太田述正コラム#9109(2017.5.22)
<二つのドイツ(その7)>(2017.9.5公開)
 しかし、だから、ドイツ東部(と北部の一部)だけがルター派化した、とは言えそうもないのだ。
 同じザクセン人たる、ザクセン公ゲオルグ(George。1471~1539年)のように、ドイツ農民戦争(後述)の時には、彼の従兄弟でルター庇護者のザクセン選帝侯フリードリヒや、彼の義理の息子でルター派のヘッセン方伯(Landgrave・・公爵相当)フィリップ1世(Philip。1504~1567年)と共に農民戦争で農民側と戦いつつも、反ルター派の旗手として、その姿勢を堅持した人物もいた。
https://en.wikipedia.org/wiki/George,_Duke_of_Saxony
 また、同じく、ドイツ東部のブランデンブルク選帝侯ヨアヒム2世 (Jochim。1505~1571年)に関してだが、「1524年にザクセン公ゲオルクの娘・・・と結婚し、・・・1535年に<カトリックの>ポーランド王ジグムント1世の娘で先妻の従妹・・・と再婚し」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%82%A2%E3%83%92%E3%83%A02%E4%B8%96_(%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%AF%E9%81%B8%E5%B8%9D%E4%BE%AF)
たことと、皇帝のカール5世と同盟関係にあったこともあり、ルター派への改宗は1555年に至るまで、ゆっくりと進められた。
https://en.wikipedia.org/wiki/Joachim_II_Hector,_Elector_of_Brandenburg
 東部(と北部の一部)ならぬ、ドイツ中部では、(上出の)フィリップが、ヘッセン方伯領で上から教会のルター派化を推し進めた。
https://en.wikipedia.org/wiki/Philip_I,_Landgrave_of_Hesse
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%83%E3%82%BB%E3%83%B3%E5%AE%B6
 そして、ドイツ南部では、バイエルン公ヴィルヘルム4世(William。1493~1550年)が、当初はルター派に好意的だったものの、領内に同派が広がるにつれて反対に転じ、1522年にルター派を禁じ、法王と結託しつつドイツにおける反宗教改革の指導者になり、ドイツ農民戦争鎮圧にも尽力した。
https://en.wikipedia.org/wiki/William_IV,_Duke_of_Bavaria
 このように、ざっくり俯瞰してみれば、ドイツ東部(と北部の一部)だけがルター派化する保証は、必ずしもなかった、と言えよう。
 むしろ、決定的契機となったのは、ドイツ農民戦争だった。↓
 「1524年には西南ドイツのシュヴァーベン地方の修道院の農民たちが、賦役・貢納の軽減、農奴制の廃止など「12ヶ条の要求」を掲げて反乱を起こした。ドイツ農民戦争である。神学者であったミュンツァーがこれに呼応して反乱は拡大したが、闘争が激化するとルターはこれを批判するようになり、ルターの鎮圧支持を受けた領主たちによって反乱は鎮圧され、ミュンツァーも処刑された。これにより反乱の主要地域であった南ドイツにおいてはルター派は支持を失い、カトリックが勢力を回復させることとなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E6%95%99%E6%94%B9%E9%9D%A9 前掲
 しかし、そもそも、どうして、ドイツ農民戦争がドイツ南西部で始まり、また、ドイツ南部及び中部一帯に・・北端はゴスラー(Goslar)・・
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/82/Karte_bauernkrieg3.jpg
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%BC
までしか拡大しなかったのだろうか。
 残念ながら、この戦争の日本語、英語ウィキぺディアには、その説明は出て来ない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E8%BE%B2%E6%B0%91%E6%88%A6%E4%BA%89
https://en.wikipedia.org/wiki/German_Peasants%27_War
 私の見立ては、当時、ドイツ南西部が、フッガー家の隆盛
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%83%E3%82%AC%E3%83%BC%E5%AE%B6
に象徴されるように、ドイツの中で最も豊かで先進的な地域であり、同地域の農民達の、知的、経済的、政治的な覚醒度が高かったから、というものだ。
 (神聖ローマ帝国内では、フランドル/ネーデルラント地方も、当時、既に豊かで先進的だった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%96%B9%E3%83%AB%E3%83%8D%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%B9
が、必ずしもドイツ内とは言い難い。
 なお、ネーデルラント地方は、ルター派ならぬ、カルヴァン派が多数を占めるに至り、1648年に、ハプスブルク家/神聖ローマ帝国から「独立」することになる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%80
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E8%81%96%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E5%B8%9D%E5%9B%BD 前掲
 なお、ルター派とカルヴァン派の違いについては、ここでは立ち入らない。)
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(続く)