太田述正コラム#9113(2017.5.24)
<二つのドイツ(その8)>(2017.9.7公開)
 「著者の<この>歴史書は、続く1000年のドイツ史の中心的事実は、静かに勤勉で発展の西部、と、プロイセンの先祖返り的で終わることなき攻撃的な諸力及びそのエルベ河以東の諸同盟者達、との間での、覇権を巡っての終わることなき闘争であることの暴露へと続く。
 <ドイツにおいて>近代国家を創造したのは、典型的な親分風を吹かせるプロイセンのユンカーたるビスマルク(Bismarck)だった。
 彼の北ドイツ連邦(North German Confederation)を通して、彼は、フランスを1870年の戦争へと脅して追い込み、西部の諸領邦を、本質的にはプロイセン帝国へ<の吸収へ>と追い込んだ。
 こうして、二度の諸世界戦争の諸種が蒔かれたのだ。
 オーストリア、と、カトリックの南部、の産物たるヒットラーが矛盾のように見えるとすれば、東独の結果としての輪郭をとぴったり符合する形の東部で獲った諸票が唯一の理由で権力の座に就くことができたことを、著者の有用な諸地図は示している。
 ナチズムの生誕地であるにも関わらず、バイエルンとミュンヘンのビアホール群は、この運動に対して岩のように堅固に反対し、この党は、1933年の総選挙の時に同地域の票の25%未満しか獲れなかった。」(B)
 「ナチ達の諸根拠地は、やはり、ローマの西部ではなく、ルター派の東部だったのだ。
 1932年7月<の総選挙>では、カトリックの南部と西部の中のシャルルマーニュの古の王国から<の得票>は、わずかに17%だった。・・・
⇒ホーズの主張は、意図的に、ヒットラーの生地である、「南部ドイツ」最南端のオーストリアを捨象して行われています。
 第一次世界大戦後、基本的にドイツ人、と言って語弊があれば、ドイツ語地域だけになったオーストリアではドイツとの合併を求める声が圧倒的で、しかも、ナチスを禁止しつつも、1934年、「いわゆるオーストロファシズム体制と呼ばれる[イタリアのファシズム近似の]権威主義体制を打ち立て<てい>た」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AB%E3%82%B9
http://www.y-history.net/appendix/wh1505-001.html ([]内)
のであり、形式上は反ナチ的ではあっても、実質的にはナチと同根の政治体制が樹立されていたからこそ、1938年、ナチスドイツによる武力占領後とはいえ、実施されたところの、ドイツとの合併の可否を問う国民投票で賛成票が97&・・不正が行われたという話はない・・を占めたのです。(太田)
 <第二次世界大戦を経て、>今やドイツは再統一され、その新しい首都は、西部の中のボン(Bonn)ではなく、エルベ河のはるか向こうの、古のプロイセンの首都のベルリンだ。
 もう一度、西部のドイツ人達は、今度は、プロイセンの軍国主義やユンカー達のための農業諸補助金に充当するためではなく、著しく非効果的な福祉諸プログラムの支払いのために、巨額のカネを東部に送り込んでいる。
 <その東部では、>もう一度、極右のドイツのための同盟(Allianz fur Deutschland)<(注15)>の形であれ、共産主義者達の承継者である左翼党(Die Linke)<(注16)>の形であれ、過激主義が蔓延っている。」(A)
 (注15)東独時代の1990年2月5日結成され、東独の総選挙で第一党になったが、同年10月3日にドイツ再統一がなった。
 英語ウィキペディアには、同党が極右である(あった)との記述も、同党の現在についての記述もない。
https://de.wikipedia.org/wiki/Allianz_f%C3%BCr_Deutschland
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E5%86%8D%E7%B5%B1%E4%B8%80
 (注16)「新自由主義的な改革路線を採った党内右派のゲアハルト・シュレーダー首相(当時)率いるドイツ社会民主党(SPD)指導部に反発したSPD最左派が、2005年1月に一斉離党・独立して結成した政党」と「統一前のドイツ民主共和国(旧東ドイツ)の独裁政党だったドイツ社会主義統一党(SED)の後継政党」が「2007年6月17日に正式に合併し」てできた政党。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A6%E7%BF%BC%E5%85%9A_(%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84)
(続く)