王に封ずる詔勅を受領する「領封<(りょうふう)>」があったが、琉球は一貫して<支那>が使者を派遣して冊封する「頒封」を受けている。
 <支那>から派遣された冊封使は、海上で風濤の危険そして海賊の襲撃にあうといった経験をして<おり、>渡海の経験のない文人使節らは危険な海を渡ることについて筆舌に尽くしがたいほどの恐怖にかられていた。」
http://www.museums.pref.okinawa.jp/museum/topics/detail.jsp?id=853
という次第であり、領封されていた李氏朝鮮とは大違いでした。
 「琉球<は、>ほかの朝貢国に比べ優遇されていた・・・。例えば、1474年までは貢期に制限がなく、年に数回朝貢することも許されていた(後に二年一貢に改められる)。・・・
 また、朝貢の際に必要な大型海船も無償支給され、1385~1540年ごろまで、その支給合計は30艘を超えた。・・・琉球のように長期間支給された例はほかにない。
  1位 朝鮮(高麗)………………95回 (←これは朝貢とは言い難い(後述))
  2位 琉球…………………………70回 
  3位 シャム(暹羅)……………46回 
  4位 ヴェトナム(安南)………35回 
  ・・・」
https://www.teikokushoin.co.jp/journals/history_world/pdf/201201/07_hswhbl_2012_01_p10_12.pdf
⇒琉球は、明や清の前の元の時に、日本本土と違って元寇を受ける、というようなこともなかったわけですから、現在の沖縄の人々が、支那・・大陸と言ってもよい・・に感謝の念こそあれ、脅威など感じるはずがないのは当然です。
 彼らに、中共の「脅威」などを訴えて、米軍を沖縄に駐留させる意義を理解させようとしても無理な算段である、というものです。(太田)
 明、清と琉球との関係がいかに対等なものであったか、というか、琉球にとって有利なものであったかは、下掲の史実からも見てとれます。
 「1609年<に>薩摩藩による琉球征伐・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%89%E7%90%83%E5%BE%81%E4%BC%90
が行われたところ、この「動きを知った明側は琉球の使節派遣を10年に1度に制約するなど頑なな態度を取っていたが、1634年には2年に1度に戻されている。また、明に代わって<支那>本土を掌握した清も琉球国王に冊封を与え、福州に琉球館の設置を許した。同じころ、鎖国政策を取っていた江戸幕府は・・・薩摩藩の琉球を介した貿易を容認する姿勢を示した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%89%E7%90%83%E8%B2%BF%E6%98%93
 つまり、明も清も、琉球が日本(の一藩)の、私の言うところの羈縻国である、ということを熟知の上で、なおかつ、東方の海上にまで、支那大陸の皇帝の徳を慕う東夷の王国がある、というフィクションを維持しようとした、というわけです。
 決して少なくない赤字と冊封使の生命の危険を甘受しつつ、です。
 次に、ベトナムです。
 「15世紀初頭に明はベトナムを<直轄領にし>ていたが(第四次北属時期)、1407年~1427年)、これに対し、<北ベトナム中>部の小首長黎利(ムオン族との説もある)が挙兵し<、>長期のゲリラ戦を経て明の勢力を国外へ放逐し、1428年に現在のハノイで皇帝に即位<し、>国号を「大越」とした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%8E%E6%9C%9D
 「ムオン族・・・はベトナムに住む少数民族である。・・・民族・言語的にはキン族(ベトナム族)と最も近いとされている。ムオン語はベトナム語とともにベト・ムオン語群としてまとめられる。同系のキン族が平野部に住み、<支那>文化の影響を非常に強く受けた(紀元前111年の漢による侵攻以後)のに対し、ムオン族は山岳部で固有の文化を発展させたといわれている。タイ族との相互影響も大きく、文化的にはタイ族に近い点も多い。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%82%AA%E3%83%B3%E6%97%8F
 「阮福暎は・・・<この>黎朝大越国(中興黎朝、後期黎朝:1532年~1789年)<の>・・・西山朝を打倒し<たが、自分の側から働きかけることによって、>・・・1804年には清の嘉慶帝から越南国王に封ぜられ、ベトナム国(越南国)を正式の国号とした・・・<こうして、清に>形式上従属したが、国内や周辺の諸民族・諸国に対しては皇帝を称し、独自の年号を使用し、「承天興運」を国是として、ベトナムに小中華帝国を築き上げた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%AE%E6%9C%9D
 
 つまり、清は、完全独立国である、ベトナム側の狙いが朝貢貿易の利だけであることを百も承知で、やはり、清の皇帝の徳を慕う南蛮の王国が現れた、というフィクションに、懐を痛めることを厭わずに積極的に乗った、というわけです。
 (強いて類似の例を求めれば、<室町幕府が、>朝貢貿易の利、すなわち、「1401年(応永8年)から1549(天文18年)まで、19回に渡って行われ」ることとなるところの、[関税はなく、<将軍>の使節やその随行者である商人の滞在費など、一切の費用は、明朝の負担で・・・朝貢品にたいしては、賜与という名目で、価格以上の代価が支払われたうえ、携えてきた物資の交易すらみとめられたから、一回の渡行で、元本の五,六倍の利益があったとされ<る>]>・・・勘合貿易・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%98%8E%E8%B2%BF%E6%98%93
http://www.y-history.net/appendix/wh0801-024_01.html ([]内)
の利、だけを求めたことがきっかけで、明が、完全独立国である日本の、しかも、首長たる天皇の最重要家臣に過ぎない、三代将軍の義満、六代将軍の義教、及び、八代将軍義政、を日本国王に任じ、義政以降の同幕府の歴代将軍達が自他共に日本国王と認識され続けた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E7%8E%8B
こと、が挙げられます。)
 最後に、琉球やベトナムに比して、極めて特異な、清と李氏朝鮮の関係です。
 (明と李氏朝鮮の関係は後述します。)↓
 「李氏朝鮮は、<できたばかりの清との戦争であったところの、>丙子<(へいし)>の乱<(Qing invasion of Joseon)>に敗北し、<明の冊封体制から離脱させられて、清>の冊封体制に組み込まれ<ただけでなく>、清国に対して、王の長子と次男、および大臣の子女を人質として送ること、城郭の増築や修理については、清国に事前に承諾を得ること、黄金100両・白銀1000両と20余種の物品を毎年上納すること、内外(清国)の諸臣と婚姻を結び、誼を固くすること、等とされた、1637年の三田渡<(さんでんと)>の盟約(注15)なる和議により初年度に黄金100両、白銀1000両の他、牛3000頭、馬3000頭など20項目余りの物品を献上したが、毎年朝貢品目は減った。
 (注15)さんでんとのめいやく。「1637年1月30日に李氏朝鮮の首都漢城の郊外三田渡<(Samjeondo)>で締結された。この記念に大清皇帝功徳碑が建てられた。
 李氏朝鮮は、初代国王である李成桂<(Yi Seong-gye)>が1393年に明の初代皇帝朱元璋から権知朝鮮国事に封ぜられて以降、一貫して明の属国であり続けたが、三田渡の盟約をもって、明の属国から清の属国へとかわった。・・・毎年上納される物品の量はその後減らされたものの、三田渡の盟約の大枠は1895年まで守られ続けた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%94%B0%E6%B8%A1%E3%81%AE%E7%9B%9F%E7%B4%84
 「<時の清の皇帝>ホンタイジ<(Hong Taiji)>は、自身の「徳」と<時の李氏朝鮮国王の>仁祖<(Injo)>の「過ち」、そして両者の盟約を示す碑文を満州語・モンゴル語・漢語で石碑に刻ませ、1639年に降伏の地である三田渡に建立させた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B8%85%E7%9A%87%E5%B8%9D%E5%8A%9F%E5%BE%B3%E7%A2%91
 <なお、この>・・・和議の10ヵ月後には、<李氏朝鮮から、>婚姻のため8歳から12歳の6人の女を送ったり、その翌年には10人の侍女を送った記録があるが、これらの婚姻は<清によって>取り消されている。
 <とまれ、>清の冊封体制に組み込まれた朝鮮は、清からの勅使派遣を迎え入れるために迎恩門を建てた。清からの勅使は1637年から1881年までの244年間に161回に及び、そのたびごとに朝鮮国王は迎恩門に至り、三跪九叩頭の礼<(kowtow)(注16)>により迎えた後、慕華館での接待を余儀なくされた。
 (注16)但し、「琉球王朝<でも、回数こそはるかに少なかったが、明、清>からの勅使に対し、王が・・・<迎恩門ならぬ>守礼門・・・に出向き、・・・三跪九叩頭の礼で迎えていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%B7%AA%E4%B9%9D%E5%8F%A9%E9%A0%AD%E3%81%AE%E7%A4%BC
 恐らく、ベトナム等においても同じであったと思われる。
 逆に朝鮮から清への朝貢使(朝鮮燕行使)は500回以上にも及んでおり(当初は毎年4回、1644年以降は年1回)、これは当時の清の冊封を受けていた琉球(2年に1回)、タイ(3年に1回)、ベトナム(4年に1回)などと比べても突出して多いものであった。このような清と朝鮮の冊封関係は、日本と清による日清戦争で日本が勝利し、下関条約で日本が清に李氏朝鮮の独立を認めさせる1895年まで、約250年間続いた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%99%E5%AD%90%E3%81%AE%E4%B9%B1
 つまり、李氏朝鮮は、清との戦争に敗北し、清の内地に編入されても文句は言えなかったところを、賠償金や物品や人を提供すること等を義務付けられたところの、外交内政の干渉を受ける羈縻州、但し、部族長達が王号ないしそれ相当の称号が許された、羈縻州たる、南北モンゴル・東トルキスタン・チベット(藩部)とは違って、理藩院の管轄
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85 参照
ではないところの、特殊な羈縻州たる、私の言うところの羈縻国、にされた、ということです。
 このような、清と李氏朝鮮との関係は、明/清と琉球、や、明/清とベトナム、との関係とは、全く似ても似つかないものだった、と言うべきでしょう。
 そうなると、そもそも、どうして、清は、単純明快に、李氏朝鮮を内地化するか、併合した上で、モンゴル等と同じ形の羈縻州化しなかったのか、という疑問が沸いてきませんか?
 この疑問を解く鍵は、私見では、下掲の史実にあります。↓
 「丙子の乱/三田渡の盟約の前年の「1636年に女真族、モンゴル人、漢人の代表が瀋陽に集まり大会議を開き、<後金のホンタイジは、>そこで元の末裔であるモンゴルのリンダン・ハーンの遺子から元の玉璽・・・を譲られ、皇帝として即位<した。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85
 だからこそ、三田渡の盟約に基づく大清皇帝功徳碑も満州語・モンゴル語・漢語で刻まれた(前出)のです。
 これは。単なる名目ではなく、爾後、現実に、清の帝室の血のモンゴル化、が図られています。↓
 「ホンタイジが<清の>皇帝に即位して立てた后妃<は>いずれもモンゴル族出身<だった>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%82%B8
 ホンタイジの息子の3代皇帝順治帝の生母もモンゴル人だった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E8%8D%98%E6%96%87%E7%9A%87%E5%90%8E
 そうなると、その、モンゴルが、過去のその最盛期に、朝鮮半島をどのように扱っていたのか、が気になってきます。
 それは、以下の通りです。↓
 「高麗・・・に対して、モンゴル帝国<は>1231年から1273年にわたり<、>繰り返し・・・侵攻<を行い、そ>・・・の間、主要な戦い<だけで>6度<あって>、高麗の国土は荒廃した<ところ、>その後約80年間にわたり高麗はモンゴル/元朝の支配下に置かれることとなる。・・・
 <その高麗について、元においては、>1287年以降は、政治・軍事に加え行政も征東行省<(注17)>によって処理されるようになり、高官以下行政官の人事権も征東行省が握り、賦税も元の朝廷へ収めるよう変更されるなど、旧高麗は直接統治下(<但し、>羈縻<(きび=Jimi)(注18)>支配体制であり、他の行省<(注19)>ほど集権的ではなく、一定の自治権を残していたと考えられている)に組み込まれていった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%AB%E3%81%AE%E9%AB%98%E9%BA%97%E4%BE%B5%E6%94%BB 
 (注17)征東等処行中書省。「1280年に日本に対する侵攻(元寇)目的で設置された征東等処行中書省は、属国の高麗と直轄領の遼東を管轄し、侵攻の準備と徴発を担当した。翌1281年の侵攻(弘安の役)が終わると征東等処行中書省は解散されるが、クビライの再遠征計画に従って1287年に再設置され、元の高官が長官の右丞相、高麗王が次官の左丞相に任命される。その後、3度目となる日本への侵攻はついに行われなかったが、征東等処行中書省は常設組織となり、高麗地区を直接統治する機関となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E6%9D%B1%E7%AD%89%E5%87%A6%E8%A1%8C%E4%B8%AD%E6%9B%B8%E7%9C%81
 (注18)ここで、遅ればせながら、簡単に羈縻の説明をしておく。
 覊縻とは、<間接支配であって、支那>に・・・友好的な国王・首長を選び、都督・刺史・県令などに任じ、彼らがもともと有していた統治権を<支那>の政治構造における官吏であるという名目で行使させたものであ<って、>・・・冊封と直接支配<(内地化)>の中間<形態である。>・・・このような羈縻政策が適用された地域を羈縻州という。したがって羈縻州の長官は<支那>に対しては一地方官吏であり、部族内部から見れば王または首長であった。・・・<ちなみに、>羈縻の羈は馬の手綱、縻は牛の鼻綱のことをさす。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%88%E7%B8%BB%E6%94%BF%E7%AD%96
 (注19)行中書省。「元が中国の地方統治の最高単位として設置した行政機関。・・・現在の<支那>における地方行政の最高単位である省は、元の行省に由来している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%8C%E4%B8%AD%E6%9B%B8%E7%9C%81
 但し、済州島だけは、元の直轄領とされ、馬牧場が設けられ、モンゴル人も移住しました。
 それは、同島が高麗、というか、朝鮮半島の王朝、の領土となったのは、1105年にもなってからであったこと、そして、元の高麗侵攻に抵抗した勢力が最後まで同島に立てこもったこと、によります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%88%E5%B7%9E%E5%B3%B6 
 補足しておきましょう。↓
 「イルハン朝<(注20)>で編纂された『集史』<(注21)>には「(高麗王)はクビライに寵愛され王と称してはいたが、実際には王では無かった」とある。・・・
 (注20)Ilkhanate。「現在のイランを中心に、<東は>アムダリヤ川から<西は>イラク、アナトリア東部までを支配したモンゴル帝国を構成する地方政権(1256年/1258年 – 1335年/1353年)。首都はタブリーズ。・・・この政権の建設者<は、>チンギス・カンの孫フレグ」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%8F%E3%83%B3%E6%9C%9D
 (注21)「イルハン朝の第7代君主ガザン・ハンの勅命(ヤルリグ)によってその宰相であったラシードゥッディーンを中心に編纂された歴史書である。イラン・イスラム世界、さらに言えば・・・モンゴル帝国の発祥と発展を記した記録・・・である。・・・編纂事業については、ガザン自身の口述の他に『黄金の秘冊(アルタン・デプテル)』と称されたモンゴル王家秘蔵の歴史書の閲覧を許可され、イルハン朝領内を中心にモンゴル諸部族集団で保持されていた伝承・旧辞・金言・系譜などに加え、中国やインド、フランクなどの様々な地域の知識人たちを動員して編纂が進められた。1304年にガザンが没したため彼は完成を見る事は無かったが、1307年にモンゴル帝国史の部分は完成し、『ガザンの祝福されたる歴史・・・』と名付けられ、ガザンの弟でその後継者となったオルジェイトゥに献呈された。ガザンの政策を受継いだオルジェイトゥは、引き続きモンゴル帝国と関わった世界各地の歴史を網羅するようこれらの種族の歴史も追加編纂するように命じ、1314年に完成して『集史(Jāmi` al-Tawārīkh)』と名付けられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%86%E5%8F%B2
 第1・2次の征東行省において高麗国王は次官(長官は右丞相の<モンゴル人等>)となった、第3次では無官となるが忠烈王<が>復位した際に再び左丞相に任じられた。
 ・・・<この間の、>約80年間、歴代国王は世子の時期にモンゴル宮廷に人質(トルカク)として赴き、・・・歴代モンゴル皇帝近辺での職務に従事し、これによってモンゴル名を与えられ、またモンゴル貴人の娘を娶り、前王が逝去した後に帰国し、高麗王に就くのが慣例となる。・・・
 <その後、元が衰退し、>1356年に元から高麗旧領土を奪い返<すと共に、>モンゴル支配から脱して独立した。・・・<しかし、>同時期に倭寇の襲来にも高麗は悩まされており、1389年には・・・対馬征伐を行なっている・・・。
 この過程で力を得た李成桂によって1392年に李氏朝鮮が成立し、高麗王朝は滅亡した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%AB%E3%81%AE%E9%AB%98%E9%BA%97%E4%BE%B5%E6%94%BB 前掲
 以上から、元の高麗支配は、高麗王が行中書省の長官に任命されないどころか、次官にすら任命されないことがあったというのですから、(何代にも続いた強制婚姻によって事実上モンゴル人化させられた、)高麗のいわば部族長に対し、「王」という、殆ど実権が伴わない名誉称号が与えられていたに過ぎない、名ばかりの羈縻州であるところの内地であった、と言ってよさそうですね。
 どうして、元が、高麗を、名ばかりとはいえ、一応、羈縻州にしたのか、まで解明するのは止めておきますが、私のとりあえずの仮説は、世子人質制とと世子モンゴル皇室人降嫁制によって、時間はかかるけれど高麗王家の完全モンゴル皇室化が達成できると考えたのであろう、というものです。
 とまれ、私見では、清は、再興した元でもある、という立場から、元が高麗を征服したのと同様、自身も李氏朝鮮を征服した、ということもあって、元の時の先例を意識しつつ、それよりも、若干朝鮮半島側に優しい、私の言うところの、羈縻国という形で、李氏朝鮮支配を行うこととしたのです。
 この際、元と清の間の、明の李氏朝鮮支配がどのようなものであったかについても、ついでに振り返っておきましょう。
 それは、以下の通りです。↓
 「1368年に明が<支那>に興り、元を北に追いやる(<・・元の>北元<化・・>)と、1370年に高麗は明へ朝貢して冊封を受けたが、国内では親明派と親元派の抗争が起こった。
 この間に倭寇や元との戦いで功績をあげ、台頭していた武人李成桂(女真族ともいわれる)は、1388年にクーデター・・・を起こして政権を掌握し、1389年に恭譲王を擁立すると、親明派官僚の支持を受けて体制を固め、1392年に恭譲王を廃して自ら国王に即位し、朝鮮王朝(李氏朝鮮)を興す。ここに高麗は建国474年で滅びた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%BA%97
 「李は高麗王として即位後、明へ権知高麗国事と称して使者を送り、権知高麗国事としての地位を認めてもらう。権知高麗国事を正式に名乗ったが、「知」「事」が高麗を囲んでおり、「権」は日本の権大納言・権中納言と同じで「副」「仮」という意味であり、権知高麗国事とは、仮に高麗の政治を取り仕切る人という意味である。このように李成桂は、事実上の王でありながら、権知高麗国事を名乗り朝鮮を治めるが、それは朝鮮王は代々<支那>との朝貢により、王(という称号)が与えられたため、高麗が宋と元から王に認めてもらったように、李成桂も明から王に認めてもらうことにより、正式に朝鮮王朝になろうとする。小島毅<(注22)>は、「勝手に自分で名乗れない」「明の機嫌を損ねないように、まずは自分が高麗国を仮に治めていますよというスタンスを取り、それから朝貢を行い、やがて朝鮮国王として認めてもらいました」と評している。
 (注22)1962年~。東大文(中国哲学)卒、同院修士、同東洋文化研、徳島大を経て、東大助教授、准教授、教授。「儒教史、陽明学、東アジア王権論などを研究する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B3%B6%E6%AF%85
 明より王朝交代に伴う国号変更の要請を受けた事をきっかけに家臣の中から国号を変えようとする動きが活発化し、李成桂もそれを受け入れた。しかし李成桂は明に対して高麗王の<二人>を殺し、恭譲王を廃位して都から追い出した負い目があり、明へ国号変更の使者を出した際、自分の出身地である「和寧」と過去の王朝の国号である「朝鮮」の2つの国号の案を明に出して恭順の意を表した。翌年の1393年2月、明は李成桂の意向を受け入れ、李成桂を権知朝鮮国事(朝鮮王代理)に冊封して国号が朝鮮国と決まった。朝鮮は李成桂が新たな国号の本命として考えていたものであり、この結果は彼にとって満足の行くものであった。しかし明は李成桂が勝手に明が冊封した高麗王を廃位して代わりの王を即位させたり、最後には勝手に自ら王に即位して王朝交代したことを快く思わず、李成桂は朝鮮王としては冊封されずに、権知朝鮮国事のみが認められた。
 明と朝鮮の関係は、宗主国と属国、君臣父子の関係であり、李氏朝鮮は中華の分身の小中華・東方礼儀の国と自称して、事大とは君臣父子の礼をもって宗主国の明に仕える関係に立って<支那>と事大外交を繰り広げた。そこでは事大・属国とは征服・植民地とは異なり、道徳的・観念的なものであり汚らわしいものではないと<いうのが、李氏朝鮮側のタテマエだった>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E6%B0%8F%E6%9C%9D%E9%AE%AE#.E8.A6.AA.E6.98.8E.E6.94.BF.E7.AD.96 前出
 (最初の方で紹介した陸奥宗光の支那・朝鮮半島関係についての言は、ウィキペディア上掲で、このくだりの後で引用されていますが、私は、それが、明と李氏朝鮮の関係ではなく、清と李氏朝鮮の関係についての言であったのだろう、と思っています。)
 で、話を続けますが、元を北方に駆逐して支那本土の全国支配を確立した、明の洪武帝は、四囲の情勢(注23)に鑑み、内政に力を注がざるをえなかったことが幸いし、高麗にせよ、それにとって代わった李氏朝鮮にせよ、明の洪武帝の侵攻を受けなかったどころか、軍事的圧力を受けることさえ免れ、結果として、属国より若干隷属的ではあっても、羈縻国などとは到底言えない地位を確保することができたわけです。
 (注23)「恵宗崩御の段階では元朝はモンゴル高原を中心に勢力を維持し、東は日本海から西はアルタイ山脈まで支配下に置き、さらに甘粛や雲南にも明朝に反対するモンゴル系勢力が存在し、明朝による<支那>支配は不安定なものであった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%B4%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%86%E3%83%A0%E3%83%AB
 洪武帝は、「外征を抑え、・・・内政の安定に力を注いだ」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E
 どうして、属国よりも若干隷属的になったかと言えば、李成桂の明に対する卑屈な姿勢に象徴されているように、朝鮮半島側が、元の時代の支那の内地意識を引きずっていて、自ら隷属的にふるまったからでしょう。
 問題は、初代の洪武帝や二代目の建文帝の後を継いだところの、靖難の変(1399~1402年)で建文帝から帝位を簒奪した、(洪武帝の子で建文帝の叔父である、)三代目の永楽帝が、「1421年には北平<(現在の北京)>へ遷都<するという、表見的には北方重視の姿勢を見せ、かつ、>・・・対外遠征や朝貢体制の確立に努め」、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%96%E9%9B%A3%E3%81%AE%E5%A4%89
「南のベトナムに対して<は>・・・遠征軍を送り・・・直轄とし」、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E
かつ、「満州に対しても遠征軍を送り、この地を支配下に置<いたにもかかわらず、その>一方で同じく女真支配を画策していた李氏朝鮮に<に対しては、>圧力を加えてその北進を禁じ<るに留め>」、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E
李氏朝鮮を内地化または羈縻州化、もしくは羈縻国化しようとはしなかったのは、どうしてかです。
 その答えは、「永楽帝<が>建文帝を「革除」(存在を歴史から抹殺)しようと試みた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E6%A5%BD%E5%B8%9D
、つまりは、自分は洪武帝から直接、帝位を承継した、というタテマエをとったところにある、と私は見ています。
 そうであるとすれば、洪武帝が既に確立していた、東夷と北狄との関係、すなわち、東夷たる、李氏朝鮮、及び、琉球、との関係を踏襲・維持してみせることに大いに意味があったはずだからです。
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[文禄・慶長の役(1592~98年]
 唐突だと思われることだろうが、ここで、表記に触れておく。
 朝鮮半島の民衆に侵攻日本軍に対する敵意は殆どなかったことと、秀吉が慶長の役の最中に亡くなっていなければ、彼の目論見通り、朝鮮半島はもちろん、明、すなわち、支那、も征服できていた可能性が大であったことを銘記すべきだろう。↓
 「<文禄・慶長の役は、>16世紀における世界最大規模の戦争<だった。>・・・
 ルイス・フロイス<は>、朝鮮の民は「恐怖も不安も感じずに、自ら進んで親切に誠意をもって兵士らに食物を配布し、手真似で何か必要なものはないかと訊ねる有様で、日本人の方が面食らっていた」と記録している。・・・
 『明史<(The History of the Ming)>』は「豊臣秀吉による朝鮮出兵が開始されて以来7年、(明では)十万の将兵を喪失し、百万の兵糧を労費するも、中朝(明)と属国(朝鮮)に勝算は無く、ただ関白(豊臣秀吉)が死去するに至り乱禍は終息した。」と総評する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E7%A6%84%E3%83%BB%E6%85%B6%E9%95%B7%E3%81%AE%E5%BD%B9
 ちなみに、この明史だが、「清代には趙翼が「遼史は簡略であり、宋史は雑で量が多い、元史はぞんざいであり、金史のみ優雅さや簡潔さがありやや見るべきところがあるが、明史には及ばない」と述べている。また、趙翼の友人であった銭大昕も<、明史は>「公平であり、よく考えられ大事な点は詳細に述べてあり、いまだこれほどの正史はない」と評価している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E5%8F%B2
 従って、明史の文禄・慶長の役についての総括は、正鵠を射ている、と受け止めてよかろう。
 ところが、英語のウィキペディア
https://en.wikipedia.org/wiki/Japanese_invasions_of_Korea_(1592%E2%80%9398) 前掲
には、一、義兵軍(civilian-led Righteous Armies)が南部で活躍したことが、李舜臣率いる朝鮮海軍の活躍と共に秀吉の野望を挫いた最も重要な要素の一つ、という記述が出てくるところ、前者についての具体的説明には説得力が乏しい、二、『明史』が3度引用されているが、上出の箇所の引用はない、といった具合に、日英のウィキペディアの見方は大きく食い違っている。
 そもそも、日本語ウィキペディアは、英米人の著作の参照は2冊、他方、英語ウィキペディアは、日本人の著作は、英語で出版されたもの1冊のみ、という点に象徴されているように、参照書が、全くと言ってよいほどオーバーラップしていない。
 とまれ、私の結論は、「秀吉が<亡くならず、もともと、彼が>慶長4年(1599年)にも・・・計画していた・・・大規模な軍事行動」・・これも英語ウィキペディアには言及がない・・が実行されておれば、日本による、朝鮮と明の征服がなされていた可能性が大だった、というものだ。
 明が滅びるのは1644年だが、文禄・慶長の役の時の、明の皇帝万暦帝(1563~1620年。皇帝:1572~1620年)は暗愚で悪政を行い、あの「『明史』<が>「明朝は万暦に滅ぶ」と評している」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E6%9A%A6%E5%B8%9D
ほどだからだ。
蛇足:1644年に明を滅ぼした清の人口は、当時の明の人口(少なく見積もって1億2000万)と現在の中共の人口(13.7億)比約10倍と、現在の満州族の人口(1000万)から、100万、という、乱暴な推計も可能。他方、当時の日本の人口は、少なく見積もって1200万人もあったことも想起せよ。
http://heartland.geocities.jp/zae06141/china_population2.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E4%BA%BA%E6%B0%91%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD
https://en.wikipedia.org/wiki/Manchu_people
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88
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 (3)まとめ
 NYタイムスのコラム↓
https://www.nytimes.com/2017/06/30/opinion/china-hong-kong-xi-jinping.html?action=click&pgtype=Homepage&version=Moth-Visible&moduleDetail=inside-nyt-region-1&module=inside-nyt-region&region=inside-nyt-region&WT.nav=inside-nyt-region
(7月1日アクセス)のさわりをご紹介しがてら、羈縻についての補足説明をしてから、本日の話をまとめたいと思います。
 「・・・南部地域の嶺南(Lingna)が支那圏の統制下に入ったのは、紀元前3世紀に、秦朝の始皇帝による一連の暴虐的軍事諸戦役の後のことだった。
 しかし、蛮人達を統治するのは容易ではなかった。
 そこで、7世紀から10世紀にかけて、唐朝の諸皇帝達は、これらの諸地を、一種非公式な見返り(quid pro quo)に頼ることで管理するのが最善であると考えた。
 少数民族の諸部族の長老達が、支那の当局にお辞儀する代わりに、地方統治者達たることを演ずるにあたって、支那の支援を得る、というわけだ。
 これは羈縻・・・と呼ばれた。
 この措置は、元朝の下で14世紀に公式なものにされた。
 近代支那の南西部で、部族の長老達は土司(tusi)<(注24)>という新称号を与えられた。
 (注24)「土司は、元代以降、<支那>と直接境界を接する諸民族において、ある民族が一国を形成しないまま、分立する各地の支配者が個別に<支那>王朝と交際する場合に、州・県の知事職や、衛所制にそった軍事指揮官の称号を受けた者たちを指す。清においては、さらにこれらを区分し、軍事指揮官の称号を受けた者たちを土司・・・、州・県の知事職を受けた者たちを土官と呼ぶ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%8F%B8 (土司・士官)
https://en.wikipedia.org/wiki/Tusi
 それは、文字通りには、地の領主達(lords)であり、支那の官僚機構によって認められたところの、公式の、かつ、代々継承しうる、地位だった。
 それは、皇帝に従い、彼に貢を支払う義務を伴った。
 しかし、土司が統治する諸地方は、その、他とは異なった、伝統的な社会政治的諸制度(structures)を維持することが許された。
 これこそ、事実上、トウ小平の「一国二制度(one country, two systems)」原則<・・香港、マカオに適用された・・>の原型だったのだ。・・・
 何世紀も経過するにつれて、帝国の中心はより強力になり、その直接統治を拡大し、地方の土司を、流官(liuguan)<・・頻繁に異動させられる官吏達・・>として知られた、自らの官吏達でもって置き換え始めた。<(注25)>
 (注25)改土帰流。「<清の>雍正<帝>期における特に1726年から1731年までの間、反乱したり、法を犯したり、後継者が欠如したりした「土司・土官」あるいは、土地を返上したりする「土司・土官」は、次々に廃止された。乾隆期になり、貴州省の・・・ミャオ族に対して<も>・・・「改土帰流」<が行なわれた後>、四川省西部のチベット族・・・に対しても適用されるようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%B9%E5%9C%9F%E5%B8%B0%E6%B5%81
 この置き換えプロセスは、しばしば長くかかり、多くの土司は、権力を流官と分かち合い、第一バイオリンを暫時演奏し、次いで第二を演奏した。
 公式の土司制度は、雍正帝(Emperor Yongzheng)の下での、血腥い従属させる戦役の後、終焉した。
 しかし、この慣行の諸痕跡は長く残り<(注26)>、今日においても幾許かは残っているのだ。」
 (注26)「中華民国時代の北洋政府は、清朝から内外モンゴルの王公たちに与えた名義と特権をそのまま維持させるとともに、チベットの「ダライ・ラマ」の称号なども承継させる<こと>とした。南西部の少数民族地域においては、徐々に「改土帰流」を進めたが、1923年にいたっても、甘粛省、四川省、西康省、広西省、貴州省、雲南省などの地域にまだ488人の「土司」が残っていた。」(上掲)
 上記も踏まえて、本日の話全体をまとめると、次のような感じでしょうか。
 清は、李氏朝鮮軍を撃破し、朝鮮半島を軍事占領下に置いた時点で、朝鮮半島の歴史が支那史の一環であることに加え、朝鮮半島の歴代王朝史が漢人史の一環であることから、同半島を内地化することができたにもかかわらず、李氏朝鮮について、(部族長たる土司に「ダライ・ラマ」や「王」の称号保持を認める「特権的}な羈縻州・・中共当局が言うところの「一国二制度適用地域」・・となったチベットや内外モンゴルと同じ扱いにすらせず、)元の先例に則り、(太田の言うところの)羈縻国とし、部族長たる土司に朝鮮国王の称号保持を認め、かつ、その後、(チベットや内外モンゴルと同じく、)改土帰流の対象から除外することとした。
 しかし、清は、19世紀末になって、遅ればせながら、対露安全保障の観点から、チベットや内モンゴルはもとより、ロシアと大幅に接壌していた外モンゴルにすら先駆けて、甲申政変(1884年)を契機に、この方針を転換し、李氏朝鮮を改土帰流の対象にしたものの、1894~95年の日清戦争での敗北によって、改土帰流の中断に追い込まれたまま、つい最近まで推移していた。
 その間、チベットと内モンゴルは内地化できたが、外モンゴルと朝鮮半島については、(それぞれ、ロシア保護領、日本領時代を経て)独立を許してしまっていた。
 中共当局は、(恐らくは、これも、毛沢東の遺訓を踏まえたトウ小平(1904~97年)の指示に基づき、)このうち朝鮮半島について、主として対米抑止、副次的には対露抑止、の観点から(?)、改土帰流の再開を図ることとし、外モンゴルをその対象から(当面?)除く理屈を構築するため、1996年に、朝鮮半島史を外モンゴル史同様支那史の一環としつつも、朝鮮半島史だけは漢人史の一環でもある、ことを「確認」し、「理論化」するのが目的であるところの、「学術研究」たる、東北工程<(注27)>、への着手を決定し、その「成果」を2000年から逐次公開した上で、習近平政権に至って、ついに、中共当局にかかる戦略的意図があることを事実上表明し始めた。
 (注27)「中国社会科学院にお<ける>・・・「東北辺疆歴史与現状系列研究工程」の略称・・・2002年から研究が本格的に開始され、2003年頃に高句麗や渤海は「古代<支那>にいた少数民族であるツングース系の夫余人の一部が興した政権」であり、「高句麗が<支那>の一部であり自国の地方政権である」との<中共>見解が<中共>国外に知れ渡ることになった。また2007年には百済や新羅も同様に「<支那>史の一部」との<中共>見解が伝えられた。<なお、中共>国内における高句麗遺跡の調査および整備が行われ、広開土王碑と将軍塚の世界遺産への推薦を行い、2004年<に>・・・高句麗前期の都城と古墳が世界遺産に登録され<ている>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%8C%97%E5%B7%A5%E7%A8%8B
 現在は、南北両朝鮮それぞれに対して、羈縻国化政策が推進されている段階であり、北朝鮮に関しては、経済面と核関連技術面で中共に隷属状態に陥っており(コラム#9200等)、中共当局の「指示」の下、その、「日本再軍備/「独立」」戦略の走狗としての役割を演じさせられているし、南朝鮮(韓国)に関しては、対支事大意識が、1987年の民主化宣言以降の民主化の進展、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%91%E4%B8%BB%E5%8C%96%E5%AE%A3%E8%A8%80
及び、1992年の中共との国交樹立
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%9F%93%E6%B0%91%E5%9B%BD%E3%81%AE%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E9%96%A2%E4%BF%82
以降の経済交流等の活発化、に伴い、(朴槿恵前韓国大統領の媚中外交に表れているように、)反日親中の形で復活強化してきており、習近平が、その程度を検証するために発動したとしか考えられないところの、理不尽極まりない、THAAD配備に対する経済制裁、に対して、韓国内で碌な抗議運動が起きておらず、トランプに対する習発言についても、朝鮮日報が冒頭掲げたような3つの出来悪のコラムだけを掲げてお茶を濁していることからみても、この政策は順調に進捗してきている、と言ってよかろう。
 目も当てられないのは米トランプ政権だ。
 第一回目の習・トランプ会談の際に、習が、「<朝鮮半島>は実際<のところ、支那>の一部だった」発言をしたのは、朝鮮半島内の問題は、歴史的経緯に鑑み、事実上支那の内政問題であって、支那の「国内」である北朝鮮の核問題を米国が心配するのは僭越だし、そもそも、どうして、同じく支那の「国内」である韓国に米軍を駐留させているのか、と啖呵を切ったものであることに、トランプが全く気付いていないどころか、トランプ自身にはそんなつもりは毛頭なかったとしても、トランプが、この会談の席上、北朝鮮の核問題の解決を習に依頼したのは、この習の啖呵の論理に乗っかってしまった形だからだ。
(第I部 完)
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太田述正コラム#9203(2017.7.8)
<2017.7.8東京オフ会次第>
→非公開