太田述正コラム#9033(2017.4.14)
<ナチが模範と仰いだ米国(その6)>(2017.7.29公開)
 ・・・「西暦1,000年台以降の1000年の諸国家の、[第一次世界]大戦までの歴史の中で最も重要な出来事は、米国の建国だった」、と、あるナチの歴史学者は1934年に記している。
 「世界支配(domination)を目指すアーリア人達の闘争は、こうして最強の支柱(prop)を得た」、と。
 もう一人のドイツ人著述家は、二年後にこの点を敷衍してこう述べている。
 独立戦争後の全球的舞台上における、米国のリーダーシップなくしては、「白人種の意識的統合は決して出現することはなかったことだろう」、と。・・・
 100年前の米国のベストセラー著述家達の中で、マディソン・グラント(Madison Grant)<(注10)>とロスロップ・ストッダード(Lothrop Stoddard)<(注11)>による、白人至上主義的にして優生学的諸著述は、翻訳されてヒットラーの取り巻き達の中で人口に膾炙した(circulated・・・in the milieu that spawned Hitler)。
 (注10)1865~1937年。コロンビア大ロースクール卒。生涯独身。優生学的、自然保護的な法活動を行い、前者に関しては、移民制限と異人種間婚姻禁止に尽力した。
https://en.wikipedia.org/wiki/Madison_Grant
 (注11)1883~1950年。ハーヴァード大卒、ボストン大ロースクール卒、ハーヴァード大で博士号(歴史)取得。有色人種の白人の文明に対する脅威について盛んに文筆活動を行った。
https://en.wikipedia.org/wiki/Lothrop_Stoddard
 (まことにもって奇妙なことに、私は、ハンナ・アーレント(Hannah Arendt)<(コラム#1996、3599、3617、3737、4422、4832、4873、5287、5297、5301、5648.5679.5681、5683、6317、7148.7159、8743、8796)>が、『全体主義の起源(Origins of Totalitarianism)』<(コラム#1996、2766、3247、4422、4873、5297、5301)>の中で、グラントやストッダードに言及した記憶がない。)
 人気があったナチの雑誌は、<黒人に対する>リンチが、「外国の人種が優勢になろうとしているのに対する民族(Volk)による自然な抵抗」である、と称えた。
 欧州からの米国訪問者達は、KKK、と、茶シャツ隊(Brownshirts)のようなファシストたる武装諸集団(paramilitary groups)、の類似性に気付き、米南部における<南北戦争後の>再建期の秩序をナチ体制と比較したものだ。
 しかし、ジャーナリスティックなアナロジーや当時のプロパガンダ的な諸論点列挙(talking points)は、実に騒々しくはあっても、ナチの人種法に対する米国の影響がどれほど深かったかを伝えてはいない。
 この影響についての<著者の>主張は、ごく最近の研究者達が、ナチによるジムクロウ体制の諸参照は「殆どなかったし束の間のものだった」のであり、米国の人種分離諸法はニュルンベルク諸法に殆どないし全く影響を与えていない、と主張しているところの、潮流とは反対だ。
 (1935年のニュルンベルク決起集会(rally)<(注12)>において、ナチ達は、市民資格は、「ドイツの血、ないしはそれと人種的に親戚関係にある血」に限られると宣言し、ユダヤ人達とドイツ市民達の結婚ないし性的諸関係を非合法化した。)
 (注12)「ナチ党<は、>1923年から1938年にかけて・・・党大会<を行ったが、>1933年のナチ党の権力掌握以来、一貫してニュルンベルクで党大会が開催されていたため、ニュルンベルク党大会と呼ばれることが多い。ニュルンベルクでの党大会は、ドイツ民族とナチ党の結合を象徴させるための一大プロパガンダとして毎年9月初めに開催されていた。・・・<1935年の>第七回党大会は・・・9月10日から16日にかけて・・・開催され・・・この党大会中の9月13日に<ヒッ>トラーはユダヤ人から公民権を奪う法律を急遽作成するよう内務省に命じ、2日後の9月15日にニュルンベルクに緊急招集した国会でいわゆる「ニュルンベルク法」として可決され、ユダヤ人の市民権を完全にはく奪した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%81%E5%85%9A%E5%85%9A%E5%A4%A7%E4%BC%9A
 確かに、ナチ達は米国の人種分離への注意を喚起したが・・という具合に著者の議論は勧められる・・、それは、<ナチス>ドイツの政策に対する批判をかわすためだった、というのだ。
 この<主張の>間違いは、著者が見るところ、米最高裁のプレッシー対ファーガソン(Plessy v. Ferguson)判決<(注13)>を、米国の人種的抑圧の、主要な、ないし、典型的な、法的構成部分であるとし、それだけをナチの法学者達がドイツの政策を再形成するにあたって参考にしたはずだ、と受け止める(treat)ことから来ている。
 (注13)「「分離すれど平等」の主義のもと、公共施設(特に鉄道)での黒人分離は人種差別に当たらないとし、これを合憲とした<米>国<の最高裁>の<判決>。・・・1896年5月18日に下された。・・・「分離すれど平等」の主義は、後に1954年のブラウン対教育委員会<判決>で最終的に否定されるまで、<米国>の標準的な主義として残った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%BC%E5%AF%BE%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%82%AC%E3%82%BD%E3%83%B3%E8%A3%81%E5%88%A4
 そうではないのであって、著者によれば、19世紀、及び、20世紀の多く、における「米国の人種法」は、技術的に異なった法的諸分野の広範な部分・・インディアン法、反支那系人及び反日系人法制、及び、市民手続き及び選挙法…、連邦レベルにおける移民及び帰化法もそうだが、とりわけ顕著に目立ったところの、州レベルにおける反異人種間婚諸法・・に浸透していた(sprawled over)のだ。
(続く)